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1 鹿羊肉が食べたい ※
「これを咥えてみろ」と短剣を口に挟まれる。聞くところによると五十個もの宝石をあしらわれた短剣で、落として傷でも付けたら到底この命では償えない。
刃先を舌の方に向けられて恐怖で強張った。落とすまいと必死になるが客は腰を掴み、凶暴な抉り方をしてくる。
「あっ、あっあっ、んぉっ、んんんっ!」
「気持ちいいかサーシャ。穴の締まりが良くなったぞ」
「あ……ッ、がッ、う“、んんぁっ」
気持ちいいわけあるか。怖いんだよ。
客がサーシャの長い茶髪を掴んでくる。ぐっぐっと引っ張られてまるで馬になった気分だ。引かれる度に深くまで突かれるので頭がどうにかなりそうだった。
意識を手放してはならない。短剣を落としてしまう。グッと噛み締めれば唇が切れた。血が涎に混じって垂れていく。客は喘ぎ声を上げながらサーシャの腹の中に射精した。
それから夜更けまで何度も責め立てられた。恐怖のせいかいつもより消耗が早く、日付が変わって客が帰る頃には、もう手足も動かせない程だった。
口からは血を垂れ流し、尻の穴からは男の精液が溢れている。酷い有様ではあったが起き上がり、何とか冷や水で体を洗い流した。
口の中まで切れていてうまく喋れない。なぜか以降の客が取られていないのは幸運ではあったが、これで明日も接客できるのだろうか。
口の中でずっと鉄の味がする。短剣って鉄の味がするんだ。確かに鉄で出来てるから血がなくてもこんな味だろう。
参ったな。しかし疲れた。今宵はもう眠ろう。明日も早いのだから、余計なことは考えずに床に着くのだ。
眼帯の位置を直し、重い身体を引き摺りながら廊下を歩いていると途中で「サーシャ」と呼び止める声がかかる。
「館主様」
「サーシャ、終わったか。こっち来い」
娼館を営む館主だった。無愛想で見かけは怖いがサーシャも信頼している男である。昔から世話になっているが彼が声を荒げた姿をみたことがない。逃げる遊女には容赦がないらしいので、誰も逆らわないのだ。
館主の部屋は豪勢だった。滅多なことがなければこの部屋に招かれることはないので、サーシャの内心はあっという間に緊張で張り詰める。
背もたれの高い椅子に腰掛けた館主は顎を引いた。導かれてサーシャは机の前に立つ。
館主は開口一番に、絶望を告げた。
「サーシャ、お前を買いたいと声がかかった」
サーシャは唇を一文字に引き締める。現実感のない言葉に一瞬だけ意識が剥離しそうになるのを、無理矢理に引き戻した。
つまり。
「……か、いあえ、れすか」
買い上げだ。
「そうだ」
「な、なんれれす……いきなりすぎあせん?」
「お前喋り方どうした」
館主が訝しげに目を細めた。彼の机にはいつも紫色のかすみ草が飾られている。サーシャは花を凝視しつつ、虚に呟いた。
「刃を咥えさせられたので……」
「何だと?」
「あの、お、おれ! そんなにらめれしたか!?」
買い上げ。買い上げ。戦地に送り込まれる前線兵を言い渡された気分だった。間違いなくそこには死が待っている。サーシャはハッと意識を取り戻し、すでに泣きそうな声で懇願する。
「ごめんらさい。もっと、もっと稼ぎますのでまだ買いあえらけは」
「決まったことだ」
サーシャの顔から血の気が引いた。手先は冷たいのに背中が焦燥感でカッと熱くなる。
なんてこった。地獄行きが決まってしまった。
頭が真っ白になって呆然とするサーシャに、館主は酷薄に言い放つ。
「八時間後にお客様の車が迎えにくる」
「……」
「それまでに身の回りのものを整理しておけ。口は……まぁ当分喋るな」
「……」
「分かったな」
死んだ!
もう何も考えられなかった。どうやって部屋に戻ったのかも定かでない。広い部屋に二十人近くがひしめき合って眠る部屋であるが、まだ皆仕事中で出払っていた。
サーシャは自分のブランケットに包んである、布で作った鞄を取り出した。そうは言っても命令に従うようにこの体はできている。少しのお金と化粧道具、それに小物たちを鞄に仕舞い、それからは部屋の窓へヨタヨタと這った。
壁に寄りかかる。長い髪が夜風で気弱そうに揺れた。窓から外の煌びやかな夜の世界を眺めていると、ようやっと右目から涙が溢れてくる。
あぁ俺は死ぬんだ。この国の『買い上げ』は自由になるという意味はなく、すなわち奴隷化か死ぬことが殆どだ。
サーシャは男娼として働き続けていた。片目やたまに爪など売りつつ養父の遺した借金をコツコツ返済している。娼館での給与であと33年もあれば返済できる予定だったのに。
なぜこんなことになったのだ。買い上げ? どうして。買い上げにだって金がかかるし、サーシャの場合は借金もあるのだからその分を支払ったはずだ。なぜ? 爪も脆く片目もない自分を買う人間がいるなど思えない。
人間……ではないのか。
サーシャは息を詰めて指を唇に当てた。
獣人か? 人肉を食らうと聞いたことがある。他の娼館から餌のために人間が買われたと女の子たちが噂していた。男の性器が美味いから男娼が好まれるらしい。そんなわけあるか、獣人は人肉なんか食わない。そう鼻で笑っていたが、まさか……。
あぁこんなことなら残ってる目玉でも内臓でも睾丸でも売って金を稼いでおけばよかった。長く伸ばした髪ももう要らないんだなと月光に透かして見ていると、娼婦が一人部屋に入ってくる。
「サーシャ? 何をしているの? お仕事は?」
「……今日はもうおあった」
サーシャは慌てて片目を強引に拭った。その拍子に口元の傷に触ってしまう。止まっていた血が溢れ出し、それを見て娼婦が小さく悲鳴を上げた。
「あら、口が……っ! 切れているのね!?」
この娼館には心優しい遊女や男娼ばかりがいた。昔からここで共に働いている娼婦、インナは心配そうに駆け寄ってくる。
「また酷いお客さまが来たの? 今度は何をされたのよ!」
サーシャは軽くかぶりを振って「たいしたことあない」と笑いかけた。安心させるために笑顔を作ったのに、インナはますます傷ましそうに表情を歪める。
「サーシャ……ごめんね。私たちの代わりにサーシャが恐ろしいお客さまの相手をしてくれてるのよね」
「んなあけあるか。あいつらが勝手におれをえらうあけあよ」
「サーシャ……」
インナは羽織をギュッと握りしめる。なぜこんなに早く上がっているのだろうと考えて思い至った。
インナは病に犯されて体力がなくなっている。髪が抜け始めているとも言っていた。サーシャはふと思い立ち鞄の中から剃刀を取り出す。
そして迷いなく刃を突き立てた。
「サーシャ!?」
「おいしょ」
もうこの長い髪も要らない。茶髪を大雑把にザクザクと切り、一束に括る。髪だけは美しいと自負しているので、こうして財産になって本当によかった。
「インナ。この髪使えよ」
「え……っ」
「病気で髪が抜け始めてるらろ。カツラなんて買えないらろうからこの髪使って作ればいい」
「ど、うして。サーシャの髪が……」
「もうそろそろ切ろうと思っていた頃なんら。つかってくれ」
インナは震える唇を開く。随分時間をかけた後、綺麗な目に涙をいっぱいに浮かべて「ありがとう」と掠れた声を出した。
インナは髪を大事そうに握りしめて横になった。ブランケットに包まれた肩が震えている。一方でサーシャはどうにも眠る気にならずに、部屋を出ることにした。同じ空間にいたのならインナが安心して泣けないと思ったのだ。
敷地内の庭を歩き、ちょうど良い岩に横たわる。準備と言っても持ち物なんてこの小さな鞄一つだ。あと数時間後で此処を出る……娼館を出るには死ぬか買い上げしかない。逃げられるはずもないし、明日からは地獄の生活が始まるのだ。
「はぁ……」
娼館街は大きな壁と川に囲まれている。たまに逃げようとした遊女や男娼が川にぷかぷか浮いていた。どす黒く変色した皮膚や異臭を目にして、逃げようとする奴らはあまりいない。
外の世界から繁華街の明かりが漏れている。この近くにある鹿羊肉の料亭をいつも部屋から見下ろしていた。時折見える、夜中でも明るい外の世界の人々は、楽しそうに酒を飲んで、安心しきった享楽に耽っていた。
こうなってみると娼館で生きていく生活すら羨ましかった。短い人生だ。年は推定だが21。いや、まだ生き永らえた方か。
あーあ……一度でいいから鹿羊の肉を食べてみたかったな。
あれは頬が落ちるほど美味いらしい。死んだ世界にも鹿羊の肉はあるのかな。でも俺はどっちに行くんだろう。炎の地獄か天の花国か。
鹿羊の肉……。一切れでいいから……。小指の爪ほどでいいんだ。サーシャは力なく目を閉じる。夢と現の狭間を随分と長い時間彷徨う。
うつろな夢の世界でケーキや酒、鹿羊が踊っていた。どれもサーシャが口にしたことない高級品ばかりだ。鹿羊の骨つき肉がサーシャの前で陽気にダンスし、駆けていく。
いいなぁ。あぁ待ってくれよ。少しでいいんだ。お前に夢見てた。なんだか楽しそうだな。そんな軽やかに駆けていかないで。すごく足が速いんだな。肉になっても脚力は健在なのか。
待ってくれ……。
「どうだ。美味いか」
「……?」
サーシャの前には未だかつて見たことのない輝かしいシルクの布がテーブルに広がり、その上には幻覚を疑うほどの料理の数々が並べられている。
目前には茶色い肉が添えられた皿がある。
無花果と赤ワインを和えたソースのかかった鹿羊の肉だ。
「鹿羊の肉が食いたかったんだろう。味はどうだ。美味いか」
「……」
サーシャは肉を咀嚼し、嚥下してからも、何も答えられずに硬直している。
それでもやはり肉は美味かった。頬が落ちるほど美味いと噂は聞いていたがこれほどまでとは。しかしこの感動を言葉にできない。まるで言語の通じない土地で萎縮してしまったように言葉が出てこない。
テーブル越しにはサーシャを買い上げた男が座っている。
銀色の短髪が麗しい美男だった。年はサーシャより少し上だろう。しかし醸し出すオーラは圧倒的で、若さを凌駕する存在感を放っている。
その背後には料理人と女中たちが控えていた。皆、やけに温かい眼でサーシャを眺めている。
「美味いか。どうなんだ。口を怪我しているのだろう。柔らかく刺激の少ない味付けにさせたが口内は痛むか」
男が矢継ぎ早に問いかける。サーシャは唇を引き締めて黙り込んだ。
……どうしてこうなった?
「好みの味ではなかったか? すぐに作り直させるが」
「……えっと」
「あぁ、まだ喋りづらいだろう。無理に喋らせて悪かった」
「いえ。美味しいれす……」
「そうか!」
舌足らずで味気のない感想を呟いただけなのに、男は花が開いたように無邪気に笑う。
後ろの料理人たちも「おお、美味しいと」「感激ですな」とほっとして笑い合う。目の前の男は鷹揚に頷いた。
「そうかそうか! 美味いか! なるほどな!」
女中がくすくすと「まぁユラ様ったらはしゃいでしまって」「美味しいとおっしゃりましたよ。うふふふ」と微笑む。煌びやかな空間だった。笑顔と美しさしか存在しない。ここは天国か?
サーシャはこの空間の全てが理解できなかった。ますます縮こまるが、男は綺麗に微笑みかけてくる。
「腹が減っているだろう。長旅だったからな。ゆっくり食事を摂るといい」
「……は、はい……」
「それからは、そうだな。まずは髪を整えるか。お前が遊女に髪を渡したと聞いた。なに、職人の手にかかればがたつきも直るさ。サーシャは美しい髪を持っているから見違えるぞ」
どうしてその事を知っているのだ。頭の中にクエスチョンマークが密度高く埋まる。窒息しそうな勢いだった。
「それから風呂だな。お前には身体に傷があると聞いたからサーシャ専用の風呂を作らせた」
「あ、の……」
「部屋は別邸で建てたんだ。幾つも寝室を用意したから好きな部屋を使うといい。サーシャだけの屋敷だ」
「えっと」
「腹が減ったら使用人に言え。俺がいなくてもすぐに用意してくれる。高名なレストランの料理長をしていた男が専属だ。頼もしい限りだな」
背後の老シェフたちが「ははは、身に余るお言葉」「腕を奮いましょう」と快活に笑い声をあげる。女中がサーシャのグラスに白ワインを注いだ。ケーキを取り分けたシェフが、「こちらは王宮御用達のピーチタルトでございます」と差し出してくる。
「何か望むものがあるなら直ぐに言いなさい。取り揃えよう」
「ちょっと……」
「これも鹿羊の肉を使っている。サーシャ、傷が痛まないなら食べてみるといい」
「ま、待って」
頼むから。
「ようこそサーシャ。お前がここの生活を気に入ってくれると良いんだが」
男の朗らかな美しい微笑みを片目で見つめて、サーシャは唖然としていた。
待ってくれ。
一体何が起きている?
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