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噂通り、千隼の住むマンションは、都内の一等地に立っていた。地図を見ながら、駅から数分歩くと、グレーの縦長のマンションが見えてきた。周りも似たようなビルが多くて、住宅街ではなくオフィスビル群といった印象だ。
自動ドアからエントランスホールに入り、オートロックの前に立った。事前に教えてもらった部屋番号、七〇二と押す。インターフォンの音が鳴った後、さらに内側にある自動ドアが開いた。慌てて開いているドアから中に入り、ちょうど一階に待機していたエレベーターに乗り込む。
オシャレで高級そうなマンションには、これまで訪れたことがなかった。ちょっと緊張した。いや、そんなことで緊張している場合ではない、と思い直す。
どうやって交渉すれば、由生から手を引いてもらえるのか。
電車で移動中、一応考え込んだのだが、全然良い案が浮かんでこなかった。
由生に手土産を持って行くように言われたので、とりあえず自宅の最寄り駅で煎餅を買ってきた。自分が好きなのはザラメ味と、七味唐辛子味なので、それを五枚ずつ。
――千隼って甘い物が苦手そうなイメージなんだよな。
実際、スイーツを食べている所を見たことがなかった。煎餅もないが。
――って、なんか緊張感足りてないよな? ビシッと言いに行くんだよな?
姉から手を引けと。
でもなんだか、気持ちがピリッとしないのだ。まるで、まるで――ふつうに会いたくて会いに来た、ような。
いつの間にか七階に到着していた。扉が閉まりそうになっていて、『開』ボタンを押して急いでエレベーターから外に出た。
部屋の番号を口の中で唱えながら廊下を歩く。すぐに部屋が見つかる。
ドアには一切傷や汚れが付いていなくて、新築なのかなと予想。インターフォンを押すと、数秒でドアが開かれた。
微笑んでいるわけでも、睨みつけてくるわけでもない、ニュートラルな表情の千隼が立っている。
久々に「超絶美形」の顔を目の当たりにして、気後れする。彼は私服だった。グレーのTシャツにジーンズ。こういうラフな格好は初めて見る。
「あ――久しぶり?」
変に語尾が尻上がりになってしまった。
「亜生が避けていたからだろ」
その通りなので、何も言い返せない。
――だってお前が、変な態度を取るから。
キスまでしてしまったのだ。わけが分からないうちに。
「入れよ――それは?」
手に携えている紙袋を見られる。
「あ……一応手土産のつもり」
呑気にこんな物を持ってきている場合じゃなかった。でもせっかくだし渡すか。
「ありがとう」
苦笑しながら千隼が受け取った。
急かすように「入れよ」とまた言われ、意を決して中に入った。とたん、外を歩いてきて熱を持った肌が、一気に冷えた。
玄関入ってすぐに、二十畳程度の広さのフローリングが見えた。想像通りの、生活感のない部屋。棚がないのは、ウォークインクローゼットがあるからか。ぱっと見た感じテレビがない。中央にソファとローテーブルがある。窓際に勉強する用のデスクとチェア、あとはベッド。大きさはセミダブルだろう。亜生の部屋のベッドより少し大きめだ。
「座れば」
ソファに回り込もうとしながら、千隼が振り返ってくる。亜生は首を横に振った。
話は長くならないはずだ。
「これ以上由生にちょっかい出すな」
亜生は千隼の目をしっかりと見た。ここで怖気づいてはならない。こちらの望み通りに事を進ませるためには、強気の姿勢で行かなくては。
千隼もしっかり亜生の目を見返してくる。わざとっぽく肩を竦めながら。
「さっきから亜生は勘違いしてる。俺から声をかけてるわけじゃない。あっちから誘ってくるんだ。昼休みに俺のクラスに来ていろいろ話しかけてくる。帰りも一緒に帰ろうってな」
「断れよ」
「嫌でもないのに? それに亜生の身内だろ。冷たくするのもな」
「だったらあいつが虐められないように対策してくれよ」
「なんで俺が? 虐める本人が悪いんだろ。お前が対策してやれよ」
投げやりな態度で言ったあと、千隼がソファに座った。
「――卑怯だろ。俺に意趣返しがしたくてこんなこと」
亜生も反対側からソファに回り込み、テーブルと並ぶ形で千隼のことを見下ろす。強い視線を向けた。
「そんな態度で頼まれても――お前、自分の立場が分かってる?」
ひんやりした声で、呆れたような視線を投げてくる。首筋がすっと冷たくなる。
結局、千隼のペースになっている。彼は他人の意のままになるような玉じゃないのだ。
こちらが言い返せずにいると、千隼が先に口を開いた。
「俺がお前の姉さんのために動くってことは、真剣に彼女と付き合うってことだ。亜生はそれで良いの?」
鋭い口調で問われる。彼の目が、しっかりと亜生の目を見据えてくる。
「俺は」
声が掠れる。次の言葉が出てこない。
――千隼と由生が真剣に付き合う?
そんなことあり得るんだろうか。もしそうなったら、最悪、二人が結婚する可能性だって出てくる。
――それは嫌だ。
ぎゅっと拳を握る。
なぜ嫌なのか、自問する。
――由生が不幸になるから。
違う。由生は不幸にならないだろう。千隼が真面目に彼女と付き合うなら。
順調に付き合いが進んで、最終的に二人が結婚して――そんな想像をしてみる。
嫌だと思った。
――俺が嫌なんだ。
じくじくと胸が痛む。
――俺が、千隼のことを好きだから。
認めざるを得ない。自分の気持ちを。
「千隼――、由生とは付き合わないで。お願いします」
千隼が由生をどう扱おうと、嫌なものは嫌だった。二人が付き合うのは、絶対。
ソファに座ったまま微動だにしない千隼を、そっと窺う。冷めた目で亜生のことを見ていた。
亜生は腰を屈めた。膝をつく。フローリングの床が冷たい、痛い。
「亜生」
急に甘さの滲む声で名を呼ばれる。
「跪いて頼まれても、俺の心は動かない。どうすれば効果的なのか、亜生は分かってるよな」
簡単なことだ、と千隼が続ける。
「亜生」
さらに甘やかすように、呼びかけられる。
全身の皮膚がざわついた。恐ろしいのに、甘美な誘惑だった。
逃げ出そうとする気が起こらない。体から力が抜けていく。
最初から分かっていたのかもしれない。ここに来たらどうなるのか。
二者択一を突きつけられたら、自分がどちらを選ぶのか、とっくに。
ごくりと唾をのんだ。
フローリングから立ち上がり、無言のまま歩を進める。千隼の前で止まる。彼は座ったままだ。
「千隼」
出てくる自分の声も、やけに甘ったるい。
千隼の膝に乗って、自分から顔を近づける。彼の唇にそっと、唇を重ねる。すぐに離した。
「正解」
満足気に千隼が笑って、亜生の体を引き寄せた。
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