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 繋がりが解けたあとは、二人して荒い息を吐き続けた。  校庭を十周以上走ったあとのような疲労感で、考えることはいったんやめた。息継ぎをしっかりする。  隣にいる千隼も息を乱している。ちらりと横顔を見ると、額も頬も濡れていた。こんな汗だくな千隼の顔は、初めて見た。  目を瞑って深呼吸を繰り返しているうちに、ようやく思考力が戻ってきた。  ――しちゃったな。  ついに千隼と一線を越えてしまった。だからだろうか。千隼が近くにいても怖くない。彼の一挙手一投足に神経を使わなくて済む。  後悔はなかった。落ち込んでもいない。だからといって、テンションが異様に高くなることもなかった。  千隼、と声をかけて、彼の肩をペシッと叩く。 「明日で良いから、由生に謝れよ」  これだけは言っておきたかった。亜生を手に入れるために、千隼は由生にちょっかいを出したのだ。彼女を大いに振り回したし、それは失礼な行いだったと思う。  千隼が亜生のほうを見て、口の端を緩めた。 「謝りはしない。ありがとうは言っておく」 「は?」  ――ありがとう、って。 「どういうこと――」 「彼女に頼んだんだ。俺と仲の良い振りをしてくれって」 「え、じゃあ……靴を盗まれたとか、夏休みにデートって話は?」 「嘘だ。靴は俺がプレゼントした。デートもするわけない」  ――俺とこうなるために芝居を打ったってことか。  悔しい。まんまと二人の演技に騙されてしまったのだ。そしてまんまと、千隼とくっついた。 「不満そうな顔だな。こうでもしないと亜生は素直にならなかっただろ」  平然とした顔で言ってのける。反省なんて微塵もしていない。  文句が言いたくなった。でも、千隼の言い分も一理あった。  姉を巻き込んだいざこざがなかったら、自分はここまで能動的にはなっていなかった。千隼と新しい関係を築くことに消極的になっていたのだ。  ――二人がお膳立てしてくれなかったら、踏み込めなかった。 「その通りだよ。まあ、良かったよ」  こうなって。  なんだか吹っ切れた。男同士というハードルは、これから先、感じることがあるかもしれないけれど。千隼のことを諦めて、後々引きずるよりはマシだろう。  それにしても、受け入れる側って大変だ。体の節々は痛いし、受け入れた場所は疼くような痛みがある。大きく脚を開かされたのが地味にしんどい。ちゃんと歩けるだろうか。ヨロヨロしそうだ。 「もっと楽な体位ってなかったのかよ。俺、体そんなに柔らかくないから」 「顔を見ながらしたかった。初めてだったし」  千隼がふっと笑って上体を起こす。ゆっくりと亜生に覆いかぶさってくる。 「待て、もうできない」 「違う体位でしたいんだろ?」 「今日じゃなくて良い! このあと家に帰って、夕飯作るんだよ」  慌てて千隼の体を押し返すが、腕に力が入らない。やはりさっきのセックスで疲労困憊しているのだ。 「じゃあ俺が作ってやるよ」 「はあっ?」 「それで由生姉にお礼を言う。ちょうど良い」  良くねえ、と返そうとしたが、亜生の顔に、千隼のそれが下りてきた。唇の輪郭を舌先でなぞられ、セックス後で敏感になっていた皮膚は、容易く煽られた。  両手首を掴まれて、ベッドに体を縫い留められる。 「亜生」  思い上がりかもしれないが、愛おしそうに名前を呼ばれている。漆黒の美しい目で、亜生だけを一心に見つめて。  しかし、言葉はない。  もしかして。もしかしなくても。  千隼は言葉を信じていないのかもしれない。  だからいつだって行動で示す。  亜生にも行動を求めてくる。 「千隼」  彼の背中に腕を回し、自分から舌を求めた。  九月上旬。夏休みが終わったばかりで、教室内には気怠い空気が充満している。授業が自習となれば、さらに。  ざわつく周囲の音に心地よさを覚えながら真面目にプリントを仕上げていると、髪にピンクのメッシュを入れた女子が亜生に話しかけてきた。 「さいきん髪の毛、伸ばしてんの?」 「ああ、うん、そう」  指摘された頭を軽く撫でる。一か月半伸ばしているので、二センチほど伸びているはず。 「眉毛も整ってるし。床屋行った?」 「行ってない」  亜生は苦笑しながら答えた。  どちらも千隼の影響だ。髪を伸ばしてと頼まれて伸ばしている。眉のカットは彼がしてくれた。  付き合いだしたとたん、注文を付けてきたのだ。許容範囲だから応じているが。 「ピアスも違ってる」 「正解」  本当によく気が付くな、とまた笑った。これなら本当に、カリスマ美容部員になれるかもな、と感心する。 「眉毛ボサってたら、またやってあげようと思ったのになあ」  残念そうに言いながら、彼女が席に戻っていく。  亜生はカーテンを軽く捲り、窓の外を見た。千隼のクラスが、この時間は体育の授業なのだ。チャイムが鳴る数分前で、彼らが校舎に戻ってこようとしている。  窓を開けて、少し顔を外に出して、見下ろす。  クラスメイトを引き連れて歩いている美貌の男が、ふいに顔を上げ、こちらを見てくる。  ちはや、と声に出さずに呼びかけ、笑いかけて、小さく手を振る。  千隼も手を軽く上げて、亜生に向かって笑ってくれた。了 ※次回、千隼視点です。
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