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本当は万年筆だけ取って帰る予定だった。
今日は年休を取っていたのだ。辞表を書くために。
俺の勤める学校は極めてブラックだった。
日本の教師は事実上最強のブラック企業で、残業早出は当たり前。しかも余程の子供好きでもなければやりがいもあったものではないというのは有名な話だったが、どうやらそれは本当らしい。
大学卒業後、なぜか手にしていた教員資格で高校教師になった俺には手に余る職務だった。
朝は6時に家を出る。
夕方4時に授業が終わり、夜の7時に部活が終わる。9時過ぎに雑務を終え、車で家に着いた頃には10時だ。当然ながら、翌朝も5時過ぎには起きなければならない。よって、深夜0時前には眠りにつく。
ふざけてるのか。
そういうわけで、俺は辞表を書くつもりだった。
辞表。仕事を辞めるぞという通達である。
そのための年休も取得したわけだが、昨日の夜、万年筆を学校のデスクに置いて帰ったことに気が付いた。
俺は逡巡した。
そのへんのボールペンでサッサと書いてしまおうか。もしくはWord。
………いや、いくら辞めるとはいえ、辞表くらいは丁寧に手書きで書くのが礼儀だろう。
そこへ行くと、1番書きやすいのはあの万年筆だ。そういうわけで、翌朝、俺は他の先生に怪しまれぬよう、朝6時前には学校の職員室で万年筆を回収していた。
一件落着。
その後、帰宅しようと職員玄関へ続く廊下を歩いていたときだった。
屋上へ続く階段を登る、海原命を発見した。
✴︎
「迷惑だからやめてくれよ」
俺は屋上のフェンス、その向こう側に立っている海原命を呼び止めて、言った。
海原は首だけで振り返った。
もう一歩踏み出せば地上へ真っ逆さま、そういう位置に、海原は立っている。
朝焼けが海原の頬を照らす。
俺は屋上のドアを閉め、そちらへ向けて歩み寄って行った。
「東郷先生」
海原が言う。
彼女は、たしか2年生の女生徒だ。
俺は授業を受け持っていないが、見かけたことがあるので覚えている。亜麻色の髪と、整った顔立ちが特徴的だった。
無論その程度の認識しかなかったので、海原が自殺しようとしていたことも知らなかった。
戻ってこい。迷惑だ。
俺は再び呼びかける。
「自殺をそんな止め方する人、聞いたことないですよ」
海原が笑った。「知るか」
「先生に関係あるんですか?」
「大ありだ」
俺は明日にでも辞表を提出するつもりなのだ。
にも関わらず、こんなところで朝っぱらから自殺者が出てみろ。学校はてんやわんや、テレビの取材やら保護者への説明会やらも避けられないだろう。
そんななかで「辞表を提出させてください」なんて出来るわけがない。ドサクサ紛れという手もあるが、どうせ一悶着が落ち着くまではこき使われるに違いない。
「俺はいちはやく教師を辞めたいんだ」
しかし、そんな説明を海原にしたところで栓あるまい。しかも第一発見者になるのも面倒だ。
「誰か悲しむんじゃないか?」
適当なことを口走る。我ながら適当だと思った。
「誰が?」
「さぁ、俺とか」一応悲しむ。面倒くさいから。
「なんで知らない人の気分まで気にして生きなきゃいけないんですか」
「確かに」
さて、どうしたものか。
俺にはもう策がない。
けど、ここで死なれるのは面倒くさい。
俺が頭を回らせていると、海原が不意に言った。
「先生」
「は?」
「じゃあ、お願いがあるんです」
「何」俺は短く返す。長々喋っていると、海原が落ちてしまいそうで怖かった。
「ドライブへ連れて行ってもらえませんか?」
「……………ドライブ?」
海原の身体は完全にこちらへ向き直っていた。
「ドライブ。東郷先生、車はお持ちですよね?私、そのドライブ先で死ぬので、そこまで連れて行ってください」
海原は言う。
確かに車は持っている。俺は車通勤だ。
だが意味がわからない。
意味は分からないが、とにかく、ここで自殺されるのだけは避けるのが最優先事項だということはハッキリしている。
「分かった」
俺は深く考えずに答えていた。
「ドライブに連れて行ってやるから、ここでは死ぬな」
海原がまた笑った。
笑っていると、まるで本当なら死んでいたはずの人間には思えなかった。
海原は俺の言葉に「言質とりましたよ」と釘を刺すと、軽い身のこなしでフェンスを飛び越え、こちらに着地した。
そして、さながら英語の命令形で
「drive」
と口角を上げた。
✴︎
エンジンが唸る。
久しぶりに2人分の体重を乗せた愛車はやっと馬力を発揮できるとばかりに声を上げ、空いている平日朝の高速道路を快走していた。
「はぁ………」
なぜこんなことになったのか?
もちろん理由は分かっている。だがプロセスを理解するのを脳が拒んでいるような気分だった。
自殺志願者の女子高生に「ドライブへ連れて行け」と言われたので車に乗せ、朝っぱらの高速道路を120キロで飛ばしている。目的地は女子高生の自殺場所である。
ふざけている。
世の中に自殺志願者は数あれど、止めに入った大人にドライブへ連れて行かせる奴は海原くらいのものだろう。
「なんかさぁ」
俺は何か言ったほうがいい気がして口を開く。
「何で死のうと思ったんだ?」
「死ぬのに理由が必要ですか?」
「まぁ、多分」
理由もなく死なれたら困るんじゃないかな。
俺は適当に答えたし、事実そんな感じに思ってもいたけれど、別に誰が『困る』のかは分からなかった。
『〇〇という人間がいなくなった』
その事実が、世界の新たなる鉄則として上書きされるだけのようでもある。
「私にはむしろ、生きることに理由が必要なんじゃないかと思いますけど」
「あぁ………」
やっぱりそうだよな、そうだと思ってた、とか言うこともできず、俺は「そういう考え方もあるかもしれない」と、何も言っていないに等しいことを言った。
「なんで生きなくちゃいけないんですかね」
海原は窓の外を見ている。
路肩に鳥か何かが死んでいた。100キロオーバーで走行する車に轢かれたのだろう。俺の車も例に漏れず、その隣を120キロで駆け抜ける。
「多分、ああだから生きなくちゃいけない、こうだから生きるべきだ、なんてことは別になくて」
俺は、ぼんやりと言葉にする。
「世の中がそういう前提で出来てるんだ」
「前提」
「そう。前提」
ラジオのダイヤルを捻る。
ロシアとウクライナの戦争はまだ続いていた。大国ロシアは世界的に見れば霞みたいな経済規模の小国を相手に手間取っていて、日本は抵抗する兵士たちを英雄のように報じている。
「当たり前だけど、宗教も、会社も、全て今を生きる前提で存在する。それを崩しちゃいけないんだよ。戦争と同じで『俺は祖国が滅ぼされても良いから帰ります』なんて奴は、本来いちゃいけない」
もっとも、前提が間違っている場合は往々にしてあるのだけれど。
「宗教って、死んだら天国に行けない的なヤツですか?」
「そうそれ」
海原は話が分かるらしい。
人気がある、というか、大きな宗教の死生観は突き詰めればほとんど同じだ。
とにかく生きる。
いずれは死ぬ。
生前に頑張っていれば、天国に行ける。
その天国が、とにかく最高の場所。
判を押したようにそういう感じ。
「自殺したら天国に行けないのは何故だと思う?」
今度は俺から質問した。
海原はこちらを見た。トンネルに入る。
「神から与えられた寿命を捨てるのは冒涜、みたいな話じゃないですか」
「そう」
「正解?」
「惜しい。もう一歩踏み込める」
ラジオ放送にノイズが走った。が、トンネルを抜けると音響は安定した。
「自殺しても天国へ行けるなら、みんな自殺しちゃうからさ」
大学時代、確か授業の影響で多少キリスト教に触れたことがある。
真面目に研究した、とか言うほどではないけれど、少なくとも、なるほど天国が良い場所だということくらいは把握できた。
ただ死ぬだけであんな場所に行けることが分かってしまえば、みんな自殺して現世から天国へトリップしてしまうだろう。
だから、自殺は厳禁なのだ。
「前提」
海原は言った。
「そういうこと。多分ね」
俺はアクセルを踏み込んだ。
標識が見える。
「サービスエリアにでも寄ろうか」
隣に座る海原に訊いた。「私、サービスエリアとか行ったことないんですよね」
海原は言う。
「別に目的地にするものじゃないけどね」
俺はサービスエリアを観光地みたいに言う海原が面白くて、少し笑いながらまたアクセルを踏む。
✴︎
閑話休題
✴︎
さて、今しがた立ち寄ったサービスエリアを抜け、俺と海原は再び高速道路を疾走していた。
朝のサービスエリアはドライバーの天国だ。
少なくとも俺と女子高生の2人組は大層目立っただろうが「あなたたちは不審ですよね」と詰問してくる奴がいるわけでもない。
結局海原はアイスクリームと、併設されていたパン屋のクリームパンを、俺はサービスエリア特有の自動販売機で割高なコーヒーを、それぞれ買った。
「アイスクリームとか食べて良いですか?」
「勝手に買えば良いよ」
「お金持ってないんですよ」
「嘘だろ」
今日び、学校とはいえ外出するのに金を持っていない女子高生なんかいるのかよ。
俺はそう思いながら海原のアイスクリームとクリームパンを奢った。奢ったというのも何か大人気ないが、取り敢えず、俺が支払った。
「私、サービスエリアとか行ったことなくて」
「言ってたな。ドライブの名物だぜ」
「スイーツ的なのも久々に食べました」
「アイスとパンをスイーツって呼ぶな。切ねえよ」
海原家は、どうやら特殊な家庭らしい。
自殺の遠因もそういうところにあるのだろうか?
海原はアイスとパンを食べ終わると、ゴミを座席横にある飲み物入れに置いた。
「おい、持っとけよ」
「ええ、死ぬから良くないですか」
「死ぬんだから持って死ね。俺は捨てに行くの面倒だから」
「海が汚れますよ」
「魚が苦しむか?」
「鳥やペンギンも」
「たまにニュースで見るけどさ…」
俺は前に向き直る。
すると、ゴミを置き終えた海原が、するりと手を伸ばし、俺の車のハンドルに触れた。
白い肌だった。まるで死人のような。
俺は危険を感じて、多少声を荒らげる。
「おい、邪……」
「今ハンドル切ったらどうなりますかね?」
驚くほど冷たい声だった。
亜麻色の髪が俺の肩にかかってきた。
前から目を離せない。前方後方ともに車はいない。俺は120キロのままアクセルを踏んでいる。
隣にいるのは、よもや本当に死人ではないかと半ば本気で疑った。
「…………まぁ、確実に死ぬだろうね」
一般道60キロ走行でも事故死は起こる。
まして120キロで高速の側壁に衝突すれば一撃だ。
「どうしますか?」
「何が?」
「私と一緒にここで死ぬのは嫌ですか?」
「極力やめてほしいかな」
どうしますか?じゃねえよ。俺は苦笑する。
今更急ブレーキなど踏めない。
こいつがハンドルを切った瞬間に死ぬだけだ。俺がどうこうしたから回避できる類のものではないことは明白だった。
「俺の妹が肩身の狭い思いをする」
「妹?」
「俺まで死んだらニュースになるだろ。『何故か平日朝に女子高生とドライブしてた教師が死亡』っつって。そんなマヌケな奴の妹だと思われたらどうすんだ」
妹は比較的真面目な会社員だった。
仮に俺が死ぬとしても、それは妹たちに無駄な苦労をかけない死に方でありたいものだ。
俺はそう思っている。
「……そうですか」
海原は、静かにハンドルから手を離した。
「大丈夫です。そんなことはしません」
「助かる。死ぬならあとで勝手にな」
俺は胸を撫で下ろし、割高のコーヒーを啜った。
コーヒーはすっかり温くなっていた。秋の朝にしては暖かい気温だが、熱いコーヒーを冷ますには十分であったらしい。
俺が顔を顰めながらそれを置くタイミングで、海原は再び不意に話し出した。
「私、親が片親なんですよ」
「……へえ」
「驚きませんね」
「今時片親なんて普通だろ。それに、なんか特殊な家庭環境なんじゃないかと思ってた」
サービスエリア行ったことない、もそうだ。
金持ってなかったのもそうだ。
ある程度の家庭で育った子供であれば大規模な旅行とは言わずとも、高速道路を走りサービスエリアを利用するくらいの経験はあるのが普通ではないか。そして、高校生の娘には事情こそあれ、ある程度の現金くらい持たせるのが親としては真っ当なやり方だ。
「で、私、母親に言われたんですよ」
「なんて」
「産まなきゃ良かった、って」
「そりゃ気の毒だな」
「可哀想だと思いますか?」
「もちろん。お前は気の毒ってか可哀想だが」
「お前は?」
「あぁ、本当に気の毒なのは母親だ」
だってそうじゃないか。
俺はハンドルを握ったままで眉をひそめる。
「腹に重石を入れて、ゲロ吐きながら半年過ごして、腹を裂かれる痛みの中で産んだのに、それを『やらなきゃ良かった』なんて気の毒だ」
「どういうつもりですか?」
「骨折り損だよな、って」
「本当にどういうつもりですか………」
海原がため息をついた。
自殺というのは、どうも風当たりが強い。
だが、勝手に産むというのも他人様の受ける影響を軽んじた身勝手な行為ではないか?
案外なもので、そういう話はあまり聞かない。
俺の車は一層高鳴りをあげ、高速道路の僅かな登り坂を登攀していく。
その向こうに、高く上った陽に照らされた海が見えた。
「もうすぐだぜ」
俺は言って、車のサンバイザーを上げた。
さながら海水浴みたいに爽やかな陽が差す下り坂を、俺たちは緩やかになぞっていく。
✴︎
俺は高速道路を降り、下道を進み、細道へ入り、車を停めて崖へ来た。
さながら、2時間サスペンスの最終盤で出てきそうな崖だ。サスペンスでは最後に飛び降りるのは犯人だが、俺たちの場合は海原だ。そんな崖の縁に、俺と海原は並んで立つ。
「ここなら丁度良いだろ。死ぬのに」
崖下には、適度に尖った石や浅瀬がある。
高さも数十メートルはあり、普通に飛び降りて生き延びる可能性はゼロに近そうだった。
どう考えても、学校で死ぬよりは良い。
海原はにこやかに笑んで、俺に訊いた。
「先生、どうして連れてきてくれたんですか?」
「お前が頼んだんだろ?」
「断られると思ってましたよ」
「はっ、そりゃそうだ」
俺は、自分が教師を辞めることを伝えた。
その都合上、海原が学校で死なれると面倒だということも。
「なーんだ」
「なんだじゃねえよ。俺には一大事だ」
「先生、教師向いてますよ」
「嘘こけ」
俺は辞めるんだよ。
海原が海で死ねば簡単には見つからないだろうし、仮に見つかるとしても今日明日の話ではあるまい。その間に、俺は颯爽と学校を辞める。
「私のこと、説得しようと思わなかったんですか?」
「興味ねえよ」
「私の命に?」
「いいや」
他人の命に。
それが世のならいではないのか?
「誰だって勝手に死ねば良いんだ。勝手に産まれたんだから。ただ、電車遅らせて100万人に迷惑かけるとかじゃなければな」
「先生と話せてよかったです」
「こちらこそ、お前がこっちで死ぬことにしてくれてよかった」
「……最期に、もうひとつだけ訊いていいですか?」
「なんなりと」
「先生、下の名前、なんて言うんですか?」
俺は目をぱちぱちとさせた。
最期に、それ?
俺は呆気に取られながら、まっすぐ前を見たまま正直に言う。
「雄大。東郷雄大」
ふふっ、と、海原の笑い声がした。
「似合わない」
「なんだと?」
ばっと海原の方を向く。
しかし、もうそこには誰もいなかった。
海原がいて、亜麻色の髪が揺れていたはずのその空間には、誰の姿もなかった。
海原は消えてしまった。
世界から。
俺の前から。
「……………帰るか」
俺は崖下を確認することもなく、海に背を向けた。
✴︎
俺はしばらく歩いて、停めてあった車に着いた。
近くの山道に路上駐車しておいた車だ。そのエンジンをかけた時だった。
俺は、助手席に海原のスマートフォン、それから財布があることに気が付いた。
スマホには何やら通知画面が出ている。
財布も開いている。
「不用心な…」
俺は放置するのも憚られて、スマートフォンの通知を悪いとは思いながら読む。
そして、俺は目を見開いた。
『お母さん:命?あなた今どこにいるの?』
『お母さん:学校から命が休んでるけどどうしたのって連絡が来てるわよ?』
『お母さん:命、無事なら連絡して』
『お母さん:お願い、命』
『お父さん:おい、母さんから聞いたぞ。どこかにいるなら、誰でも良いから連絡をよこしなさい。心配だ』
『夏芽:みこと〜?先生に海原の行きそうなところ知らないかって訊かれたけど、みこと何やってるの?家にいないの?』
『渚:命先輩、先輩のお母さんから急ぎの連絡を頂きましたが、ただのお休みではないのですか?』
『和弥:海原、お前どこで何やってんだ?』
「……………おいおい、なんだよこれ」
俺はどうしようもなくて、苦し紛れみたいな笑みを零しながら呟く。
海原命は、母親から疎まれてなんていない。
むしろ、真っ当に愛されている。
どう見ても、これは素直に娘が心配な母親の文面だ。そして何より、母親は周りに連絡までして娘の身を案じているではないか。
しかもこれほど心配してくれる友人までいる。
あと、普通に父親もいるじゃねえか。片親なんかじゃない。
「お前、なんで嘘ついてたんだよ……」
もしやと思い、財布の中身を見る。
そこには、もはや案の定と言いたいくらいの気分だったが、50,000円ほど入っていた。
金も持ってる。
海原が俺に言ったことは、どうやら全て嘘だったらしい。
ただ、自殺したという事実だけを除いて。
まぁ、これくらいは慰謝料か。
俺はその財布から50,000円を抜き取ると自身の財布に入れ、ほぼ空の財布とスマートフォンを海へ投げ捨てた。
どうせ海に沈むはずだった金だ。
俺はアクセルを踏み込む。
1人分軽くなった車は、勢いよく山道を降っていく。隣から俺を呼ぶ奴はもういないが、それはいつものことだ。今日という日、しかもその朝だけが外れ値だったに過ぎない。
「俺もアイス食おうかなぁ」
50,000円ぶん膨らんだ財布を助手席に投げ、俺はサービスエリアをカーナビに入力した。
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