1章【野良猫】

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 それから龍馬は、翌朝からここを発って福井を目指すと言った。そのための準備は、昼間の買い出しなどで済ませているとのこと。  身支度もいつの間にか済まされていた。自分の現代の服も洗って荷物にまとめられていたので、それは燃やした方がいいと勧めたが、貴重そうだからと断られた。しかしこの服は厄介事を招きかねない。二夜はあとでこっそり燃やしておこうと決めた。  また、しばらくの間、髪を黒く染めてほしいと頼まれた。攘夷志士や壬生浪士組、一日経ったことで更に情報が出回り多方面から狙われている今、それは致し方ないことだった。福井に到着するまでの辛抱だと申し訳なさそうに何度も謝る龍馬に、二夜は嫌な素振りを見せず了承した。どんな道をゆくにしても、この時代においてこの髪は弊害にしかならないからだ。 (どんな道をゆくにしても……か)  手招きをされて龍馬の膝に座る。するりと後ろから髪を撫でられた。今から髪を染めるようだ。絡まっていた髪の間を、何度も手櫛が通っていく。静かな空間だった。少しばかり息が吐きにくかったけれど、それさえ悪くなかった。 「……まっこと、綺麗や」  心の底から漏れたような呟き。  そしてこれも、 「すまんのぉ」  きっとおんなじ。  だから二夜は困った。この人はすぐに謝る。それも建前関係なしの、嘘偽りない本心で謝るのだ。こういう人間は難しい。 「謝らないでよ。何も悪くないのに謝られると、なんて答えたらいいか分からなくなる」  格子の向こう側の、真っ暗で何も見えない外に視線を逸らす。数秒して、ふ、となんだか口角が上がっていそうな吐息が聞こえた。 ――優しいのぉ。  まただ。  しかもなぜだろうか。顔は見えないのに、龍馬がどんな顔をして、そんな穏やかな声音を発しているのか、分かってしまう。ずっと格子の外に目を逸らしていたくなる。 (離れるのが正しい。正しいんだ。そう、分かってはいるものの……)  この時、二夜の中に初めて迷いというものが生じる。本人にその自覚はなく、気づくのも当分先ではあるが……。
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