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⑵ パリを泳ぐ
パッとあたりが明るくなりました。
アオイは、自分があげた大きな声を聞きつけたお父さんとお母さんがリビングの電気を点けたのだと思いました。
けれども、まぶしさになれてきたアオイが見たものは、見なれたうちのリビングではありませんでした。
そこに広がっていたのは、人々でにぎわう広場でした。
「え、え、え、ええ~~~??」
広場には、にがお絵描きや小さな絵を売る人たちと、PARISという表紙のガイドブックを手にした観光客がひしめきあっていました。
「え、え、え? ここって、もしかしてモンマルトル?」
お母さんからスノードームをどこで買ったのか聞かれたお父さんが「モンマルトル」と答えていたのを思い出したのです。「今も絵を売る人や、観光客相手ににがお絵描きをする人がいた」と。
――ピンポン! ピンポン! 大正解!
腰のあたりから声がしました。
アオイは声の聞こえる方を見ました。そのとき、自分がパジャマではなくて洋服姿であることに気がつきました。声は、スカートのポケットからしています。ポケットに手をつっこむと、かたいものに指先がふれました。
「ウィリアム?」
アオイは、ポケットから青いカバのおきものをとりだして、手のひらにのせました。
――ウィリアムじゃないよ。フィリッポ! ウィリアムは、メトロポリタン美術館のカバの名前だよ。どう? ここがモンマルトルだよ。
「どうって? どうって……?」
家のリビングから、とつぜんパリのモンマルトルに連れてこられたからなのか、カバのおきものが話しかけてきているからなのか、アオイはとまどっていました。
アオイはきょろきょろまわりを見まわしました。
広場は、カフェやおみやげ屋さんにぐるりと囲まれていました。カフェの前には、テーブルがたくさん出ています。パラソルの下で、観光客がコーヒーを飲んだり、ワインを飲んだりしています。
広場ぞいのおみやげもの屋さんの前に、アオイは立っていました。絵はがきやカレンダーのスタンドがあり、観光客ふうの女の人がスタンドをまわしながら絵はがきを選んでいます。I ♥ PARISTシャツも売っています。アオイは、平台に乗っているスノードームを見て、目を丸くしました。
平台の上にならんでいるのは、まさにお父さんが買ってきたスノードームでした。
「ここは、お父さんがスノードームを買ったお店なのかな?」
アオイは言いました。いつもはひとりごとなど言うアオイではありませんが、声に出して言っても、だれも自分の言葉がわからないだろう、と思ったのです。
広場は、とてもにぎやかでした。フランス語ばかりではなく、英語やスペイン語、中国語など、さまざまな言葉が聞こえます。
アオイは空を見上げました。
けれども、空は予想していたような青い空ではありませんでした。
見上げた空はプールの底から見る空に似て、光がチカチカと散らばっていました。
「わたし、スノードームの中にいるのね」
アオイは言いました。
そして、このときにはもうおどろきませんでした。夢を見ているのだ、とはっきりわかったからです。そして、おもしろい夢だと思って得した気分になっていました。
――どう?
手のひらのフィリッポが声をあげました。
「どうって……。こんなにパリっぽいおみやげがたくさんある中で、お父さんはどうしてわたしにカバのおきものを買ってきたんだろうって」
――ええっっ! それが感想⁉
フィリッポは、アオイの答えにショックを受けて、手のひらの上でへたりこみました。
「あははっ。じょうだんだよ」
広場は、うきあしだっているように見えました。広場にいるほとんどの人が、観光客だからでしょう。みんな笑顔で、首をのばしてキョロキョロとあたりを見まわしています。
アオイは、広場の空気を胸いっぱいに吸い込みました。
広場には、ごみがすえたようなにおいと、焼きたてのパンのにおいと、強い香水のにおいがないまぜになってただよっていました。
(これがパリのにおいなのか)
アオイは思いました。これがパリのにおいと思うと、そのあまくるしさも好ましく感じられます。
「あなたがつれて来てくれたのね」
アオイは、フィリッポを目の高さまで持ち上げて言いました。
――そうさ。
フィリッポは得意げに答えました。
「ありがとう。でも、どうしてこんなこと……?」
――だって、アオちゃん、ぼくをもらっても、うれしくなさそうだったから。
今度は不満げに言いました。
「あ……そうか。ごめん」
そう言いながらも、カバのおきものにあやまるなんて、変な感じ! と思います。
――いいさ。ぼくをもらって良かったってこれから思うから。だいたい、アオちゃんが考えるパリっぽいおみやげっていったいなんなのさ?
「そりゃあ、ここに売っているみたいなパリの絵はがきとか、Tシャツとか、ボールペンとか、チョコレートとかさ」
アオイは答えました。
――ふうん。それがアオちゃんが考えるパリっぽいおみやげなのか。まあ、いいや。さあ、どこに行きたい?
「どこに行きたいって?」
アオイが聞き返します。
――ぼくたちは今、パリのスノードームの中にいるんだ。このスノードームにつまっているのは、お父さんの旅行の思い出。その思い出の中だったら、どこにでも連れて行ってあげられる。ただし、父さんが行っていないところには、行けないよ。
フィリッポが言いました。
「それじゃあ、エッフェル塔が見てみたい!」
アオイが言いました。
――了解! エッフェル塔だね! クププププッ。
フィリッポの笑い声が合図でした。ぐらりっと目の前がゆれたかと思ったら、アオイの体が宙にうきました。「あ、わ、わ、わ」と言っているあいだに、アオイとフィリッポは、空を高くプカプカとういていました。
下に、三つの丸い屋根を持つ白い教会が見えます。モンマルトルの丘に建つサクレクール寺院です。教会の前の長い階段と青いしばふの上でのんびりおしゃべりしている人たちが見えます。さっきまで二人がいた広場も見えます。
「空を飛んでる!」
アオイは思わずフィリッポをぎゅうっとにぎりしめました。
――ちょ、ちょ、ちょっ。苦しいよ!
「あ、ごめん」と言いながらも、アオイの手には力がこもったままです。
――こわがらなくても良いよ。アオちゃん、泳げるでしょう?
「まあね」
水泳は発作が起こりにくいので、ぜん息児が体力をつけるためにすすめられることが多く、アオイも三歳のときからスイミングスクールに通っています。こわがらなくても良いと言われて、手足をかくとプールの中を泳いでいるように前に進みました。空気が水のようにとろんとしています。
――さあ、エッフェル塔まで行くよ!
フィリッポがそう言うと、世界が右に、左にかたむいて、体はふわふわと空をただよいました。
エッフェル塔はだこうするセーヌ川のほとりに建っていました。
――エッフェル塔は、十九世紀の終わりにパリで開催された万国博覧会のために建てられたんだよ。
フィリッポが説明します。
「万博公園の太陽の塔のようなものなんだね」
アオイが答えます。
次は、凱旋(がいせん)門です。
空から見下ろすと、電車のダイヤグラムのような街路が見えました。パリの町の道はどこもかしこもじょうぎで引いたように真っ直ぐだ、とアオイは思いました。道はたて、横に交差するだけではなく、ななめにも走っているので、あちこちに幾何学模様ができています。
凱旋門は、放射状にのびた広い道路の、真ん中に建っています。まわりには高い建物がいっさいないので、地面から生えたような白い門の大きさがきわだちます。その道路の形が星のように見えるので、この有名な凱旋門はエトワール凱旋門と呼ばれています。エトワールというのは、フランス語で星という意味です。
――さあ、凱旋門の下の道をまっすぐ進んでごらん。
フィリッポが言います。
つきさすように真っ直ぐな道が伸びています。シャンゼリゼ通りです。進んでいくと、道の両側が緑の公園にはさまれるようなかっこうになりました。公園を通り抜けると、コンコルド広場です。広場の中央に建っているのは、空につき出た白い石の柱です。四角い柱は先になるにしたがって細くなり、一番先はピラミッドのような四角すいになっています。
――オベリスクだよ。
「オベリスク?」
――古代エジプトで建造された記念柱だよ。このオベリスクはクレオパトラの針と呼ばれてるんだ。もともとルクソール神殿にあったもので、凱旋門が完成したのと同じ年に、エジプトから贈られたんだよ。
「エジプト?」
アオイは首をかしげました。
――さあ、次はルーヴル美術館だよ!
フィリッポの言葉で、アオイたちの体はまたぷかあっと浮かびました。
シャンゼリゼ通りはコンコルド広場でとぎれていましたが、そこから先は、庭園が広がっていました。パリではお庭さえも、かっちりしています。自然の地形を生かして曲がりくねったりもせず、植物もせいぜんとならんでいます。
お庭を抜けると、お城が見えてきました。コの字に囲まれた真ん中に、ガラス張りのピラミッドがあります。ルーヴル美術館です。
「美術館の中には入れるの?」
アオイが聞くと、フィリッポはにっこり笑いました。
――もちろんだよ! さあ、入ろう! クプププッ。
ぐらり、と目の前の世界がゆがんだかと思うと、アオイは鼻がもげたスフィンクスの前に立っていました。
ルーヴル美術館の古代エジプト美術部門の入り口です。スフィンクスは、ライオンの体に人間の首がついた古代エジプトで生まれた幻獣です。前足をそろえて、お座りして、アオイとフィリッポを迎えてくれました。
「チケットを買わなくても良かったのかしら?」
――そんな細かいことは、気にしなくても良いんだよ。
古代エジプト美術部門の入ってすぐのところには、上半身がはだかで、ずきんをかぶった男の人が正座している彫刻があり、次にガラスケースの中に入った船の模型がありました。
「なんでエジプトなの?」
アオイは天井の高い展示室を見まわして言いました。
「《モナ・リザ》は?」
それに、フィリッポは答えません。
展示ケースの上の台には、たくさんの人がかいをこぐ三日月形の木製の船、下の展示台には水の中に住む生物の像が展示されています。魚やカエル、それに……
「あ、カバ!」
そこには、青いカバの像が展示されていました。
――そう、これがぼくのオリジナルだよ。
フィリッポは得意げに「フフンッ」と笑いました。
「これを見せたくて、ここに連れてきたのね」
――アオちゃんにとってカバってどんな動物?
「どんなって言われても……」
聞かれて、アオイは口ごもりました。
これまで、アオイにとってカバが特別な存在であったことはありません。動物園に、カバを見ることを楽しみに行ったこともありません。思い返してみても、そういえばほんもののカバって見たことがあったかな? というていどです。
「う~ん、水の中でのんびり泳いでいるイメージかなあ」
――古代エジプト人にとっては、そうでもなかったみたいだよ。きょうぼうで、おそろしい動物だったんだって。
「ああ……だから、こわい顔をしているのね」
アオイはガラスケースの下段にいるカバをよく見ようとしゃがみこみました。
「水の中にいるから青い色をしていて、体に水草が描かれているのね」
――うん、古代エジプト人たちにとって、カバはおそるべき存在であるのと同時に、再生のシンボルでもあったんだよ。泥の中に住んでいるからね。だから、カバの像は死者を守るためにお墓におさめられたんだけど、守ってもらいたい反面、そのカバにおそわれるのもこわいから、わざとカバの像の足をこわしておさめたんだ。
「そうなの?」
アオイは、直したあとを確認しようと、ガラスに鼻をおしつけました。けれども、ところどころ欠けているところはありますが、足には直したようなあとは見当たりません。
――そう? このカバは無傷だったのかな? それともよっぽどじょうずに直してあるのかな? よくわからないや。
「ええ~、いいかげ~ん」
――だって、ぼくレプリカだし。オリジナルじゃないし。
「じゃあ、足をこわされたっていうのは、どうして知っているの?」
――お墓におさめられたカバの像はぼくだけじゃないんだよ。あちこちのお墓から、たくさん見つかっているんだ。じゃあ、それがわかるのを見に行こうか? クププププッ。
フィリッポはそう言って、トリノのスノードームの中に乗り移りました。アオイは、お母さんが「パリでも、トリノでも、ニューヨークでもウィリアムを見た」と言っていたのを思い出します。
トリノにあるエジプト博物館は、エジプトの首都カイロにあるエジプト考古学博物館の次に古代エジプト美術作品をたくさん所蔵している博物館なのだ、とフィリッポが教えてくれます。
トリノの青いカバは、細長いジャガイモのような形をしていました。耳は欠けて、体に水草の模様は描かれていますが、目はありません。そして、足がきょくたんに短いように見えました。
「これが、足がこわされた状態なの?」
アオイが聞くと、フィリッポが「うん」とうなずきました。
次は、ニューヨークのメトロポリタン美術館です。
メトロポリタン美術館では、カバの像は、それだけで一つの小さな展示ケースにおさめられていています。大きな展示ケースにほかの作品といっしょにならべられていたほかの美術館に比べると特別あつかいされているように見えました。
三つの青いカバの像は、それぞれ形や表情がびみょうにちがっていましたが、同じ種類のものだ、ということははっきりわかります。このカバの像は、これまでに見てきたものよりも口の形が横に広がっています。全体にヒビが入っていて、足はこわされたあとに直されていました。つけたされた足は、ピカピカと光沢のあるほかの部分とはちがっていて、色ねんどのように見えます。
――これが、ウィリアムだよ。
フィリッポが言います。「ああ、お母さんが言っていたのは、この子のことね」
アオイは答えました。
トリノのエジプト博物館のときにはカバの像以外の展示を見る時間も与えずに、大いそぎでメトロポリタン美術館に移動をしたフィリッポも、三つのスノードームをわたり歩いて、もうあわてて移動する必要はありません。
展示室を進んでいくと、とつぜん、ぱっと目の前が明るくなりました。壁の一面がすべてガラスばりで体育館のように高い天井の、広い部屋です。
プールの上に、エジプトの神殿がうかんでいます。
――ナイル川にダムが建設されたら水の下に沈んでしまうからって、保護するためにアメリカに運んできたんだよ。
「神殿そのものを運んできちゃうってすごいね!」
アオイは目を丸くしました。
――そりゃあ、もう。みんなエジプトが大好きだからね。
フィリッポが得意そうに言いました。
――だって古代エジプト文明は、地球上にさいしょに栄えた文明の一つなんだよ。たくさんの人が古代の文明にきょうみを持って、エジプトに来たんだ。古代ギリシア人、古代ローマ人にとってさえ、エジプトは失われた古代文明の地だったってわけ。それでエジプトを旅した人たちは、きそって古代文明がのこした物を買い集めたんだよ。古代エジプト文明に対するあこがれは、古代ギリシア、古代ローマ時代からずっと続いていたんだけど、十八世紀、十九世紀になると爆発してね、砂にうもれた神殿を掘り起こしたり、巨大な神様や王様の像をナイル川を使って運んで、ヨーロッパにもっていったんだよ。それが、今、世界各地にちらばった古代エジプト美術のコレクションのもとになってるんだ。
フィリッポは、そう熱く説明してくれました。
白い石をつんだ装飾のない神殿に見えますが、近づくと、浮き彫り彫刻が壁全体をうめつくしているのがわかります。今は、色は失われていますが、じっさいには色が塗られていたこともわかっています。一部、プロジェクターで色が塗られていたときの姿が再現されていました。
「色はない方が良いんじゃないかな?」
アオイは首をかしげました。
――でも、色がないと朽ちた感じがする。
「朽ちた感じが良いんじゃない?」
アオイとフィリッポがそんな話をしていたときです。
部屋が、急に暗くなりました。ゆうだちの前に、急に黒い雲が集まって来て暗くなる、あの感じです。
アオイは、ぱっと窓の外を見ました。
「きゃーっ!」
窓の外を見たアオイは、大きな悲鳴をあげてしまいました。
外から巨人が中をのぞき込んでいたのです。空をおおう黒い雲のように、巨人の顔が窓に近づいてきました。
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