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亜生(あき)が凝り固まった首をぐるぐる回すために顔を上げると、整いすぎていて怖いほどの千隼(ちはや)の美貌が視界に入る。しかも近い。机一台分の距離だ。
思い切り目が合っても、彼は表情を変えることなく亜生の顔を見つめてくる。
「そんなにじっくり見るなよ。また心が不安定になるかもよ」
わざと茶化す口調で言った。一瞬でも沈黙が生まれるのが怖い。今は。
教室内がざわついているのは、目の前の男がここにいるからだ。彼は違うクラスなのに、いつも昼休みと放課後には亜生の教室にやってくる。二か月前から日課になっている。
「俺の自由だろ、どこを見ようが」
顔と一致している低音の美声に、亜生より先に周辺の女子が反応を示す。
――今ちょっと笑ったよね。声が少し柔らかかった。
はしゃいだ声が聞こえてくる。
いつでもどこでもこんな調子だ。常に千隼は、学校中の女子の関心を一身に集めているのだ。彼女らが榊(さかき)千隼の容姿を評するとき、決まって出てくる言葉が「控えめに言っても超絶美形」であり、枕詞にもなっているらしい。同じ高校に通っている姉から聞いた。
控えめに言わなければどんな形容がなされるのか興味深いのだが――とにかく、誰がどう見ても美形としか言いようのない男が、亜生に会うためだけに足しげくこの教室に通っている状況が今でも信じ難く、不可解なのだ。
――俺の顔が不快だって言ってなかったか?
初めて言葉を交わしたときは、彼に気に入られたという手応えは一切感じられなかった。それなのに次の日も話しかけてきた。そして強引に、一方的に距離を縮められ、現在に至る。
「ここ、違う」
ふいに千隼が、亜生の手元にあるノートの一か所を指で弾いてくる。
そんなはずは、とブツブツ呟きながら、教科書とノートを交互に確認する。
「――あ、ほんとだ」
彼の言う通り、自分の使った数式が間違っていた。
「サンキュ」
ここは素直に礼を言った。やっぱり千隼は凄いな、と思う。さらっとノートと教科書を一瞥しただけで、間違いに気がついたのだ。
顔も声も良いうえに勉強もできるのだ。身長も百八十センチ以上あって尻も高い位置にある。スタイルが良い。あとは何だ? そうだ、親のステータスもばっちりだと、姉が話していた。母親は社長令嬢で、父親は外交官。両親とも海外に滞在していて、高校に進学するタイミングで日本に戻ってきた千隼は、都内一等地のワンルームマンションで自由気ままな一人暮らしを満喫しているとか。
苗字も名前も格好良いし、平凡以下の項目が一つもないんじゃないかと思う。これで彼の書く文字が、ミミズみたいに解読不能な癖字だったら面白いのに。
「千隼、なんか文字書いてみろよ」
「なぜ」
「いいから。なんか思いついた字をさ」
シャープペンを彼の手元に転がす。
千隼がそれを手に取って、ノートの端に『あき』と横向きに書き込んだ。
字まで完璧だとういことは分かった。『かきかた』に載っているお手本のような文字だった。
「あ、もういい、書かなくて。習字習ってたことある――」
『あき、好き』
そこまで書いて、千隼の手が止まった。
「おい、なに書いて」
自分の声が上擦っている。内心、舌打ちしたくなった。
ちらりと彼が亜生の顔を見た。ふっと笑ってから、さらさらとノートに続きを書き込んだ。
『あき、好きな食べ物は何?』
ただのアンケートだった。
めちゃくちゃ焦った自分が馬鹿みたいだ。
「自信過剰だな」
呆れたように笑われ、少しムカついた。こういう思わせぶりな行動が最近目につくのだ。いちいち翻弄されている自分が嫌だ。
千隼のくだらない戯れを無視し、自分の好きな食べ物を頭に思い浮かべる。
「たこ焼き」
「知ってる」
「焼き鳥」
「知ってるよ」
「それぐらいしか思いつかない」
「もっとあるだろ。由生姉(ゆきねえ)が作ってくれた弁当に、購買のラスク。砂糖付きもチョココーティングも好きで、どっちにするかいつも迷ってるよな」
「分かってるなら聞くなよ」
自慢か。亜生のことをこんなにもよく知っているんだというアピールか。
千隼の言動が、亜生には不可解だった。
初めて彼が話しかけてきたときも変だったな、と亜生は二か月前を思い出した。
今年四月の二週目だった。高校三年に上がるタイミングでこの学校に転入してきたばかりの亜生は、新しい環境にまだ慣れ親しんでいなかった。登校して昇降口に足を踏み入れる瞬間にもアウェイ感が襲ってきたし、まだ春なのに汗ばんだり、たまに教室のクーラーが稼働するのもおかしいと思った。東北の片田舎から引っ越してきた転入生に積極的に話しかけてくれる級友は一人もおらず、こちらからもフレンドリーに接する気力が湧かないまま一週間が終ってしまった。このまま一年間、孤独な学校生活を送るのかもしれない、と早くも諦めの境地に陥っていた。昼休み、購買を目指して廊下を歩いているときだった。反対側から背の高い男が歩いてきたのだ。
――右側通行だろうが。
逆歩行してくる輩にイライラしながら、まっすぐ歩いた。通路を譲る気はなかった。こちらが正しいのだから。
だが、ぶつかる直前になっても相手が止まらないので、仕方なく亜生の方から迂回しようとした――そのとき。
いきなり腕を掴まれた。無理やり体の向きを変えさせられ、彼と対面させられる。やけに端正な顔が、亜生の目に映った。
「ちょっ……なに」
喧嘩モードのスイッチが入って文句を言いかけると、相手の声が被さってきた。
「お前の顔を見ると、落ち着かない気分になる」
「は?」
初対面で何だ、その失礼な物言いは。カチンと来た。喧嘩を売っているとしか思えないと感じ、背の高い男を睨みつけた。
「前に見たときも思ったけど」
至って真面目な面持ちで、じっと亜生の顔を観察してきた。解を導き出そうとするように。
「ああ――俺の顔ってあからさまなアシンメトリー(非対称)だからな。見てて違和感があるんじゃないの」
急に怒る気が失せた。相手に悪気がないと分かったからだ。
亜生の顔は左右非対称だった。目の前のイケメンとは真逆だった。右目はくっきり二重で、左目は一重だった。目の大きさが全く違う。さらに左の耳にだけピアスを着けているので、非対称に拍車をかけていた。これは双子の姉の仕業だ。一重の左目が地味だから、というへんてこな理由で、無理やりピアス孔を開けられたのだ。嵌っているのは赤い一粒ルビー。亜生の誕生石で、母と姉からのプレゼントだった。あまり嬉しくなかったが、外すと姉が煩いので、着けたままにしていたのだ。
「なるほど」
彼が一言呟いた。柔らかい声だった。視線は亜生の両目に定まっている。そして、いきなり頭を撫でてくる。
「髪がないから、よけい目立つな。目元が」
そうかもね、と亜生は軽く肯定した。五分刈りの坊主頭だから、顔を隠しようがないのだ。形が良いとは言えない眉や、非対称の両目が主張され放題。鼻と唇、耳の形は悪くないと思うのだが。因みに、坊主頭も姉のせいだった。あんたは頭の形が良いから坊主が良いと言って、月に一回、姉自ら、風呂場に新聞を広げ、バリカンで剃ってくれるのだ。床屋に行かなくて済むから家計には貢献している。
初対面の不躾な男が、いつまでも頭を撫でてくるのでさすがにウンザリしてきた。ひょいと顔をずらして、彼の手から逃れ、さっさと購買に向かう。
「横内、俺の名前知ってる?」
背中に向かって声をかけられる。
亜生は振り返らずに「知らねーよ」と答えた。相手は自分の苗字を知っているようだ。わざわざ調べたのだろうか。
「榊だ。榊、千隼」
――ああ、噂の榊か。
姉の話の中でよく出てくる名前だった。控えめに言っても超絶美形だと言われているイケメン。学内で一番の人気者。
――ふーん。たしかにイケメンだな。
でもただそれだけ。だから何って感じだ。
クラスが違うし、自分たちに接点は一つもない。
これから先、関わることはないだろう。そう思っていた。翌日の昼休みに、奴が亜生のクラスにやって来るまでは。
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