花の塔

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【花の塔】 「ネル」 「ん」 写真部の部室で僕はネルの傷を手当する。 打撲。鬱血。擦過傷。裂傷。 消毒液を含ませたガーゼを当てるたびに、ネルは不愉快そうに顔を顰めた。「悪いな」僕は言う。 顔や手脚、制服から露出した目につく場所は綺麗なままだ。ネルはいつも長袖のシャツを着ており、長い前髪に額や眼は半ば覆われている。なのに顔や腕まで徹底して無傷とは、周到なものだ。 古典的なやつらめ。 僕は思うが、どうしようもない。それは効果的だからこそ古典であることができたのだ。 「…………ネル」 「なに?」 「…………………」 僕はネルの指先を見つめたまま、言葉に窮した。 「悪い、なんでもない」 「ん」 ネル。 彼女の本名は、寝屋川 照(ネヤガワ テル)といった。 照(テル)という名前が男の子らしくて嫌だと幼少期の彼女が言ったので、僕はそれから、氏名を省略して彼女をネルと呼んでいる。 「痛むか」 「そりゃ、まぁ」 「また『城崎』か?」 「そりゃ……まぁ」 「そうか」 僕は手当を続けた。 ネルは虐められている。 僕は『いじめ』という言葉が嫌いだった。 そりゃ、善良なたいていの人は嫌いだろうけど、僕が言いたいのはそういう意味じゃない。 ひ弱で、痩せっぱちで、脆弱な写真部員であるネルを寄って集ってタコ殴りにし、その他諸々の暴力を振るう行為は、僕に言わせれば単なる傷害だ。殺人未遂と言ってもいい。 だから、『いじめ』なんていう軽い言い方は嫌いだった。 共感が得たいわけではないけれど、多分、似たことを思っている人は少なくないだろう。 …………城崎の話をしよう、まだ手当が終わらないから。 彼女の名前を、城崎美咲という。 城崎美咲。 うちの学校で有名な女生徒だ。 まるで漫画やアニメのようにいつも取り巻きを数人侍らせている女で、まるで漫画やアニメのように高慢で独善的な性格をしていた。 なんだか知らないけど、親が地元の名士で権力者だとか、そういう話を聞いたことがある。 別に僕だって親の地位と娘の高慢さに因果関係があると思いたくはない。思いたくはないけれど、現実として城崎美咲は高慢で、彼女の父は権力者だった。 そして城崎美咲は、まるで漫画やアニメのように、善良で脆弱なネルを敵視していた。 この傷害も、全てそれが原因だ。 きっかけは確か1年半ほど前だった。 ネルが、ある男子生徒からの交際の申し出を断ったのだ。 まるで漫画かアニメのように……いや、もういい。 そしてその男子生徒が、半ば案の定とさえ言えるようだが、城崎美咲が想いを寄せる男だったというわけだ。 逆恨み。 逆恨みという言葉の実例として辞書に載せてもいいくらいに、ネルは恨まれた。そして、謂れのない暴力を振るわれるハメになった。 「悪いな」 「別に、ナツが謝る必要ないよ」 「………いや」 僕は歯軋りをして、ネルの太腿の傷に絆創膏を貼った。 ネルは、顔を顰めてばかりいた。 ネルは笑わない。 笑えなくなってしまった。いつからか。 最後に彼女が笑ったのがいつだったのか、僕は知らない。最後に笑った顔を見たのは、もう2年も前の話だ。 ✴︎ 僕は主人公ではない。 いつも、自虐的にそう思って生きてきた。 僕自身が弱腰で、臆病者で、自分を取り巻くいろんなものから逃げ出してばかりいる事実に対して、合理的な言い訳を探す為に。 だが、その自虐は、ネルが傷害を加えられるようになってから、一層情けなさを増した。 僕が主人公だったなら。 僕が主人公だったなら、ネルの為に何が出来るだろう? 城崎美咲の取り巻きがみんな小煩い女ばかりだったなら、せめて僕が全ての罪を被ってそいつらを殴り倒すことも出来たかもしれない。 けれど、まさかそんなわけはない。 奴の取り巻きには屈強な男もいて、僕はそんなのに立ち向かう勇気も力も持たなかった。 僕がダークヒーローだったなら。 僕がダークヒーローだったなら、城崎の権力を逆手にとって、何か強いものを味方につけ、彼らに対抗することも出来ただろう。 けれど、僕にはそんな勇気も知恵も持たなかった。 だから、僕は写真部の部室で震えていた。 ネルと僕の最後の砦だったそこで、ネルが怪我を負って帰ってくるのを手薬煉引いて待っていた。 そして、ネルの傷を手当した。 それは果たして、本当は何を手当していたのだろう? 本当にネルの傷だったのか? ネルの身体を借りた、僕自身の腐った心そのものの傷ではなかったのか。 「ネル…………」 僕は、部室に置かれた壊れ掛けのパイプ椅子の上で膝を抱えて座り、彼女の名前を呼んだ。 彼女の名前は、僕にとって大量の防腐剤を含んでいる。そんなふうに、僕には思えた。 ✴︎ 防腐剤に当てられて気分が悪くなった頃、僕は密かに決意した。 せめて、ネルを笑わせようと。 再びネルを笑わせて、僕といるときだけでも笑っていられるようにしようと。 それくらいのことなら、きっと出来るだろう。 たとえ主人公じゃなくても。 ✴︎ 傘を差さなくても歩ける程度の雨が降っていたある朝、僕は絆創膏の補充と一緒に、漫画を30冊ほど部室に持ってきた。 ネルは先に来て課題をやっていた。左手で。 ネルは右利きだ。けれど、彼らに殴られて突き指をして、一時的に利き腕が使えなくなってしまっている。指にあるのは僕が巻いた包帯だった。 「おはよう、ネル」 「おはよ……」 眠そうに挨拶をしてから、ネルは僕の持つ紙袋を指した。 「それ、なに?」 「これね、漫画」 紙袋に入れた漫画を机の上に広げた。 サイズも厚みも様々な漫画たちが机の上に陣取る。 ネルはそれを、興味深そうに指先でついた。 「放課後に読もうぜ。面白いのを選んできたんだ」 僕は、さも面白い技を披露した手品師のように戯けて言った。ネルは表情を変えないまま「漫画なんて、久しぶりに読むや」とページをめくった。 「ナツ、こういうの好きなの?」 「漫画のこと?」 「漫画っていうか…ジャンル?」 「あぁ………いや、別に」 「ふぅん」 僕は僅かな動揺が露見しないよう注意した。 机の上に散らばった漫画は、主に陽気で明るい、勧善懲悪の物語ばかりだった。言われて気づいた。 別に、僕がそういうのを取り立てて好きなわけじゃない。けど、適当に選んできたら無自覚にそういうのばかりになってしまった。それだけだ。 「いいね。読もう読もう」 ネルは課題を閉じると、早速一冊めを読み始めてしまった。 「課題はいいのかよ?」 僕は安堵したのを隠すように、ネルの正面に当たる椅子へ座る。 「ナツ、あとで教えてよ」 「任せろよ。僕、成績だけは悪くないんだ」 「知ってるよ」 「あとさ、この漫画、一冊持って行っても良い?」 「教室に?」 僕は言う。ネルは頷いた。 「構わないよ」 「バレないようにするからさ」 「没収されたっていいよ。漫画の一冊くらい」 ✴︎ 『………これなかなか面白かった。2巻、ないの?』 雨の降る放課後、ネルが帰ってくる。僕がいつも通り手当をしていると、ネルはふとそんなことを言いだす……… 僕はそんな期待を抱きながら、救急箱と一緒にネルを待っていた。 だが、彼女はなかなか現れなかった。 いつもなら城崎たちから解放されて部室に戻ってくるはずの時間になっても、ネルが現れないのだ。スマホを見ても、特に連絡はない。 何かあったのだろうか。 いや、最悪なことに、何かあることは確定しているのだが、いつも以上に悪い事態が発生しているのではあるまいか。 そう思い、僕は部室を出た。ネルを探すのだ。 だが、一応は多少の勇気を絞り、勇んで部室を出た僕の気持ちに反して、ネルが現れなかった理由はすぐに知れた。 部室を出てすぐの階段で、ネルが倒れていた。 ✴︎ 写真部の部室は棟の4階にある。 ネルは3階と4階の間にある踊り場で倒れていた。意識はあったから、厳密には蹲って動けなくなっていた、というほうが正しいが。 「おい、ネル!」 僕は彼女を揺すり、意識のあることを確認すると、肩を貸して部室に戻った。 手当をして考えてみるに、ネルは背中をいつも以上に強く痛めつけられていた。 どうしてこんなことになってんだよ。 だが、僕が訊くより早く、その答えも知れた。 「ごめん、ナツ、漫画……取られちゃって」 消え入りそうな声で、ネルがそう言ったから。 なるほど。 僕は合点がいった。 ネルは僕が貸した漫画を奪われそうになって、蹲る体勢でそれを守っていたのではないだろうか? それで上から蹴られるだの踏まれるだのした。結果的に漫画も奪われた、そんなことだろう。 そんなもの、どうでも良かったのに。 「気にすんなよ………他、痛いとこないか」 「ん」 「ナツ」 「なんだよ」 「ごめんね」 「……………2巻、あるけど」 「読み切れなかったんだ。1巻」 「……そっか」 ✴︎ その日、僕たちは珍しく一緒に帰った。 僕はネルの荷物を全て持ち、時に肩を貸した。 いつもは別々に帰るのだ。 俺たちは幼馴染ではあるが、帰り道は微妙に別方向だというのもあるし、いつかネルが『帰り道であいつらに襲われたら、ナツが巻き込まれちゃうからさ』と言ったのもある。 本来僕は『そんなの関係ねえだろ』と言い、誇り高い度胸と義侠心をもって彼女を守るべきだったのだが、そんなことはできなかった。 「……………なぁ、ネル」 「ん?」 「覚えてるか?2年前、2人で夏祭りに行った」 「覚えてるよ」 忘れるわけないじゃん。 ネルが懐かしげに言う。 「あれ…楽しかったよな」 「ん」 「……思い出せないんだ。僕」 「何を?」 僕は唾を飲み込んだ。 荷物を持つ手に、僅かながら力を込める。 「あの日、ネル、金魚掬いで僕が失敗したの見て笑ってたろ」 「ん」 「あれなんだよ。あれが僕の覚えてる、お前の最後の笑顔なんだ」 僕は半ば勢いに任せて、いや、実際は大した勢いなんてなかっただろうけど、言った。 ネルは、俯いたまま何も言わない。 「なぁ、ネル。お前あれから1度でも、僕の前で笑ったか?」 こんなことを訊くのは酷だと、自分でも分かっていた。訊くべきときが今ではないということも、少なくとも察しはついていた。 だが、こんなことをいつ言えと言うんだろう。 適したタイミングがいつあると言うんだろう。 ネルは、小さくかぶりを振った。 それが最後だった。 それが、質問に対する最後の返答だった。 代わりに、ネルは口を開いた。 「あれからさ。ナツはいろいろやってくれた」 「……………」 そんなことはない。 僕は何もしていない。 そう言おうと思ったが言葉にならなかったので、仕方なく僕は前だけを見て歩いている。 「部室で手当してくれるナツだけだよ。今時わたしに声かけてくる奴なんて」 「……………………」 それがなんだ。 僕じゃ何も変えられないじゃないか。 「だから、ナツには感謝してるし、悪いと思ってる。でも………」 「……………………………」 何も悪くない。 ネルは何も悪くない。 『でも』なんだ。 ネルは、表情を変えないまま話した。 「もう、やりたいことなんてないんだ。もう、死にたいだけなんだ。わたし」 「…………………………………………」 僕は、ただ前を向いて歩いていた。 今、ネルは「もう死にたいだけなんだ」と言った。僕は、僕はどうすれば良い? 「そっか」 そうとだけ言って、あとは本心に任せようと思った。そして、幼い頃からよくやっていた、本音を言う方法を使った。 それは息を大きく吐いて、目を閉じて、何もかもを頭から追い出すことによって、溢すように本音を言うという技法だった。 息を吐く。 目を閉じる。 「僕はもう一度ネルの笑顔を見られたら、死んでも構わないよ」 僕は声にした。 「そっか」 ネルは、どこか嬉しそうに言った。 それでも、決して笑わなかった。 「多分、笑うと思うよ。最後にやりたいことができたときには」 ネルは、僕の心を見通したように言う。 「じゃあ、その時に死のう」 僕は笑って。 ネルは笑わなかった。 ✴︎ ネルを家に送ったあと、僕はもちろん、自宅へ歩みを向けた。やることなんてない。 結局、ネルと話し合いの末、死ぬことに関してはまた考えようという話になった。別にこのあと一緒に崖まで行って身を投げようかとか、お互いに手首を斬り合おうとか約束を交わしたわけではない。 僕はイヤホンを耳に挿す。 聴き慣れた、ネルと同じ名を名乗るアーティストが作った曲が流れてくる。 『言わば人生のクーデター 勝ちも負けもない延長戦 僕らの反撃前夜』 『一部屋で起きたインティファーダ 兵士も指揮もいない防衛戦 僕らの革命前夜』 『命は輝いてこそ命だ 』 ✴︎ 誰でも。 僕のように軟弱な卑怯者でも、ネルのようにひ弱な傷害被害者でも、誰であろうと反撃の刃を一枚だけ持っている。 命と引き換えに突き付ける命懸けの刃を、一枚だけ。 ✴︎ そんなことをしたのは、もう良いか、と思ったからだ。 ネルは死ぬ。 その笑顔を見られたら、僕も死ぬ。 それだけ固めて仕舞えば、あとはそれほど小難しいことを考える必要はなかった。 マラソンで数十キロ走り抜けてきて疲労困憊でも、ゴールが見えたらあとは力を出し切ることができる。感覚としてはそういうのに似ていた。もはや、隣のランナーとの駆け引きは必要ないのだ。 というわけで、僕は城崎たちのもとを訪れていた。 朝の学校だった。おそらく、部室にネルが登校してくるか否かというくらいの時間帯だ。城崎の教室では、取り巻きたちに囲まれて城崎が談笑している。 僕は、他のクラスメイトたちに怪訝そうな視線を向けられながら彼女の眼前まで歩き、言った。 「城崎美咲って」 僕の喉は、知らないほど低い声を出した。 「あたしだけど?」 城崎が棘のある声で言う。「何の用?」 「寝屋川照のこと、知ってますか?」 久々に、ネルをその名前で呼んだ。 すると 「なに?あの淫乱女がどうかした?」 きゃはは。 と『それ』は音を出した。 おいおい。 沸々と。 怒りとも違う、呆れとも違う、情けなさとも違う、冷たい衝撃が脳を抜けていくような気がした。熱いのに冷たい。その感情は、まるで不思議な血液だった。 そして、拳に嫌な感触が残った。 何が起きたのか認識したわけでも、何を起こすと決意したわけでもない。ただ、気が付いたら目の前にいたものに拳を叩きつけていたらしい。 滑りをもった汚物が拳のなかへ入り込んでくるような、おぞましい感触があった。 「てめぇ!何しやがる!?」 横から声がして、警告もなく顔面をぶん殴られた。激しい衝撃があって、近くの机に倒れ込む。まだ登校してきていない学生だろうか。悪いね。 辺りから悲鳴が上がる。 顔を上げると、大柄な取り巻きの男が拳を振り下ろしたところであるらしいことが分かった。 つまらなさそうな表情で、コキコキと首の骨を鳴らしている。 デカすぎだろ。こんな連中が、ネルをいつも。 僕はよろめく脚に鞭打って立ち上がる。 再び拳を握り「クソが!」男の顔面に突っ込んだ。 だが、どうやら全く効いていない。 僕の拳は軽く受け止められ、腹を数度蹴られた。痛すぎる。 なんかの臓器が爆発してるんじゃないか? 反射的に身体が丸まるが、強制的に身体を起こされ、顎を2、3発しばき回された。 僕は決して大柄ではない。体重も60キロとかそれくらいだ。平均的体型と言っていい。とはいえ、こうも容易く人間が吹っ飛ぶのか、と思うほど飛ばされる。 割れるような金属音を立て、身体が横開きのドアにぶつかった。 ちくしょう。 めちゃくちゃ弱えじゃねえか、僕。 何が『僕は主人公じゃない』だよ。 言うまでもないくらいのボロボロっぷりだ。 出来るものなら全力で逃げ出したい。 というか、周りの野次馬どもは教師を呼びに行け。早く助けてくれ。 まるで主人公には似つかわしくない感情を抱きながら、僕は城崎……そうだ、城崎だ。目の前にいる連中を睨む。 「お前さ、寝屋川のなんなの?」 は?僕が訊きてえよ。 「寝屋川と仲良いんだっけ。部活かなんかで」 さっきから質問をしているのは、僕をタコ殴りにしていた大男だ。『仲良い』のアクセントを、やけに卑猥に響かせる。 「今度お前ら、ヤれよ。俺らの前で」 「死ね」 取り敢えず無駄な抵抗でそう言ってみた。 だが嘘だ。死ぬのは僕らの方だ。それも自殺で。 こういうとき『加害者』たちは容赦をしない。 少しでも反抗的な奴には、徹底的に自分の力を分からせようという姿勢を見せる。 そういうわけで、僕はそこからさらに信じられないほど殴られ、蹴られ、端的に言うとボコボコにされた。 何故いつもネルの顔や手脚を傷つけないのか分からないくらい。 なに?僕とネルって身分差でもあったの? ✴︎ 放課後、部室にネルが現れた。 僕は結局あれから、人の寄り付かない校舎裏に連れて行かれ、1限の途中くらいまで例の大男に殴られ続けた。 あまりの暴力にこのへんは日本国法が通じない特区なのかと勘違いし始めていたのだが、どうやら男の方も殴り疲れたらしく、僕は校舎裏に放置された。 そして、2限に当たる時間からは部室に引きこもり、1人で傷の手当をしていたというわけだ。 痛ってえ。手当は慣れてるからいいけどさ。 「ネル、お前頑張りすぎだろ」 僕は、あまりに練習熱心な野球少年を宥める父親のような口調でネルに笑いかけた。 あんな連中に毎日やられるなんて考えられない。 「ナツがそんなことする必要なかった」 「必要なんて言っちゃおしまいだよ」 僕は苦笑する。 それで言えば、元々人間を殴ったり蹴ったりするのがまかり通ってる時点でおかしいんだ。 「ネルはどうして今まで死ななかったんだ?」 普通さっさと死ぬだろ。毎日アレやられてたら。 「……考えてなかった」 「死ぬことを?」 「ん」 ネルは、退屈そうに救急箱を見た。「あ、手当、やるよ。怪我してるだろ」 「………… ん」 僕の方も片腕折れてんじゃねえかなと思いながらも、それをネルの前では出来るだけ出さないようにしながら手当をした。 「ナツがいたからかな」 ネルは、途中で言った。 「僕は何もしてないよ」 「そんなことないって」 どうせ死ぬのに、手当いる? 一瞬、そんなことを思ったけれど、僕も殴られたあとは死ぬほど痛かったから、ネルの手当も丁寧にやろうと思った。 ネルはその間、無表情で漫画を読んでいた。 「これ、続きある?」 「次の巻で終わりだ、確か」 「じゃ、それ読んだら死のっか」 「…………そうしようか」 それは明日のことだろうか。 それとも、この後のことだろうか? 別に漫画1冊なんてものの30分で読めてしまうのだから、この直後でもなんらおかしくない。 僕には察しがつかなかった。 けれど、少なくともその日は、ネルが1冊読み終えると同時に傷の手当が終わり、最終巻を読むのは先送りになったため、僕たちは生きて帰ることができた。 いや、できたというか、生きて帰った。 事実として。 ✴︎ 「ねぇ、ナツ」 ネルは言った。 僕は星を見ていた。 「わたしたち、もうどこにも行けないのかな?」 ネルは2年前、夏祭りで金魚をすくった。 僕はそのことを覚えている。だって、その日がネルが笑った最後の日だから。 僕は答えられなくて、代わりに訊いた。 「あのときの金魚、まだ生きてる?」 ネルは首を横に振った。 僕はもう1度空を見る。 「じゃあ、もうどこにも行けない」 どこにも行けない。僕は繰り返した。 そして死ぬ。アスファルトの上で、潰れて。 ✴︎ その夜、僕はふと考えた。 どうせ死ぬなら、城崎たちを幾らか殺すくらいのことしても良いんじゃないか? もう痛いのは勘弁してほしい。 だが、隙を見て不意打ちで1人か2人殺すくらいならいけるのではないか。こちらに注意が向いていない間に2人ほどやってしまえば、どさくさに紛れて逃げおおせるかもしれない。そのあとすぐに死ねば、なお良い。 そんなことを思った。思いついてしまった。 しかし、いつだ? 奴らに『隙』が生じるのは。 隙がなければ、僕なんかが奴らに敵わないのは身をもって証明済みだからだ。 僕は考えた。 いや、しかし、多分『考える』なんて大それた行為をするまでもなく、僕はその答えを見つけた。 「ネルがやられているときだ」 今まで1度もネルを『助けに行く』勇気など出なかったのに、タガが外れて殺す決意が固まった途端にこんなものだ。 やはり、僕は主人公なんかではない。 『僕らの革命前夜』 イヤホンの奥で、残響が歌った。 ✴︎ 放課後。 その日、僕は学校を休み、昼まで眠り、ホームセンターへ行き、包丁を手に取り、レジに向かい、パッケージから出し、ベルトとズボンの隙間に挟み、学校へ早足で歩いた。 僕は今から城崎を殺す。 自分に言い聞かせた。 本当に彼女を殺すべきは、いや、殺したいという恨みを抱くべきはネルなのではないかとか考えない。城崎たちを殺そうと考えたのは僕だ。僕が犯す殺人だ。本当はもっと前に殺すべきだった。そうしていれば、少しはマシだったかもしれない。 何が? ネルが。僕が。僕たちが。 やり遂げる。絶対に殺す。 学校まで早足で歩きながら、殺すことをリアルに想像した。まず手近にいた奴を刺す。城崎ならなお良い。ボコボコにされた大男でも悪くない。顔面から刺す。抵抗する気力を削ぐ。次に心臓だ。初めに心臓を刺しても、しばらくは死なない可能性があると聞いたことがあるから。 できればもう1人、もう2人刺す。 次々に刺す。中途半端で終わっても良いが、刺したなら殺しきれ。 顔を上げると、部室の前に辿り着いていた。 ネルがやられている場所を探さなくては。 どこだ?奴らの教室か。 そう思ったが早いが、僕はポケットのスマホが僅かに光を放っていることに気が付いた。 なんだ。スマホか。 城崎を殺すのに必要なのは包丁だけだ。 だが、もしかしたら重要な、何か大事な連絡かもしれない。僕は1日学校を休んでいたわけだし。 果たして画面には、こうあった。 「ナツ。今日死のう」 一文。 そして、もう一件。 「放課後、いつもの時間に、部室の下にいて」 いつもの時間。 ネルが、やられて部室に帰ってくる時間。 それまでは、まだ時間がある。当然だ、そのために僕はこのタイミングで学校に来たのだから。 だが、部室の「下」? 窓の下、ということだろうか。 部室は4階だから、学校の駐車場に出れば立地的に「部室の下」ということにはなる。 まさか、3階の教室にいろというわけでもあるまい。 しかし、今日死のうということは、ネルはあの漫画を読み終えたのか。笑ってくれただろうか、そんなことを、僅かに考えた。 深呼吸。 包丁の在処を確かめる。 そして、自分が奴らを刺すイメージを固める。大丈夫、殺せる。きっとうまく行く、何もかも問題ない。無問題だ。 と、そのとき。 「ナツ……………?」 と、僕は呼ばれた。 なぜか、血の気が引いた。 僕のことをそう呼ぶのは、1人だけだ。 首が取れそうな勢いで振り返る。 そして、僕は目を見開いた。手が震えた。 そこには、もちろんネルがいた。 いつもより帰ってくるのが早い。 だが、重要なのはそこではない。 隣に、僕のことをタコ殴りにした大男がいた。 「………………お前」 「おぉ。寝屋川の彼氏かよ」 奴はそう言うと、ネルの肩を抱いた。 僕は脳が沸騰しそうになる。だが、どういうわけか包丁は出せなかった。 「そうだ、お前らさ、俺らの前でヤれって言ったよな。こないだ」 「黙れよ」 「なんだ?女の前じゃ強気だな」 ネルは震えていた。僕も震えていた。当たり前だ。戦えるわけがないし、なんなら現実として数日前に殺されかけている。 「まぁいいや」 だが、僕の予想に反して、大男は ドン、と。 ネルの背を押した。ネルはふらつきながら僕の方に向かってきて、よろめく脚を堪えきれず崩れ落ちる。 「…………どういうつもりだよ」 「どうもこうもねえよ。そいつ、もう終わりだから。城崎も満足したって言うからさ………なんせその女」 「やめて!!!!!」 今度は、ネルが叫んだ。 聞いたこともないほど大きな声で、ネルが叫んだ。俯いたままで。それは大男の言を遮るように、遮るというより、遮断するようだった。 僕は呆気に取られ、何も言えないでいる。 大男は戯けて『おお恐ろしい』と肩をすくめると、そのまま去って行ってしまった。 結局、包丁はベルトとズボンに挟んだままで、全く出番がなかった。 ✴︎ 「………………ネル」 僕はネルを呼んだ。 何を言うこともできなかった。 「漫画、全部読んだの?」 辛うじて訊くと、ネルは頷いた。 そして、言った。 「死のう、ナツ」 ネルの服ははだけていた。 僕はその意味を考えなかった。 分からなかったのではない。頭の中に存在する『現象の意味を会議する議場』みたいなところに、その議題を通さなかったというだけの話だ。 もしかしたら、包丁が架空の法案用紙を叩っ斬ってしまったのかもしれない。それならそれでよかった。使い道があったのなら。 僕は、出来るだけ無感情にネルの顔を見た。 ✴︎ 僕はネルが部室に入るのを見送ると、連絡が来ていた通りに、部室の下に移動した。駐車場に出る。 部室は4階にある。 その窓からこちらを見下ろすネルは、笑っていた。 ようやくだ。 ようやく、ネルは笑った。 だが、2年前、夏祭りで見たあの笑顔とはまるで違っていることが、もう霞んでしまった僕の眼でも容易に分かった。 ああではなかった。 それだけが分かる。 アハ体験映像で、どこかが変わったことは分かるのに、指摘はできない。そんな感じ。 ネルは、変な顔で笑っていた。 変な顔。 それは人間をやめたような、振り切れた笑顔だった。 「いっくよー!ナツ!」 ネルが躊躇いなく窓枠に脚をかける。 後ろの方で、誰かが悲鳴を上げた。 それを号令にしたのか、ネルは飛んだ。 その歪んだ、いや、あまりにも透き通っていて、振り切れていて、歪んでいないからこそ歪んでいるような笑顔のまま、飛んだ。 僕に向かって。 飛んだ。 「もっと早くこうすればよかったんだ!」 ネルは叫んだ。 僕は死ぬ。 ネルの笑顔が見られたから。 ネルが4階から落ちてくる。 僕はそれにぶつかって死ぬ。 今にも僕に向かって、ネルの形をした何かが突っ込んでくる。
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