防災訓練の日――二〇二一年 冬(一花、三年生)

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防災訓練の日――二〇二一年 冬(一花、三年生)

 ビリビリビリビリ~!  非常ベルが鳴り響き、学校中の空気がふるえました。 『九時十分、兵庫県淡路島北部沖明石海峡を震源としたマグニチュード七.三の大規模地震が発生しました!』  校内放送のスイッチが入り、教頭先生が緊迫した声で大地震が起きたことを告げます。 「みんな! 落ち着いて! つくえの下にかくれよう!」  三年五組の佐藤健太先生も、みけんにしわを寄せて言います。  一花は、つくえの下にかくれる前に、こっそり黒板の上にかかっている時計をぬすみ見ました。時計は、九時八分をさしています。 (まだ九時十分になってないじゃん)  いすを引く音、つくえのあしをゆらすゴトゴトという音、クスクス笑いの声が教室のあちこちから聞こえてきます。つくえのあしを動かないようにつかむ一花も、こみあげてくる笑いを必死にとどめました。 『ゆれがおさまりました。運動場へひなんをはじめてください』  しばらくだまりこくっていたスピーカーから、また教頭先生の声が流れてきました。  ふ~、と息をはきながら、一花たちはつくえの下からはい出します。 「防災ずきんをかぶって!」  佐藤先生の声があんまり真剣なので、一花たちも表情をかたくしました。けれども、中西和奏(なかにしわかな)と目が合ったら、まじめな顔をしてつくえの下にかくれたり、防災ずきんをかぶっている自分がおかしく思えて、笑いがおさえきれなくなりました。一花は、あわてて両手でゆるんでしまう口をおさえました。  青い防災ずきんをかぶったクラスメイトたちが、わらわらとろうかへ出ます。クスクス笑いやこそこそ話がどこの教室からも聞こえてきます。ふざけて、押し合いをしている男子もいます。 「まぁた、やってるよ、男子ぃ」  ふざける男子を和奏が注意をしようとしたときです。 どんっ! 長谷川(はせがわ)蓮(れん)と肩が当たってしまいました。わざとではないのです。防災ずきんのせいで、視野がせばまっていたからです。列の後ろにむかって歩いていた蓮の道を和奏がふさいだ形になっていました。 「あ、ごめん!」  あわてて和奏が言うと、蓮はゆっくりと「いいよ」と言って、列の後ろにならびました。一花は蓮の背中を見送りました。  蓮は、一花と同じピアノ教室に通っています。と言っても、ピアノは個人レッスンなので、教室で蓮と顔を合わせることはありません。顔を合わせるのは発表会のときだけです。けれども、半日がかりの発表会ですら、ほとんど話したことはありませんでした。一花は男女わけへだてなく仲良くなる、というタイプではなかったし、蓮もそうです。蓮の場合は、誰に対しても口数が少なく、質問に答えることはあっても、自分から話すようなことはめったにしない子でした。 「長谷川くんに、にらまれちゃった!」  蓮の背中を見送る和奏が、ほっぺたをふくらませました。 「にらんではいないと思うけど?」  一花は言いました。 「顔がこわいんだよ。もうっ! あいかわらず、いるんだか、いないんだかわっかんない!」 「ハハハッ」  自分でぶつかったのに、ひどい言い分だと思いながら、和奏がじょうだんで言っているのはわかるので笑っておきました。  一花の耳には、蓮の声が、洞くつの奥の泉に落ちたしずくのように反響を残していました。ほとんど声を聞くことがないので、蓮の「いいよ」の一言には重みがあるのです。 「アハハッ。いっちゃん、見て、見て!」  和奏が、一花のそでをひっぱって言いました。 「みんな、ぶつかってる」  よく見ると、ぶつかっているのは和奏と蓮だけではありません。あっちでも、こっちでも、防災ずきんをかぶって左右がよく見えない子たちが、ぶつかりあっています。 「おつかいありさんみたい」  一花は言って「あっちいって ちょん ちょん こっちきて ちょん」と童謡の『おつかいありさん』を口ずさみました。 「っていうか、いっちゃんみたい~」  和奏は、そう言ってケタケタ笑いました。「今、ぶつかったのはわかちゃんなのに」一花は、ほっぺたをふくらませました。  みんながそんな様子なので、とうとう佐藤先生が声をあげました。 「やくそくをわすれたかな? お、は、し、もだよ!」  おさない。はしらない。しゃべらない。もどらない。  全校生徒がひなんを終えると、朝礼台に校長先生が立ちました。 「みなさん! お、は、し、ものやくそくは、守れましたか?」  全校生徒を前にして、校長先生は一言、一言を区切ってゆっくり話します。 「二十五年前の今日、一九九五年一月十七日、みなさんの住む町で、大きな地震がおきました」  今日は、防災訓練の日です。  一九九五年一月十七日五時四十六分、兵庫県淡路島北部沖明石海峡を震源としたマグニチュード七.三の大規模地震が発生しました。  仮の大地震を伝える教頭先生の放送は、阪神大震災の状況を伝えていたのです。  今年の一月十七日は、防災訓練にはおあつらえむきの金曜日でした。学校はあるのに、授業はない一日は、週末への助走のように感じられます。今日は、午前中にいつもある国語とか、算数とかの授業がなくて、午後には引き渡し訓練があり、お母さんが迎えにきてくれることになっているので、一花は朝からウキウキしていました。  校長先生は話し続けます。 「たくさんの人が住む家を失い、たくさんの方が亡くなりました。また二十五年の間には、新潟や東北、熊本でも大きな地震がありました。去年には、台風による大雨が原因で、千曲川がはんらんし、多くの人が住む家を失いました。ここ数年、観測史上初と言われる地震や台風、猛暑が毎年のように起こっています。悲しいことですが、災害はより身近に、他人事ではなくなってきています。ひなん訓練の大切さをより強く感じられるようになりました」  校長先生の言葉に、一花のうかれていた気持ちがしゅんっとしぼみました。 「亡くなった方のことをおもい、被災された方たちが早くもとの生活にもどれることを願い、黙とうをささげましょう。黙とう!」  校長先生の言葉を合図に、一花たちは口をひきしぼり、目を閉じて、頭を下げました。  運動場をかこむ木につどう鳥さえも歌うのをやめて、しばしのあいだ、耳の奥がキーンッとなるような静けさがあたりをつつみました。  黙とうを終え、目を開けた一花は、まわりの世界が真新しく感じられました。 「それでは、みんなで『しあわせ運べるように』を歌いましょう」  司会の教頭先生が言い、朝礼台には校長先生のかわりに佐藤先生が上がりました。佐藤先生は、学年集会や全校集会で合唱を歌うときには、指揮をしたり、ピアノの伴奏をしたりします。『しあわせ運べるように』は、阪神大震災からの復興を願って、震災直後に作られた歌です。一花たちの小学校では、防災訓練の日にはかならず歌われました。  全校集会が終わると、学年それぞれの活動にうつります。六年生は、炊き出しの準備。五年生は、避難所の設営。四年生は、消火訓練です。  三年生は、ランチルーム(と呼ばれていますが、給食はそれぞれの教室で食べます。大人数が集まるときに使われる広い教室です)に集まって、防災ビデオを見て、先生たちから震災体験を聞きました。  年齢も、住んでいたところもちがう先生たちの震災体験は、六人それぞれにちがっていました。被災当時、中学三年生だった一組の先生の中止になった高校受験の話。東京の大学に進学していた二組の先生は、なかなか家族と連絡がつかなかった、と言います。小学生で避難所生活をしたという三組の先生の話は、一花たちに「自分の立場だったらどうするだろう?」と思わせました。四組の先生は大学生で、ボランティアではじめて神戸に来たのをきっかけに兵庫県の学校で先生になることを決めたそうです。  次は、五組、一花の担任の佐藤先生の番です。 「先生、どんなことを話すんだろうね」  和奏が、ささやきました。「ん?」一花が聞き返しました。 「だって佐藤先生、まだ若いもん。地震のとき、生まれてないんじゃない?」  そう言われて、一花も「ああ、たしかに」と。うなずきました。  佐藤先生は、三年生の担任の中で一番若い先生です。 「先生は二十五歳です。阪神大震災が起こる前の年に生まれました」  二百人の三年生は、三角座りをして佐藤先生を見上げます。 「震災のことなんて、おぼえてないと思うでしょう?」  和奏と一花の会話が聞こえていたのかな、と思うようなことを佐藤先生は言いました。 「信じられないかもしれませんが、先生のさいしょの記憶は、ふるえながら地震のニュースを見る母の横顔を、だかれたうでの中から見上げていたことです」  佐藤先生の言葉に、「へえっ」とため息がもれました。 「あとになって、親に聞いた話の影響を受けているのかもしれませんが。とてもおそろしい顔で、テレビの画面を食い入るように見ている母の横顔を、先生はありありと思い出すことができます。なみだを流しているときもありました。母は、力をこめて赤ん坊だった先生をだきしめました」  佐藤先生は、まるで今もそのかんしょくが残っているみたいにうでをさすりました。 「母が見ていたのは、地震のニュースだけではなかったのかもしれません。一九九五年は一月に地震があり、三月には地下鉄サリン事件が起こり、それまでの価値観が大きくゆらいだ年だったんです。行き先の見えないこんな世の中でこの子の命を守るのは自分だ、と母は強く思ったのだそうです」  そこで、佐藤先生は一度、大きく息をはきました。 「先生は今も、自分の命は守られている、と強く感じています。そして、今年、三年生の担任になったとき、君たちが二〇一〇年生まれだということに気がついて、あらためてテレビのニュースを見つめる母の横顔を思い出しました。二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起きました。そのときも、母はテレビのニュースを見ながら泣いていました。被災された方々におもいを寄せていたのはもちろん、母は、あのときの自分と同じおもいで、テレビの前で赤ん坊をだいて泣いているかもしれないお母さんたちのことをおもって泣いていたのです。そのとき、ふるえる母親のうでの中にだかれて守られてきた命が、今、ぼくの教室でつくえを並べている……。始業式の日、きみたちを見たときに先生はそう思いました。この教室にいるときに、なにか大きな災害があったなら、先生はだれ一人欠けることなく保護者のもとにこの命を届けなければならない。この命に、ぼくは責任がある、と思いました」  ランチルームはしん、と静まり返り、あちこちから鼻をすする音が聞こえました。  佐藤先生の言葉に、一花は背中がぞわぞわっとして、とてもおそろしいように思えました。そして、二十五歳の佐藤先生と、十歳の三年生のあいだに、なにか特別な結びつきがあるような気がして胸が熱くなるのを感じました。  それから佐藤先生の話が終わって、六組の先生が、倒壊はまぬがれたものの建物がゆがみ、立て付けが悪くなって今も開け閉めがしづらい戸の話をしました。    その週末は、漢字ドリルや計算ドリルの宿題のほかに、防災訓練の感想文を書くという宿題が出ました。作文を書くために、一花は中学生のときに阪神大震災で被災した経験があるお父さんに話を聞きました。 「うちの小学校の校区でもくずれちゃった家もあったんだってね」  晩ごはんを食べながら、一花が言いました。 お父さんが「そうだよ」と答えました。あの辺と、あの辺と……お父さんは被害が特にひどかった地域の名前をあげて言いました。 山を切り開いて作られた一花たちの町は、土地が低くて平らなところから、だんだんと山の上の方へと町が広がっています。平らなところは少なく、住宅地のほとんどは、南斜面を宅地造成して作られています。 一花は、お父さんがあげた場所を思いうかべました。そのあたりは、私鉄沿線の平らな土地です。学校では「校区にも大きな被害を受けた地域がある」と言ったけれども、そこに住んでいる子もいるし、親や親せきが被災している子もいるので、具体的な場所を言うことはありませんでした。今は、区画整理されて新しい住宅地になっているので、一花はそこで大きな被害があったなんて思ってもみませんでした。  一方、一花が住むツバメが丘と呼ばれる地域は、サザエについたフジツボみたいに、山の傾斜に家が建っています。新しく造成された地域は、坂道はあっても、ほとんど山の地形を感じさせないくらいきっちりと区画が分けられ、真っ直ぐな道が通っていますが、ツバメが丘は古い住宅地なので、山の地形に沿って道が曲がりくねり、雑木林があちこちに残っています。駅に近く、一般家庭が車を持つのがめずらしい時代に作られた住宅地なので、道幅もせまく、住宅地の中には階段もたくさんあります。大きな地震があれば、地滑りが起きてドミノ倒しのようにくずれ落ちてしまってもおかしくない、と思えます。けれども、じっさいには地震のとき、ツバメが丘は、ほとんど被害がありませんでした。 「ツバメが丘は地盤がしっかりしてるから。白亜紀の地層なんやで」  お父さんが言いました。 「白亜紀?」  一花は、町を踏みつぶしながら行進する恐竜の姿を思いうかべました。 「古墳がたくさん残っているだろう? 昔の人は、この土地が動かないってことを知っていたんやろうなあ」 「古墳ってなに?」  一花は首をかしげました。
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