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家のポストに入っている新聞を読む。
新聞には、俺が住んでいる町名と通り魔という文字が並んでいた。
この近くで通り魔事件が発生し、若い女性が首筋をナイフで斬り付けられるという事件が五件続いているらしい。
新聞を読み終えた俺はいつも通りに真っ黒な作業着に着替えて家を出た。
十八歳から八年間同じ工場で働いている。朝八時から夕方十七時まで鉄を加工するのが俺の仕事だ。
楽しいかと聞かれると、楽しくはない。
だが、工場に向かう足取りを軽くしてくれる要素はあった。
自転車で十五分。工場に到着した俺にその要素が話しかけてくれる。
「おはよう、高田くん」
声をかけられた俺は振り向いて、声の主に返答した。
「あ、中瀬さん。おはようございます」
「今日もがんばろうね」
中瀬さんはそう言いながら俺の肩を軽く叩くと、軽い足取りで工場の中に入っていく。
彼女は中瀬 花。俺が働く工場で事務をしている。年齢は俺の二つ上で明るく、誰からでも好かれるような女性だ。
俺も彼女には特別な感情を抱いていた。
そして、そのおかげで工場に来るのが楽しいと感じられる。
そこから俺はいつも通りの作業を始め、終業の時間まで機械のように働いた。
機械のように自分の意思を持たないことが、仕事を嫌だと思わない方法である。
俺はこの八年間でそれを身につけていた。
仕事を終えた俺は帰り支度を始める。
帰り支度ができた俺は従業員用の休憩室で自動販売機に小銭を入れた。
すると背後から誰かが俺の肩を叩く。
「うわっ」
驚いた俺は間違って買おうと思っていた飲み物ではないボタンを押してしまった。
無情にも自動販売機は缶のおしるこを吐き出す。
本当はコーヒーを飲もうと思っていた。
俺は振り返り、その手の主を確認する。
「お疲れ様、高田くん。驚かせちゃった?」
そこにいたのは中瀬さんだった。
俺はおしるこの缶を手に取りながら返事をする。
「お疲れ様です、中瀬さん。どうしたんですか?」
そう問いかけると中瀬さんは顔の目の前で手を合わせた。
「お願いがあるの。この後時間ないかな?」
「え、この後ですか?時間はありますけど」
中瀬さんの言葉に少しばかりの期待を込めながら俺はそう答える。
仕事終わりに時間があるかどうか確認する、ということは食事のお誘いだろうか。
そんなことを考えていた俺に中瀬さんは言葉を突きつける。
「あのね、一つ急ぎの仕事が入ってしまったの。お得意様の分で今日中に仕上げなきゃいけないのよ。どうにか残業してもらえないかな?」
食事のお誘いどころか、プライベートな話でなかったことにがっかりしながらも、他ならぬ中瀬さんの頼みだ。俺は首を縦に振るしかない。
「いいですよ」
そう答えると中瀬さんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「良かったぁ。他の人は誰も残業できないって言うのよ。ほんと助かったわ」
その笑顔を見るだけでも、残業する価値はある。
そんなことを考えながら俺は急ぎの仕事についての説明を受けた。
内容はそれほど難しくなく、いつもしていることである。
そこから四時間ほど作業を続け、俺は中瀬さんからの依頼を完了した。
作業を終えた俺は休憩室の椅子に座り一息つく。
そんな俺に中瀬さんが缶コーヒーを持って歩み寄ってきた。
「高田くん、本当にありがとう。めちゃめちゃ助かりました」
そう言いながら缶コーヒーを手渡してくれる中瀬さん。
俺はそれを受け取り、軽く微笑む。
「これくらいなら簡単にできますよ。いつでも任せてください」
「それは頼もしいわね」
「そりゃ、中瀬さんのお願いですからね」
俺がそう言うと中瀬さんは微笑みながら首を傾げた。
「あら?それは私が特別ってことかな?」
「あ、いや、それは、その、まぁ、はい」
確信を突かれた俺は動揺する。
そんな姿を見た中瀬さんは頬を赤らめて、俺の肩を軽く叩いた。
「もう、やめてよ。そっちが照れたらこっちまで照れちゃうじゃない」
可愛く赤面する中瀬さんの姿に思わず俺は本心を言葉にしてしまう。
「あの、特別です。俺の中で中瀬さんは」
「ちょっと、いきなりどうしたの。からかってる?」
照れながら中瀬さんはそう返答した。
俺は引き続き本心を言葉にする。
「からかってなんかないです。ずっと中瀬さんを見てました」
「・・・・・・ありがとう。まさかこんなこと言われるなんて・・・・・・実はね。私も高田くんのこといいなぁって思ってたの。残業終わりで遅くなったけど、もし良ければ家まで送ってくれないかな」
中瀬さんの返答を聞いた俺は心臓が高鳴った。
中瀬さんが俺のことを特別に思ってくれていたなんて。
心臓が高鳴り、動揺した俺は一瞬言葉を失っていた。
すると、中瀬さんは照れ臭そうに言葉を続ける。
「ほ、ほら!最近、この辺で通り魔事件みたいなのも起こってるから、送ってくれると安心だなぁって」
それを聞いた俺は強く頷いた。
「も、もちろんです」
「じゃあ、もう出ようか」
中瀬さんはそう言って歩き始める。
俺も遅れないように隣を歩いた。
歩幅を合わせて、肩を並べる。
そんなひと時に幸せを感じた。
「私の家はここから歩いて十分くらいなの」
会社を出てすぐに中瀬さんはそう話す。
俺は自転車を押しながら、隣を歩いた。
既に外は暗く、道を照らすのは街灯と月明かり。
この辺りは小さな工場が並んでいる地域で、それほど明るい場所ではない。
夜になると人通りはほとんどなかった。
その分、月明かりや街灯が中瀬さんの横顔を照らし、暗闇に浮かび上がらせる。
「綺麗だ」
俺は思わず心の声を口から漏らしていた。
「え、何言ってるのよ。照れるからやめてよ」
先ほどよりも濃く赤面しながら中瀬さんはそう答える。
今立っているのは工場の外壁と工場の外壁の間にある細い道。誰も通らないような細い道である。
そこにある小さな街灯が中瀬さんの首から上を照らしていた。
「本当に綺麗です」
「本当に照れるから、本当に」
俺は自転車を工場の外壁に立てかけて中瀬さんに近づく。
「嫌だったら言ってください」
そう言いながら俺は中瀬さんの首筋に触れた。
「あ、あの、心の準備が・・・・・・」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど・・・・・・」
中瀬さんはそう返答しながら、俺の目を見つめる。
俺はゆっくりと中瀬さんの顔に自分の顔を近づけた。
「ずっと、特別に思っていました。ずっと、綺麗だと思っていました。ずっと・・・・・・」
顔の距離が近づき、中瀬さんの鼓動が聞こえるように感じる。
俺はそのまま一番伝えたかった言葉を口にした。
「この首筋を斬りつけたいと思っていたんですよ」
そう告白した俺はポケットから取り出したナイフで中瀬さんの首筋を力強くなぞる。
「えっ」
驚きのあまり目を見開きながら中瀬さんはナイフが通過した後の首筋を抑えた。
だが、溢れ出す赤は止まらない。
一気に飛び散り、二人を赤に染める。
「な・・・・・・んで・・・・・・どうして・・・・・・」
血液と共に全身の力が抜け、消えそうになる意識の中、中瀬さんはそう言い放った。
首筋の白と赤に見惚れながら答える。
「たまらなく興奮するんですよ。闇夜に浮かび上がる白い肌が、赤に染まっていく様子に。ずっと思っていましたよ、赤く染めたいと。特別強くね」
「そ・・・・・ん・・・・・・な・・・・・・」
そう言いながら中瀬さんはその場に倒れ込み、その呼吸を止めた。
「これで六人目。まだまだ物足りないな」
俺はそう言いながら、真っ黒な作業着に視線を落とす。
夜ならば黒い作業着についた血は見えない。
思わず口角が上がってしまう。
「次は誰にしようかな」
そう呟きながら俺は自転車に跨った。
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