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 朝の六時半。アラームを消してベッドから出た。寝汗をかいていて気持ちが悪い。四畳半の個室から洗面所に移動し、顔を洗い、うがいをしてから居間に向かった。  すでに制服姿の由生が、台所に立っていた。  おはよ、と声をかけると、おはよ、と返される。 「今日も暑いね。まだ六月なのに」  うんざりしたように姉が言う。 「そうだな」  東京の六月は暑い。この時期でも熱中症の患者が出ているほどだ。昨日のニュースでその情報を聞いて少し驚いた。  四人掛けのテーブルに着く。炊きたてのご飯と、ねぎの味噌汁、焼き鮭と卵焼きが並んでいる。毎朝ちゃんとしているから凄いなと思う。    横内家の朝食は、姉の由生が作ると決まっていた。弁当もついでに用意してくれて有難い。その代わり、平日の夕食は亜生が担っている。  いただきます、と言ってから箸を取って、味噌汁を飲む。ご飯、鮭、卵焼きを順番に少しずつ食べていると、ふいに姉が話しかけてくる。 「昨日さあ、榊くんに卵焼き食べさせてもらったんだって?」 「もう知ってんの」 「当たり前。女子の情報網を舐めるなよ」  弁当におかずを詰めながら由生が言う。  ――情報が駄々洩れだな。  榊千隼に関することなら、どんなことでも。もはや芸能人を追いかける芸能リポーター並みの活動になっている。 「仲が良いならさ、榊くんのこと色々教えてよ」 「やだ」  即答する。彼女たちのストーカーじみた活動に、加担する気なんてさらさらない。 「ええ~? ちょっとくらい教えてくれても良いじゃん。レアな情報を流せば、一目置かれるんだから」  またマウント取りか。とうとう姉まで。どこまで暇な学校なのだろう。ウンザリしてくる。 「そんなくだらない活動してないで、ちゃんと勉強しろよ」  わざと呆れた声を出して、姉を窘める。  「勉強なんてするわけないじゃん。受験ないんだから」  あ、そうか、と亜生は納得してしまった。いま通っている学校は、内部進学率が九十パーセント以上だ。よほど落ちこぼれない限り、余裕で付属の大学に上がれるのだ。だからなのか、授業のレベルは高いのに、教室の雰囲気がのんびりしている。  姉が弁当作りを終えて、亜生の隣に座った。そのタイミングで、母が寝室から出てきた。おはようと、三人で声を掛け合う。 「今日も美味しそうだね。ありがとね、由生」  母がボブショートの頭を掻きながら、向かい側の席に座る。まだ眠そうに欠伸をしている。 「母さん俺、そろそろバイトするから」 「ああそう。どんな?」 「まだ決めてないけど。学校にも慣れてきたし。土日と平日一日くらい」  受験勉強をしなくて済むのだから、バイトぐらいはして、少しでも家計に貢献したい。 「じゃあ私もバイトしようかな」 「そうだよ、しろよ。暇なんだろ」 「何その言い方」 「こらこら、朝から喧嘩しないの。ところで今日は二人の誕生日だけど――なにか欲しいものある?」  言われて初めて気が付いた。今日が自分の誕生日だと。六月二十日。  欲しい物が全く思い浮かばない。 「とくに無いや」 「じゃあプレゼント無しで良いの?」 「良いよ」 「無欲だねえ。私もあげないよ」  箸から鮭をぽろりと落としながら由生が言う。 「良いよ別に」  欲しくない物を無理やり贈られるよりはマシ。 「私は欲しい物あるからちょうだいね。LINEでリンク送るから」  あんたにも送るよ、と顔を向けられる。欲張りな奴だ。 「千円未満な」と答えながら、亜生は席を立った。  ちょっと気分が良い。とうとう自分も十八歳か。今年の夏休みは、合宿免許でも取りに行きたい。その前に費用を稼がないといけないが。  午後一時半。  冷房が効いている教室内は、涼しすぎて眠気が加速する。  授業を聞きながら、二階の窓から外を見る。少しカーテンを開けて隙間から。  校庭で男子がサッカーをしている。今日のこの時間帯は、千隼のクラスだ。 だから前方に座っている女子が、頻繁に窓の外を見ている。いつもの光景。  千隼が敵チームの守備をうまく躱してドリブルを続け、自然な動きでゴールにシュートを打った。ガタイの良いキーパーの股下を通って、ボールがネットを揺らす。  サッカー部でも、毎日昼休みにボールを蹴っているわけでもないのに、こんな動きができるなんて。ルックスも良くて勉強もできて、その上、運動神経も抜群とか。長所を持ちすぎていて、重くなったりしないのかと思った。  同じチームの仲間にハイタッチを求められ、気軽に応じている。年相応の青年に見える。  だから体育の時間の彼には、親近感が湧く。  気が付くと、千隼のクラスが体育のときは毎回、こうやって外を見てしまう。  でも、亜生に会いに来て、近くで話をしていく千隼は、いつも少し怖いのだ。常に亜生は緊張している。自分を見てくる目が、友達に対するそれではない気がして。  思わせぶりな言葉が重なり、もの言いたげな視線を何度も投げられて、むしろこちらから、何か行動を起こさくてはいけないのかと考えてしまう。  ――ダメだ。そうしたらあっちの思うつぼなんだ。  自分の思い違いなら良い。自信過剰なだけなら。  ――俺も千隼も男なんだし。  当たり前のことを、自分に言い聞かせる。  千隼は女にモテる。「控えめに言って超絶美形」とまで言われる男なのだ。気が向いたら彼女を作って遊び、飽きたら一言も謝ることはなく、自然消滅で終わらせる。そんな酷い噂を耳にしたことがある。それでも「最低な男」とレッテルを張られないのが千隼らしい。短い時間でも相手にしてくれて幸せだった――これが、自称元カノたちが口にする言葉。千隼と付き合ったことがある、という事実が、彼女たちの美味しいマウントのネタになる。  ――俺は男だし、ノーマルだ。  そうだったはず。今だって、好みの女の子が近くに来れば、ちょっとドキドキしたりする。  前の学校では彼女がいた。一年付き合っていた。童貞は一年のときに捨てた。  窓の外ではサッカーが終っている。ジャージ姿の男たちがずらずらと校舎に向かって歩いて来る。輪の中心にいる千隼が、顔を上げた。こちらを見た気がした。  亜生は視線を黒板に戻した。  放課後。配られたばかりの『進路調査票』を眺めながら、さっき担任が言った言葉を思い出す。  ――外部受験がしたい奴は早めに相談しろよ。  早めに対策しないと間に合わないぞ、とも言っていた。  亜生は心が揺れた。  外部受験ができるなら、それも良いかもしれない。国立大に行けば、母親の負担が減る。  もともと亜生は、公立に転入したかったのだが、亜生の学力レベルに合う公立高校が転入生を募集していなくて、それが叶わなかったのだ。この学校の付属大――法学部は、司法試験に強いと聞いたから、転入試験を受けた。亜生は弁護士になりたかった。一年前に病死した父が、母と一緒に法律事務所を経営していた。弁護士として働く両親を身近に見てきて、自分も同じ職業に就き、困っている人を法律で助けたいと思ったのだ。  ――でもなあ、予備校にも通わずに受験なんてできないし。  予備校代を母親に出してもらうわけにもいかない。お金がかかって本末転倒だ。独学の勉強で受験となると、何ランクもレベルを下げることになる。司法試験に受かる可能性が低くなる。  ――やっぱりこのまま内部進学してバイトをすれば良いかな。  大学生になったら家庭教師とか、塾のチューターとか、高時給のバイトができるようになる。 『進路調査票』に、内部進学希望と書く。希望学部には、法学部。  一応、他の可能性を考えた上で出した第一希望だ。気持ちがスッキリした。 「亜生」  背後から声をかけられた。すごく近い。  振り返ろうとする前に、肩に手が置かれる。そしてぎゅっと掴まれる。親密な手の動き。顔に熱が集まった気がした。 「法学部希望なんだな。弁護士になりたい?」  千隼の疑問符が優しく響く。  亜生は前を向いたまま頷いた。周りには珍しく人がいない。もしかしたら、思っていたより長く、ここで物思いにふけっていたのかもしれない。  肩から手が離れた。ホッとする。鼓動が煩い。  千隼が前の席の椅子に座って、こちらを見てくる。 「亜生って前の学校で、彼女がいたの?」  いきなり恋バナを振られて、ちょっと驚く。今まで一度も、恋愛系の話をしたことがなかったのだ。千隼とは。 「いきなりどうした?」 「そういう話を聞いて」  誰に、と聞くのは愚問か。その情報を知っているのは姉しかいない。 「いたよ。一年ぐらい付き合った」 「どうして別れたんだ?」  興味津々といった様子ではなかった。少し苛ついたような声。 「別に大した理由じゃない」 「言えって」  言わない限り、ここから帰してもらえない予感がする。  亜生はため息を吐いた。あまり話したくないのだが、仕方がない。 「彼女とエッチするのが嫌になったんだ。だから別れた」 「なんで嫌になったんだ」  意外そうな目で問いかけてくる。まあこの年齢でエッチが嫌とか、おかしいだろう。 「一度その子の生理が遅れたんだ。ちゃんとゴムしてたし、結果的には大丈夫だったんだけど。それからするのが怖くなった。万一妊娠させたらって。責任取れないのにするもんじゃないって」  彼女の生理予定日から一週間、不安で堪らなくて、何も手に付かなかったことを覚えている。こんなことなら、セックスなんてしなければ良かったと後悔した。 「高校を卒業するまでエッチはしないって話したら、あっちが無理って言ってきて」  それで呆気なく終わった。真剣交際のつもりだったのに。 「お前って真面目だよな」  千隼が苦笑している。その顔に苛立ちはもうなかった。 「馬鹿にしてる?」 「してないよ。そういうお前が良いんだ」  いきなり彼が破顔した。意味が分からなくて首を傾げる。 「今日、誕生日だよな。プレゼントを用意してるんだ」 「プレゼント?」  ちょっと嬉しいかも。誕生日を教えたことがあったかどうか、すぐに思い出せない。  ――千隼って趣味が良さそうだし。  シャープペンやノートなどの文房具系かと思った。もしくはカバンに着けるキーホルダーの類。  千隼が学校指定のスポーツバッグから、紙袋を取り出す。思っていたより小さい。ポチ袋サイズだ。  封を開けて、彼がそっと取り出した。手のひらにキラリと光る、赤い石。 「え」  掠れた声が出た。  ピアスだった。赤い色。たぶん、ルビーだ。いま着けているピアスより石のサイズが大きいし、光が眩い。高そうだ、いや、そんなこと、今はどうでも良い。 「なんでそんなの」  同性の友達に贈るような物じゃない。おかしい。  鼓動がドクドクと鳴り続ける。首筋に冷や汗が流れた。 「亜生に似合うと思った。いま着けているのは、由生姉からもらった物だろ」 「そうだけど」 「亜生が俺以外の人間からもらった物を身に着けているのが嫌なんだ。たとえ身内からの物でも」  千隼は笑っていなかった。漆黒の美しい瞳を、亜生だけに向けている。他のものは何も見えていない目。 「――受け取れない」  亜生は衝動的に立ち上がった。机にあるプリントを掴んで、フックに掛けてあったカバンを急いで引っ張り上げる。 「待てよ、亜生。受け取れよ」 「いやだ。欲しくない」  受け取ったら、戻れなくなる。  これはどう考えても求愛じゃないか。受け取ったら最後、もう千隼から逃げられなくなる。  ――怖いだろ、こんなの。  亜生は必死になって教室の出口を目指し、昇降口まで走り抜けた。  追いかけてくる足音が聞こえないことを、校門を出たあたりでようやく確認し、それからは普通の速度で駅まで歩いた。
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