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 今日も普段と変わりなく、昼休みに姉お手製の弁当を食べたあと、苦手科目である数学の自習をする。いつもと違うのは、この場に千隼がいないことだけ。  例題を一つ解いて、息抜きに窓の外を見た。亜生が座っている席は窓際の一番後ろで、だだっ広い校庭が一望できるのだ。そこではサッカーをしている集団が二組いた。 「あれ、今日は榊、来てないじゃん」  割と話をするようになった級友の中野が、亜生の前の席に音を立てて座った。いつもは千隼が陣取っている椅子に。 「来てないな。何か用事でもできたんじゃないの」 「もしくはお前に飽きたか」  中野が皮肉っぽく言った。 「それならそれで」  特に問題ない、と付け加える。数学を教えてもらえて有難かったが。これからは自力で勉強するだけのこと。でも、彼が二度とここに来ないという予感は、一度も過らなかった。 「あいつは気まぐれだからな。気になった奴に声をかけて仲良くなっても、飽きたら急に素っ気ない態度を取ってくる」 「なに、中野がそうされたクチ?」  中野の口調に、千隼に対する恨み辛みの感情が混じっているような気がした。 「いや、俺は今もやり取りしてる。同じLINEのグループにも入ってるしな。二年のときはクラスが同じだったし仲が良かった」  自慢するように中野が言った。とたん、周りにいた女子たちが、「えっすごい」と声をかけてくる。 「ねえねえ、榊くんてどんなタイプの子が好きなの?」 「私も気になる。知ってたら教えてよ」 「文化祭一緒に回る子ってもう決まってるのかな」  人が人を呼び、亜生の周りの人口密度が一気に高くなった。蜂の巣をつついたように煩くなり、勉強どころじゃなくなる。  得意気に女子の質問に答えている中野に、一言言ってやりたくなった。中野、と声をかける。 「自分のマウントのために千隼の名前を使うの、やめろよ」  見苦しいから、とさらに言ってやる。  急にその場が静かになった。  中野のニヤついた顔が一変した。眉間にしわを寄せて亜生を睨んでくる。 「お前だってマウント取ってるじゃん。榊の下の名前をこれ見よがしに呼んでさ」 「それはマウントじゃない。ただの習慣だ」  本人に「千隼と呼べ」と言われたのだ。ファーストコンタクトからそう時間が経っていないときに。 「親友面してんじゃねえよ。お前もそのうち飽きられて見向きもされなくなるからな」  舌打ちをしながら、中野が席を立ち、逃げるような足取りで教室のドアに突進していく。  亜生が指摘したことがけっこう図星で、気まずくなったのかもしれない。  中野がいなくなると、集まってきていた女子も退散していく。亜生が千隼の情報を漏らすことがないことを、彼女たちはこの二か月で学んでいるのだ。が、一人だけ、亜生の傍に残っている女子がいる。 「なに?」  オシャレに拘りがありそうな子だった。髪にはピンクのメッシュが入っていて、顔に合った化粧を施している。 「いや、横内ってさあ、眉毛を整えれば格好良くなりそうな予感がするんだよね」  馴れ馴れしい口調で言いながら、中野が座っていた椅子に腰をかけた。 「へ? そう?」 「うん、眉毛整えようよ。カット鋏あるから、今やってあげる」 「それって校則違反じゃ」 「ははっ、飛行機乗る前に持ってたら引っかかるけどね。まあ良いじゃん。やったげるって」  この子とは一度も話したことがないのだが、めちゃくちゃフレンドリーだ。こちらは彼女の名前も知らない。なかなか可愛い。  可愛い子に顔を近づけられて悪い気はしない。ふつうの男の性を、亜生だって持ち合わせている。  キャラクターのワンポイントが付いたポーチから、彼女が小さい鋏を取り出した。 「目、瞑ってて。ささっと終わらせるからさ。私、眉毛カットうまいから」  言われた通り、亜生は瞼を閉じた。  夢はカリスマ美容部員なんだ、と弾んだ声で言って、彼女が体を寄せてくる気配がした。ふわりと女の子の匂いがする。香水かシャンプーだろう。  ジャキ、ジャキ、と眉毛がカットされる音が聞こえた。頬に切り落とされた毛が落ちた。少しこそばゆい。ぱぱっと眉間や目じりを指で払われる感触がした。そしてまた、ジャキ、ジャキ、と音がした後、「終わったよ」と声をかけられた。あっという間だった。 「横内って坊主だから、めっちゃやりやすかった」  渡された手鏡に己の顔を映す。  眉毛の量が少なくなってスッキリしている。爽やかさもアップしたような。 「野暮ったさが無くなったよ。やっぱ顔の造りは良いんだよ、あとはメンテだね」  私の見立ては正しかった、と納得した口調で言いながら、亜生の坊主頭を撫でてくる。  坊主頭って撫でられやすいよな、と思いながら彼女の顔を眺めていたときだった。 「何してんの」  淡々とした声が近くで聞こえてきた。聞き慣れた低い美声。  いつの間にか、亜生の一メートル前方に千隼が立っていた。 「俺の席」  呟きながら、亜生の頭にのっている華奢な手を、千隼が容赦なく払った。 「うっわ。こわ」  彼女はいったん気を悪くしたように眉を寄せたが、千隼の気迫にたじろいだのか、素直に席を立ち、女子の群れに溶け込んでいった。 「何してたんだ」  ムスッとした顔で、彼がいつもの席に座った。 「眉毛カットしてもらった。どう? 少しは垢ぬけた?」  悪くないと思うのだが。  自分から彼に顔を寄せると、顎を掴まれた。見下ろしてくる双眸は怜悧な光を放っているのに、眼差しは熱い。目を閉じて視界から閉め出したくなった。だができない。目を閉じるのは間違いだと警鐘が鳴っている。  一定の距離を保ったまま、千隼が亜生の頬に触れてくる。カットされて落ちた眉毛の断片を、器用に取り除いてくれている。  沈黙が怖い。 「どこ行ってたの」 「職員室」 「ふーん。文化祭、誰と回るか決まってるの」  さっき女子が中野に質問していたことを思い出して、自分も聞いてみる。 「お前だろ」  当たり前のように返され、亜生は苦笑した。勝手に決められても。第一文化祭は、今から三か月後だ。そのときに自分たちの仲がどうなっているのかも分からない。 「由生と回るかも」 「いても構わないけど」  でも嫌そうな声だ。邪魔者扱いだ。  千隼の指が、亜生の頬から遠のいた。机にティッシュペーパーを広げ、指で摘まんだ眉毛の断片を落とす。包んで丸める。捨てには行かずに、そのまま。  千隼が持参した弁当を広げ食べ始めた。昼休みの残りは二十分。 「いつも美味そうだよな」  千隼自らが作っている弁当は、簡素だが見た目も彩りも悪くない。俵型のおにぎりは形が整っていてわざわざフリカケまでまぶしてある。総菜の中では、とくに出汁巻き卵が美味しそうだ、と思ったのを察したのか、彼がそれを箸で挟み、亜生の口元に持ってくる。戸惑っていると、ノックするように唇に当ててくる。早くしろよ、と漆黒の目を苛立たせて訴えてくる。観念して口を開けると、すっと卵焼きが入ってくる。  卵焼き自体はすごく美味しい。だが、周りの視線が痛い。「わあ」とか「ええっ」なんて女子の声が聞こえてくる。  俯き、口を閉じて咀嚼していると、頭の上に声が降ってきた。 「千隼」  少し傲慢が滲んでいる、綺麗な声。  顔を上げると、美人が腕組みをして立っている。小さい卵型の顔に、大きな目、形の良い鼻、清楚な唇、手入れの行き届いた艶のある長い黒髪――。初見だったが、直感する。姉が話していた。千隼と唯一、釣り合いが取れそうな容姿端麗の女子がいると。その人だろう。  まるで彼女の呼びかけが聞こえていないかのように、千隼は振る舞う。弁当を黙々と食べ続ける。 「千隼」  苛立った声で、再度呼ばれても無視。 「榊くん」  咳払いのあと、彼女が苗字で呼びなおすと、ようやく千隼が顔を上げ、彼女に目を向けた。 「たまにはうちに食べに来てって、母が言ってるんだけど」 「有難いけど、一人でどうにかやってるから」  間髪入れずに断っているのを見て、つい笑いそうになった。彼女はちょっと可愛そうだが。  実際顔は緩んでいたのかもしれない。ムッとした表情を浮かべた後、彼女が亜生に話しかけてくる。 「最近、手軽に二重にできるコスメがあるから、使ってみたら」  一瞬、彼女が何を言いたいのかが分からなかった。が、頭の中で言葉を反芻して、理解する。 「失礼なことを言うな、裕木(ゆうき)」  亜生が口を開く前に、千隼が声を荒げて言った。  その態度に怖気付いたようで、彼女は呆気なく退散していく。  引き続き、千隼が黙々と弁当を食べ、残りは俵型のおにぎりが一つとなった。  ――千隼も大変だよな。周りにマウントを取りたがる奴がうじゃうじゃいる。  さっきの美人もその類だろう。人前で千隼の下の名前を呼んで、親密なことをアピールしようとしていた。失敗に終わったが。彼女の話からすると、千隼と彼女は家族ぐるみの付き合いがあるようだ。 「今の人――裕木さん? とは幼馴染とか?」 「そうだよ。高校に入ってすぐのときは、裕木の家にご飯を食べに行ってた。よく呼ばれて」  ふーん、と相槌を打つと、千隼がじっと亜生の顔を見てきた。 「さっきは悪かったな。あいつが失礼なことを言った」 「いや、気にしてないから」  気になるようなら、左目も整形で二重にしたら、と姉に言われたことがあったし。  亜生はあんまり、自分の外見に頓着していないのだ。親が外見より内面だと常日頃言っていたし、その教えは正しいと思っているから。  反対に、千隼を取り巻く環境の方が大変そうだ。彼の外見を崇拝する輩が多すぎる。 「千隼の方が大変そうじゃん。少し不細工になる整形でもしたら」  とくに笑わせるつもりで言ったわけじゃないのに、千隼が俵おにぎりを口に含んだ状態で吹き出した。飯粒が机に飛んだ。 「なんで笑わせるんだ」  迷惑そうに言うものの、まだ顔に笑いが充満している。 「いや、今のは笑うところじゃないだろ」 「こんなこと誰にも言われたことがない。斬新すぎ」  なかなか良いアイディアだな、とまた千隼が笑みを浮かべた。
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