16 世界中の敵

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16 世界中の敵

「何度言ったら分かるの!」  怒声が体を揺らすようだった。サーシャは飛び跳ねて、犬もまたビクンッと体を震わせる。  一人と一匹で目を見合わせる。黄金の瞳が不安気に揺れていた。体は大きくなったけれどまだ子供なのだ。サーシャは犬を抱きしめてやって、立ち上がった。 「家にいる間は灯りをつけてはダメなの。ママがいる間だけよ! 分かるでしょ? アンタ一人でいるって知られてはいけないの!」  四つほど積まれたレンガに上り、窓枠にしがみつく。カーテンの隙間から中の様子が見えた。  母親が腕を振り上げて、バチンっと肌を叩く音がする。  サーシャは薄く唇を開いた。それから唾を飲み込む。 「悪い人が目をつけるんだから! アンタが悪い子だから狙われるんだよ!?」  犬が揺れる瞳でサーシャを見上げている。尻尾と耳が垂れて、体さえ小さくなったように見える。  また肌を叩く音がした。それからガシャンと物の崩れる音……母親がルドの腕を引っ張る。二人の姿が見えなくなる。  ルドの「……ヒゥ」と声が聞こえた。  サーシャは窓枠にかけた手のひらを解く。犬の頭を撫でてやって、「えいしょ」とレンガから下りた。  表のほうに回り、ふぅと息をつく。  すぐに扉をノックした。  絶えず聞こえていた怒声が止む。やがて怯えるようにゆっくりと扉が開いた。 「……サーシャ?」  母親はサーシャを知っている。ルドと遊ぶ光景を何度か見られているのだ。  やはり名前を知っていたか。サーシャはわずかに小首を傾げて母親を見上げ、それから横をくぐり抜けるようにしてルドへ向かった。 「サーシャ!? 何、この犬は……」  犬がウウと母親を睨みあげている。サーシャは構わずルドの傍にしゃがみ込んだ。  ルドはじっと床を見つめて、声も上げずにたらたら涙を流している。  サーシャは袖の、一番清潔な部分でルドの頬を拭った。 「サーシャ! 何なのよこの犬は!」  犬がワォンと吠える。母親はさらに激昂して「サーシャ!」と腕を掴み上げてきた。 「……っ」 「いきなり入ってきてどういうつもりなの!」 「わんちゃん、だめだ。絶対に」  母親に噛みつこうとする犬を睨みつける。犬は尻尾を徐々に垂らして、しかし牙を剥いたままググッと退いた。  母親は犬に振り返り、それからまたサーシャの腕を強い力で引っ張った。顔を真っ赤に染め、怒りに任せて耳元で怒鳴ってくる。 「この子が言いつけを守らないから怒っているだけなの!」 「う、ん」 「分かるでしょ!?」 「うん」 「本当に分かってる!? サーシャはまだ子供だから知らないだろうけどね、言い聞かせないとダメなの!」  グッと腕を引かれて宙吊りになった。それでもサーシャはルドから目を離さなかった。 「この子もあなたも分かってないのよっ。いつどうやってどんな敵が現れるか分からないんだから!」  ルドの腕は真っ赤に膨れ上がっていた。この子の体に生傷が絶えないのは知っている。サーシャは触れない程度にその傷へ手のひらをかざして、女に振り返った。 「そうだよ」  サーシャは腕を振り解き、一つも揺らぐことのない瞳で彼女を見つめる。 「いつどこに敵が現れるか分からない」  記憶に炎の町が甦る。息を吸って、吐き、炎をかき消した。  母親は目を見開いてサーシャを見つめた。薄く唇を開いたが、何も言わない。 「敵なんかどこにでも溢れる。だからそんなの、おばさんがならなくても勝手に出てくるよ」  いくらでも知っている。 「世界中に敵がいる。いつか世界中の知らない人がルドに牙を剥いて、攻撃する時が来るかもしれない。その時、誰がルドの味方をするの?」  サーシャはルドの指の付け根にある傷跡を撫でた。それは母親がつけたものではない。  ゆっくりと撫でながら呟いた。 「誰がルドを守るの?」  母親は小さく小刻みに、呼吸していた。  室内に静けさが広がる。ルドは息を殺して泣いている。サーシャは立ち上がり、「わんちゃん」と犬を呼ぶ。犬は暫くしてからゆっくりと歩き出し、サーシャの腕の中に収まる。  女は拳を握り締めていた。強く握るせいで手のひらから血が出ているのが分かった。  でも彼女はもう腕を振り上げなかった。  サーシャは「あのね」と声を柔らかくした。 「あのね、葡萄を拾ったんだ。だからルドにあげようと思ったんだけど、二人で食べてね」  犬がサーシャの代わりに葡萄を机に置く。二人きりの、小さな食卓だった。 「葡萄美味しいよ。俺、初めて食べたんだ」 「手術の借金が残ってるの」  母親が呟いた。サーシャは立ち上がって彼女を見上げる。  母は娘の指を見つめていた。 「この辺りに魔術師なんていないから手術に頼るしかなかった。この子の指、変だと思ったでしょ? 元々六本あったのよ」  サーシャはルドを見下ろした。ルドは呆然と床を凝視している。 「手術した時の借金が残ってる。だから働かなきゃ。私は夜、この子を守ってあげられない」 「うん」 「六本もあったから、町を追い出された。だからここで……」 「うん……」  母親は黙って片手で目元を覆う。サーシャはしゃがみ込んで、ルドの手を撫でた。 「そっかぁ。生まれた時からルドは人より多く持ってたんだな」  石像のように固まっていたルドの手がピクリと動いた。  それから徐々に顔を上げる。小さな眼が縋るようにサーシャを見つめた。  サーシャは犬を片腕で抱きしめる。母親に振り返り、笑いかけた。 「わんちゃんは毛が白銀色で綺麗で、俺は食べ物を拾うのが得意で」  天井を見上げる。開け放した扉から冷たい夜風が入り込んで、ランプが揺れた。 「この小屋はおばさんが作ったんだろ?」  サーシャは昔からこのスラム街にいる。だから彼女が子供と自分のために一人でこの小屋を建てるのをぼうっと眺めていた。  わざわざ棲家を作らなくても一人なら生きていける。けれど彼女は、自分以外にルドがいたから一人きりで建てたのだ。 「皆、すごいね」  サーシャは無邪気に笑いかけた。  彼女は耐えるように唇を噛んで、それから娘に目を向ける。  ルドは母親だけを見つめている。  小さな女の子は「ママ」と呟いた。  母は息をつき長いこと目を閉じていた。やがて震えるまつ毛を上げて、サーシャを見つめる。わずかに首を上下させ、少女みたいににっこり微笑んだ。
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