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【壱】kijk elkaar aan
護身用のナイフが手から滑り落ちた。
俺の目の前で、兵士が崩れ落ちる。
ぬるりとした感触が掌から伝わり、ドクドクと高鳴る鼓動が聴覚の戻った耳から脳に響き渡ってようやく、状況を理解できるまでに頭が回り始めた。
俺は今、ひとをころした。
敵国の兵士だから。
相手に狙われていたから。
一歩間違えれば俺が殺されていたから。
自分を正当化する言葉が頭の中に浮かんでは消え、震えた指先に力が入らない。
(なんで、俺は一人でここに立っている……?俺の部隊の奴等は……なんで、なんで…)
なんで、誰もいない。
俺は大隊の一衛生兵として従軍していたはず。なのに、周りを見ても動く存在が感じられない。味方はおろか敵すらも、俺の周りには一人として生きている相手がいないのだ。
しんだ。
俺の周りにいたやつは、皆死んだのだ。
「……ッ、…ッ、………ぅ、う」
「ーーーッ!」
ふと、考えることを止めた脳に息を吐くような声音が届く。何もかもを諦めかけた俺にとって、その声音は存在意義を思い出させてくれる救いの声に感じられた。
(そうだ、俺は部隊で負傷したやつらを治療するために存在している)
声量を控えながら、凄惨な光景の地を歩きだす。
「…っ、おい。何処にいる…!まだ生きてるんだろ、俺が助けてやるからっ……!!」
ほんの一瞬、耳をすまさなければ聞こえないほどの声音だった。距離的には離れていないと思うが、地面に転がる死体の数が多く判別できない。
敵地にいる以上、声を張り上げることも出来ず、辺りを警戒しながら探すのはかなり骨がおれるが、幸いにもそう時間もかけず負傷兵を見つけることが出来た。
「おいっ…無事か!?まだ生きてるな、今から治療する。少し待ってろ!」
「……ッ、ーー………ぅ、あ」
か細い呼吸。
虚ろな目で俺を捉え、ゆっくりと、本当にゆっくりと、腕を上げていく。
二の腕から流れる血に目を奪われ、急いで止血しようと布を手に取ったところで、負傷兵はかすかに言葉を紡いだ。
「ぅ、し…………ぁ………なぃ」
「なぁ、何してるんだ」
紡がれた言葉は第三者の声によって遮られ、上げられた腕は、ー俺の背後を指して止まる。
"うしろ、あぶない"
負傷兵は、そう伝えたかったのだろう。
それっきり脱力した腕が地面に勢いよくおとされていく。それを寸前で受け止め、血の止まらない腕の肩口を布でキツく縛り止血する。
死ぬ前に、俺がやれることをやっておくつもりだった。
「怪我……治してるのか?」
尚も話しかけてくる声音は、幼さを残していた。
敵ならば、すでに俺は殺されているはず。
けど未だに痛みすら感じられず、敵国の兵士にしては危機感のない問いかけ。あぶない、と言われていなければ俺は間違いなく緊張を解いていただろう。
事実、俺は安堵していた。
聞こえた声が幼かったから。すぐに相手を殺すような人物ではなく、たまたま通りかかった子供なのだろうと。
そう、後ろを振り返るまでは思ってしまっていたのだ。
「……あのさ」
抱えられた銃、敵国の軍服。
血にまみれたその姿は安堵できる存在とは到底思えない。解きかけた緊張が瞬時に張りつめ、体が強張ってしまう。
しかし、俺の役目は敵国の兵士を殺すことじゃない。一瞬固まりかけた腕を動かし、眼前の負傷兵の治療を再開させる。
「殺すなら、コイツの治療がおわるまでもう少し待ってくれ」
「……」
敵相手に"待て"なんて、俺もおかしくなってしまったのだろうか。
背後の少年兵は、俺の言葉に返事を返さず一度息を飲み込み掠れた金属音を響かせる。
それは、弾薬を詰め替える音だったのか、安全装置を解除した音だったのか、引き金に指を置いた音だったのか。
(ああ、死ぬのならせめてコイツだけは治してやりてぇな)
凪いだ思考の中、
「たのむ、助けてくれ」
その一言が、大きく波紋を広げて俺の耳に飛び込んできたのだ。
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