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 一人になりたくて、昼休みになった瞬間にダッシュで教室から出て、屋上に続く階段を上った。ものの、やっぱり塔屋につながるドアには鍵がかかっていた。  潔く諦め、階段の踊り場で姉お手製の弁当を広げる。マイボトルの麦茶を一口飲む。  ここもなかなかのロケーションだ。三階と四階の間。いちいちここまで上ってくる生徒はいないだろう。騒ぐ声も聞こえてこない。  弁当を半分食べ、空腹が満たされてくると、急に脳裏に浮かんできてしまう。昨日の出来事が。なんとか友達の範疇だったのに、途中で千隼が台無しにした。  赤いルビーのピアス。あんなものを出してきて。  ――亜生が俺以外の人間からもらった物を身に着けているのが嫌なんだ。 「おかしいだろ」  声に出して否定する。  高価だから受け取れなかったわけじゃない。あれがプラスティックの安物だったとしても拒否していた。渡してくる動機が、おかしい。  スマホの振動で、思考を中断させられる。スマホを見る。由生からLINEが来ていた。 『今どこ?』  教えるわけがない。自分の情報が、姉から千隼に筒抜けだということが分かっている。  昨日の夜に話した。  ――俺に彼女がいたこと、千隼に話しただろ。  ――うん、榊くんに聞かれたから。  彼女は悪びれもせずに肯定した。他の情報も漏れている可能性がある。 『教えない』  一応返信する。  残り半分の弁当を食べて寝転がった。また姉からLINEが来た。 『なに怒ってんの』 『怒ってない。弁当美味しかった』  ただ顔を合わせたくないだけ。  またLINEの着信がある。今度は姉ではなかった。千隼だ。初めてのLINEのメッセージだ。だいぶ前にLINEの友達登録は済ませていたが、実際にメッセージをやり取りしたことは一度もなかった。平日は毎日会っていたし。 『今どこにいる』 『会いたくないから教えない』  正直にメッセージを打つ。これで彼との関係が終るならそれで良い。まだ引き返せると思った。今の段階なら。  少しだけ胸がチクリと痛んだ。いや、かなり痛いのかもしれない。  もう関わらないのかと思ったら寂しくはなる。でもあの目でじっと見続けられて、ずっと平静を保っていられるとは思えない。彼の強引さに、容易く引きずられてしまう自信がある。だからこそ。 「亜生」  静かな空間に、低く聞き心地の良い声が響く。  うとうとしていただけだから、亜生はすぐに目を開けられた。  傍らに立ったまま見下ろしてくる男がいる。下から見上げても、彼の顔は変わらず端正だった。 「どうしてここが――」  いや、分かりやすいかもしれない。ボッチ飯の場所=屋上のイメージ。亜生だけだろうか。 「教室にいないから探した」  いや、昨日の今日で、大人しく教室で待っている方がおかしい。ふつうに千隼と顔を合わせられる方が。 「千隼は――距離の取り方がおかしい」  亜生は上体を起こした。少し頭がふらつく。湿気た空気のせいか、若干の頭痛。早く梅雨が終れば良いのに。  風が生まれた。  千隼が屈みこんだのだ。視界に入る彼の腕。半袖シャツから覗く、筋肉のついた硬そうな二の腕。 「どこがどうおかしい?」  大きな手のひらに頭を包まれる。そして頭皮を指の腹で揉まれる。本当は髪の毛を梳きたいのかもしれない。恋人みたいに。  優しい声でもう一度「どこが」と問いかけられる。甘さはない声だ。亜生の意見が間違えていると、指摘しているような響き。 「こういうのは違う」  じくじく痛みだすこめかみ。額に汗が浮く。触れられた場所が発熱していく感覚。 「こういうの?」  喉で笑いながら、顔を近づけてくる。きれいな顔。左右対称の、均整が取れすぎてぞっとするほどの――。  近くなりすぎて、焦点が合わなくなる。気が付いたときには触れていた。  形の良い唇は、感触も良かった。湿気のせいか、彼のそれは乾いていない。  千隼の両肩を掴む。押し戻して、体を遠ざけようとする。でも力がちゃんと入っていないのか――彼はびくともしなかった。体格差? 身長は五センチ程度しか変わらないのに。腕の太さが違う。胸の厚みも、腰回りも、すべてが。  首の後ろを容赦なく掴まれた。唇が離れるどころか、さらに強く押し付けられる。彼の舌が唇に触れてくる。力を込めて閉じていたはずの口が勝手に緩む。舌が入ってきて、亜生の口内を好きなように動く。絡まる舌が生々しい。敏感な上顎を舐められれば、普通に反応を返す。顔が震えた。  いつの間にか目を閉じていて、巧みなキスに翻弄されている自分がいる。  千隼の肩を掴んでいた指から、力が抜けていく。ただ添えているだけの手になる。  キスを中断させたのは、昼休み終了のチャイムの音だった。  我に返った瞬間、頭がズキズキと痛み出した。こめかみを指で押す。 「頭痛い」 「大丈夫?」  額に手が添えられる。イメージに反して、その手は温かい。 「保健室に行こう」  当たり前のように握られる手首。振り払う気力が生まれない。  手をつないだまま、保健室まで連れて行かれる。  唯一の救いは、昼休みが終っていることだった。廊下にいる生徒はいなかった。  亜生は五限の間は保健室のベッドで眠り、六限が始まる前に早退した。  翌日からは、徹底的に千隼と顔を合わせないようにした。  三限目のあとに早弁して、昼休みは校庭で級友とサッカーをする。放課後は残らない。下校のチャイムと同時に教室を出るようにした。  それを一週間続けると、千隼が教室に来る気配もなくなった。  期末試験の期間になり、さらに他クラスの生徒と顔を合わせる機会が減って、少し安心し始めた頃。 「最近、榊の奴来ないな」  また仲が良くなってきた中野に声をかけられて、「もう終わったんだ」と返した。  期末試験が終わり、夏休みが目前に迫ってきた。  朝、洗面所の前で歯を磨いていると、「ちょっとどいて」と由生が乱入してきた。鏡に顔を近づけて、念入りに眉を描いている。 「彼氏でもできた?」  なんだか姉が色気づいている。もともとは可愛い感じの顔なのだが、背伸びして大人っぽくしているような。 「え? 知らないの? わたし今、榊くんと良い感じなんだ」 「え」  知らなかった。寝耳に水だ。 「最初は亜生のことばっかり聞いてきたけど、いまは普通のこと喋ってる。この感じだと、夏休みにデートできるかも」  嬉しそうに笑う姉に、亜生は顔を強張らせたまま「そうなんだ」としか返せなかった。  ――たまたま次のターゲットが由生になっただけか?  何か企んでいそう、と思ってしまうのは、自分の思い上がりなのだろうか。  由生と一緒に玄関に向かう。と、姉のスニーカーがまた新品になっていることに気が付いた。 「また買ったの」  最近、金遣いが荒い気がする。 「無駄遣いじゃないよ。すぐに盗まれちゃうんだよね、学校で」 「え、盗まれる?」  それは大事じゃないか。でも由生の表情は明るくて、言っていることと一致していない。 「嫉妬だよね。私と榊くんが仲良いから」  可愛く肩を竦めて、鼻歌を歌いながらスニーカーに足を入れている。 「由生、それって良くないだろ。盗まれたんなら、ちゃんと先生に報告して――」 「良いってば。嫉妬されてるだけなんだから。いわば勲章だよね」  得意気に笑って、玄関のドアを開ける。なんだかいつもの姉ではない気がした。    放課後。四時限で授業が終わって、人もまばらな教室で、亜生は窓際の席から校庭を眺めていた。眼下には、十人弱の集団が移動していた。輪の中心にいるのは、千隼ともう一人――亜生の姉だった。 「今度はお姉ちゃんの方と仲良くなったね」  同じクラスの女子が話しかけてくる。以前、眉毛をカットしてくれた美容部員志望の可愛い子だ。 「大事にしてくれるんなら良いけど」  どうも不安だ。千隼と仲良くしていることで、由生がイジメにあったりしたら困る。いや、すでに靴を盗まれている事実があるのだ。 「まだ付き合っている感じじゃないから大丈夫じゃないの。これが『ちゃんと付き合います』ってなったら、やばいかもね」 「やばい?」 「女子の嫉妬がやばいじゃん。そこは榊も考えてるでしょ」 「考えてるって?」 「深入りしないように制御するんじゃないの。今までそうだったし」  つか、また眉が伸びてるよ、と彼女が顔を近づけてくる。亜生の前の席に座って、眉鋏をポーチから取り出し、勝手に亜生の眉をカットし始める。 「遊ばれて終わる?」  噂の通りに。お気に入りと何回か関係を持って、飽きたら捨てるのか。由生も例に漏れずに? 「普通のお付き合いよりマシなんじゃないかな。まあ、榊が本気で好きになればまた別だけど。榊関係でイジメを主導してるのって、裕木のグループだからね。榊が彼女たちに『虐めるのやめろ』って言えば、鶴の一声でやめるでしょ」  反対に、千隼が何も言わなければ、付き合っている相手は虐められ放題ということか。  ――いわば勲章だよね。  そう言って笑った由生なら、どんなイジメにも耐えてしまいそうだ。 「関わらない方が良いな」 「だよねー。私は興味ないんだよね、榊には」 「へえ、珍しいね」 「手を加えたくなる素材の方が、見てて楽しいから」  チョキン、と音を立てて、鋏の刃が重なる。眉毛が切れた。 「一応、お姉ちゃんに忠告しておいた方が良いよ。あんまり調子に乗らない方が良いって」  急に真面目な顔になって、手鏡を渡してくる。 「ありがとう」  有意義な情報も、眉毛カットも。    家に帰り着き玄関のドアを開けると、由生が上がり框に立っていた。 「遅かったじゃん」  そわそわした様子で、由生が話しかけてくる。 「俺を待ってたの?」  何も約束はしていなかったはずだが。 「今度、榊くんとデートできるかもしれないんだよ」 「良かったな」  今は忠告をする気になれない。由生の楽しみに水を差すようで。 「応援してくれるよね? 私のこと。榊くんと付き合って良いよね」 「はあ? 何で俺の許可が必要なの。勝手にすれば良いだろ」 「そうはいかないんだよ。亜生が許可すればデートするって言ってる」  ――何だよ、それ。関係ない俺に、デートするしないを一任?  いや、関係はあるのかもしれない。千隼にとっては。 「由生はさ、本当に千隼のことが好きなの? そんな風には見えないんだけど」  学校で一番人気の「超絶美形」と付き合いたいだけのような気がする。嫉妬されて虐められても、傷つくどころか嬉しがっているし。 「マウント取りたいだけなら、やめておけよ。目立ちたいなら、自分が目立つことすれば」  冷静な声で話す。その方が由生の心に響くと思った。が、逆効果だったようだ。彼女がムッとして顔を歪ませた。 「マウント取りたくて何が悪いの? 誰だって注目されたいじゃん。私だって皆に羨ましそうな目で見られたい。今まで一度もこんなことなかったんだから」  ――まあ俺たちはいつも普通だったからな。  容姿が秀でているわけでもない。集合写真でも埋もれるほど平凡だ。勉強はできる方だと思うが、学年でトップの成績を取ったこともない。それがいきなり、全校生徒から注目を浴びる存在になったのだ。舞い上がっても仕方がないのかもしれない。  ――前はここまでマウント取りたがったりしなかったのに。  落胆のため息が出そうになる。 「榊くんにすぐに電話してよ。デートを許可するって」 「はいはい」  とりあえず彼に電話はしておくか。変な目的で、姉のことを振り回すなと。  自分の部屋に入って、スマホを手に取る。LINEのアプリを開いて、トーク画面を見る。上の方に、千隼とのやり取りがあった。 『今から電話していい?』と許可を得るのも面倒だった。さっさと電話をかける。  呼び出し音が二回鳴ったところで、相手が出た。 「亜生」  その声は、以前話したときと同じように、優しくもあり、冷たくもあった。嬉しそうにも聞こえるのは自分の驕りだろうか。 「俺の身内って理由で由生にちょっかい出してるならやめろよ。すでに虐められてるんだから。靴を盗られて」 「それは俺のせいじゃないだろ。誰かが妬んで勝手にやった」  悪びれもしない態度に腹が立ってきた。 「お前が裕木さんに『虐めるな』って言えば一発で止まるんだろ」 「よく知ってるな。亜生らしくないな、情報通で」 「とにかく、本当に由生のことが好きってわけじゃないなら、もう関わるなよ」  もう切るからな、と言って、耳からスマホを離そうとしたとき。 「うまく解決したいなら、とりあえず俺の部屋に来いよ。そこでじっくり話そう」 「え」 「家のマップ付けておくから。すぐ来いよ」 「え、ちょっと待っ――」  プツリと通話が切れた。すぐにメッセージが届く。本当に住所のマップが送られてきた。
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