1/1
909人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

 噂通り、千隼の住むマンションは、都内の一等地に立っていた。地図を見ながら、駅から数分歩くと、グレーの縦長のマンションが見えてきた。周りも似たようなビルが多くて、住宅街ではなくオフィスビル群といった印象だ。  自動ドアからエントランスホールに入り、オートロックの前に立った。事前に教えてもらった部屋番号、七〇二と押す。インターフォンの音が鳴った後、さらに内側にある自動ドアが開いた。慌てて開いているドアから中に入り、ちょうど一階に待機していたエレベーターに乗り込む。  オシャレで高級そうなマンションには、これまで訪れたことがなかった。ちょっと緊張した。いや、そんなことで緊張している場合ではない、と思い直す。  どうやって交渉すれば、由生から手を引いてもらえるのか。  電車で移動中、一応考え込んだのだが、全然良い案が浮かんでこなかった。  由生に手土産を持って行くように言われたので、とりあえず自宅の最寄り駅で煎餅を買ってきた。自分が好きなのはザラメ味と、七味唐辛子味なので、それを五枚ずつ。  ――千隼って甘い物が苦手そうなイメージなんだよな。  実際、スイーツを食べている所を見たことがなかった。煎餅もないが。  ――って、なんか緊張感足りてないよな? ビシッと言いに行くんだよな?   姉から手を引けと。  でもなんだか、気持ちがピリッとしないのだ。まるで、まるで――ふつうに会いたくて会いに来た、ような。  いつの間にか七階に到着していた。扉が閉まりそうになっていて、『開』ボタンを押して急いでエレベーターから外に出た。  部屋の番号を口の中で唱えながら廊下を歩く。すぐに部屋が見つかる。  ドアには一切傷や汚れが付いていなくて、新築なのかなと予想。インターフォンを押すと、数秒でドアが開かれた。  微笑んでいるわけでも、睨みつけてくるわけでもない、ニュートラルな表情の千隼が立っている。  久々に「超絶美形」の顔を目の当たりにして、気後れする。彼は私服だった。グレーのTシャツにジーンズ。こういうラフな格好は初めて見る。 「あ――久しぶり?」  変に語尾が尻上がりになってしまった。 「亜生が避けていたからだろ」  その通りなので、何も言い返せない。  ――だってお前が、変な態度を取るから。  キスまでしてしまったのだ。わけが分からないうちに。 「入れよ――それは?」  手に携えている紙袋を見られる。 「あ……一応手土産のつもり」  呑気にこんな物を持ってきている場合じゃなかった。でもせっかくだし渡すか。 「ありがとう」  苦笑しながら千隼が受け取った。  急かすように「入れよ」とまた言われ、意を決して中に入った。とたん、外を歩いてきて熱を持った肌が、一気に冷えた。  玄関入ってすぐに、二十畳程度の広さのフローリングが見えた。想像通りの、生活感のない部屋。棚がないのは、ウォークインクローゼットがあるからか。ぱっと見た感じテレビがない。中央にソファとローテーブルがある。窓際に勉強する用のデスクとチェア、あとはベッド。大きさはセミダブルだろう。亜生の部屋のベッドより少し大きめだ。 「座れば」  ソファに回り込もうとしながら、千隼が振り返ってくる。亜生は首を横に振った。  話は長くならないはずだ。 「これ以上由生にちょっかい出すな」  亜生は千隼の目をしっかりと見た。ここで怖気づいてはならない。こちらの望み通りに事を進ませるためには、強気の姿勢で行かなくては。  千隼もしっかり亜生の目を見返してくる。わざとっぽく肩を竦めながら。 「さっきから亜生は勘違いしてる。俺から声をかけてるわけじゃない。あっちから誘ってくるんだ。昼休みに俺のクラスに来ていろいろ話しかけてくる。帰りも一緒に帰ろうってな」 「断れよ」 「嫌でもないのに? それに亜生の身内だろ。冷たくするのもな」 「だったらあいつが虐められないように対策してくれよ」 「なんで俺が? 虐める本人が悪いんだろ。お前が対策してやれよ」  投げやりな態度で言ったあと、千隼がソファに座った。 「――卑怯だろ。俺に意趣返しがしたくてこんなこと」  亜生も反対側からソファに回り込み、テーブルと並ぶ形で千隼のことを見下ろす。強い視線を向けた。 「そんな態度で頼まれても――お前、自分の立場が分かってる?」  ひんやりした声で、呆れたような視線を投げてくる。首筋がすっと冷たくなる。  結局、千隼のペースになっている。彼は他人の意のままになるような玉じゃないのだ。   こちらが言い返せずにいると、千隼が先に口を開いた。 「俺がお前の姉さんのために動くってことは、真剣に彼女と付き合うってことだ。亜生はそれで良いの?」  鋭い口調で問われる。彼の目が、しっかりと亜生の目を見据えてくる。 「俺は」  声が掠れる。次の言葉が出てこない。  ――千隼と由生が真剣に付き合う?  そんなことあり得るんだろうか。もしそうなったら、最悪、二人が結婚する可能性だって出てくる。  ――それは嫌だ。  ぎゅっと拳を握る。  なぜ嫌なのか、自問する。  ――由生が不幸になるから。  違う。由生は不幸にならないだろう。千隼が真面目に彼女と付き合うなら。  順調に付き合いが進んで、最終的に二人が結婚して――そんな想像をしてみる。  嫌だと思った。  ――俺が嫌なんだ。  じくじくと胸が痛む。  ――俺が、千隼のことを好きだから。  認めざるを得ない。自分の気持ちを。 「千隼――、由生とは付き合わないで。お願いします」  千隼が由生をどう扱おうと、嫌なものは嫌だった。二人が付き合うのは、絶対。  ソファに座ったまま微動だにしない千隼を、そっと窺う。冷めた目で亜生のことを見ていた。  亜生は腰を屈めた。膝をつく。フローリングの床が冷たい、痛い。 「亜生」  急に甘さの滲む声で名を呼ばれる。 「跪いて頼まれても、俺の心は動かない。どうすれば効果的なのか、亜生は分かってるよな」  簡単なことだ、と千隼が続ける。 「亜生」  さらに甘やかすように、呼びかけられる。  全身の皮膚がざわついた。恐ろしいのに、甘美な誘惑だった。  逃げ出そうとする気が起こらない。体から力が抜けていく。  最初から分かっていたのかもしれない。ここに来たらどうなるのか。  二者択一を突きつけられたら、自分がどちらを選ぶのか、とっくに。  ごくりと唾をのんだ。  フローリングから立ち上がり、無言のまま歩を進める。千隼の前で止まる。彼は座ったままだ。 「千隼」  出てくる自分の声も、やけに甘ったるい。  千隼の膝に乗って、自分から顔を近づける。彼の唇にそっと、唇を重ねる。すぐに離した。 「正解」  満足気に千隼が笑って、亜生の体を引き寄せた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!