⑶ 神殿の巨人

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⑶ 神殿の巨人

 大きな悲鳴をあげて、アオイは自分の姿が他の人には見えていないことに気がつきました。だれもアオイがあげた声を気にかけなかったからです。展示室には、たくさんのお客さんがいましたが、窓の外の巨人にも、アオイの悲鳴にも気づかない様子で、神殿のまわりを散歩するかのように歩いています。 「フィリッポ!」  アオイは、窓の外の巨人を指さしました。  けれどもフィリッポが窓の外を見たのは、部屋がぱあっと明るくなった後でした。窓の外は、光をあちこちに反射させるスノードームの空にもどっていました。巨人もいなくなっていました。 ――どうしたの、アオちゃん?  フィリッポの声は、いかにものんきで、アオイはイライラしました。 「ま、ま、窓の外! 巨人! 巨人がいたの! どうして見ていないの?」 ――ええ? 巨人? どんな? 「ぱっと見ただけで、よくはわからなかったけど」  黒いかみで、黒い目で……アオイはおぼえていることを話しました。 ――かみはざんばらで、針のようにかたかった? 目は血ばしって、怒ってた?  フィリッポがたたみかけるように聞きました。 ――きばからつばがしたたったりしてた? 「え? かみは……ざんばら? いや、ふつうにむすんでたような? 目が血ばしってるってどういうこと?」  フィリッポに言われて、アオイはエジプトの神殿の部屋をのぞきこむ巨人の目を思い返してみました。 「怒ったりしてなかった。ただ……おどろいているみたいな。」 ――おどろいてる? 「うん、きばもなかった」 ――それじゃあ、なにもこわがることはないじゃないか。 「こわがることはないって。巨人が部屋をのぞきこんでいたんだよ? こわいに決まってる」 ――こわがることないよ。アオちゃんは、ぼくたちがスノードームの中にいるってことを忘れているんじゃない? だれかがスノードームをのぞいていたんだよ。  言われて、ハッとしました。 「そういうこと?」  スノードームを外側からのぞきこんでいる人のかげが映ったのだと言われれば、なっとくがいきます。 「じゃあ、あれは誰だったの? お母さん?」 ――お母さん? 巨人って女の人だったの? 「女の人っていうか。もっと若い、女の子だったような気がするんだけど。でも、お母さんじゃなかったら、だれがスノードームをのぞきこむの?」 ――ふうん……。たしかに。じゃあ、だれなんだろう?  フィリッポもすべてはわからないようでした。 (ああ、でも、これは夢なんだった……)  そう思ったとたん、あたりの色がスウッとひいていきました。アオイは目がさめるのだ、ということがわかりました。  気がつくと、アオイはリビングにもどってきていました。リビングは暗いままです。アオイは、あたりを見まわしましたが、お母さんもお父さんも二階の寝室から出てきていないみたいでした。 ぜん息の発作でアオイが起き出していたことも、お母さんたちには気づかれずにすんだようです。服もパジャマにもどっていました。アオイはパジャマのポケットに手を入れました。なにかが指にふれます。 「フィリッポ!」  ポケットからひきだされた手の中にあったのは、けれども、フィリッポではなく吸入器でした。フィリッポはどこにいってしまったのでしょう。 月の光が、リビングの床に影を落としていました。飾りだなにはスノードームが三つ。フィリッポはスノードームのとなりに、一ミリも動かずにいました。 「フィリッポ……」  声に出して呼んでみました。けれども、フィリッポは冷たいおきものになっていて、ピクリとも動きませんでした。  アオイがあんまり何回もあくびをするので、ほうちゃんが心配をして「どうしたの?」と聞いてきました。 「昨日、夜中に目がさめちゃって」 ぜん息の発作が起こったことは説明せずに、アオイは言いました。 「そのあとも、夢ばっかり見てねむりが浅かったんだ」  そう言ったら、ほうちゃんはもちろん「どんな夢?」と聞いてきます。アオイはフィリッポといっしょにスノードームの中に入った夢を説明しました。三つのスノードームの中の三つの美術館で青いカバの像を見た、と。 「そんないろいろな国に、エジプトの美術館があるなんて知らなかったな」  ほうちゃんが言いました。 「うん、エジプトの古代文明にあこがれたむかしのヨーロッパの人がエジプトを旅行して集めたものなんだった」  アオイはフィリッポに教えてもらったことを、そのまま話しました。 「すごくぜいたく!」  と、ほうちゃんは自分で言っておきながら「ぜいたくっていうけどさ、おみやげってそもそもどういうものなんだろう?」と、うでくみをしました。 「そりゃあ、その町でしか買えないものじゃない? その町の名前入りの文房具とか、限定のおかしとか」  アオイは答えながら、フィリッポとも同じ話をしたな、と思い出しました。  絵はがきとか、Tシャツとか、ボールペンとか、チョコレートとか。アオイの答えに、フィリッポはなっとくしていないそぶりを見せました。 「う~ん、なんだかそれは作られたおみやげって感じがする」  ほうちゃんも言いました。 「作られたおみやげ?」  アオイは首をかしげました。 「そうそう。もともとその町にあったものではなくて、わざわざおみやげものとして作られてるみたいな。だって町の名前が書いてあるだけで、文房具ってどこにでもあるわけだし。おかしもさ、京都の八つ橋とか、三重の赤ふくとかじゃなくて、紙箱に入ってて個ほうそうされているようなおかしはさ、もともとあったわけじゃなくて、観光客に来てもらいたくて作ってるんでしょ? その町でしか買えないというものじゃない気がする」 「そうだね、でも、その町でしか買えないものなんて、いまどきないよね」  アオイは言いました。 「おみやげって旅行の思い出になるようなものだったり、旅行に行っていない人にも旅行のおすそわけができるようなものが良いんだろうねえ」 「うん。だからわたしも、ものよりもお父さんがとった写真を見ながら、こんなことがあったんだよって話を聞くのがいちばん好きなんだよね」  アオイの言葉に、ほうちゃんも「うん、うん」とうなずきます。 「それで、エジプトの話だけどさ。むかしは旅行をするのにも時間がかかってエジプトの食べ物をおみやげに持って帰るあいだにくさっちゃっただろうし、町の名前入りのグッズなんていうのもなかっただろうし、写真だってとれないんだもの。ほんものを持って帰るしかなかったんだね」  そう、ほうちゃんは結論づけました。 「なるほど」  アオイも確かにそうだ、と思いました。  雨は、朝からしょぼしょぼとふり続いています。胸の奥の方から、ヒューヒューとこわれたパイプオルガンのような音がしています。息ができなくなるほどではないけれども、ぜん息の症状が出て、空気の通り道がはれているのです。  ゼイ、ゼイ、ヒュー、ヒュー。  ぜん息が出ているとき、アオイは自分が空気を通すだけの存在になったような気がします。ふだんは息を吸っていることを意識することもないのに、このときは息を吸うことしか考えられなくなるのです。そして意識をすればするほど、うまく息ができなくなってしまいます。 (風を通すことしかできないのに、それすらうまくできない)  そう思って、アオイは情けなくなるのでした。  雨の中を家に帰って来て、アオイはげんかんの前で深呼吸をしました。  お母さんはアオイの呼吸に気がつくでしょうか。アオイは昨日の晩の発作のことを話していません。吸入器でうまく発作がおさまったので言う必要はないと思ったのです。言ったら、朝、病院に連れて行かれたでしょう。でも、発作はおさまっているし、薬も飲んでいます。病院に行っても、行かなくても、することは同じです。六月の発作の回数が多ければ、高原学校の前に症状がなくても「大事をとって不参加」ということになりかねません。  呼吸をととのえて、アオイは家に入りました。 「ただいま!」  と言うと、奥から「おかえり~!」とお母さんの声が返ってきます。  手を洗ってから、自分の部屋にランドセルをおろしてリビングにもどると、テーブルの上には麦茶とおやつが入ったお皿が用意されていました。アオイはソファにどんっと腰をおろしてリモコンに手をのばしました。この時間のテレビ番組は夕方のニュース番組ばかりでつまらないので、ネット配信のアニメを探します。  スノードームが、アニメを見ていたアオイの目にとまります。スノードームがかざってあるたなは、テレビと同じ壁にあるので視界に入ってくるのです。 (エジプトの神殿を持ってきちゃう人の感覚だったら、パリを旅行したらエッフェル塔を持って帰っちゃうのかな?) ガラス玉に入ったミニチュアを見てアオイは思います。もちろん、そんなことはできっこありません。本物を持って帰れないのだとすれば、町のランドマークのミニチュアが入ったスノードームはおみやげにふさわしいと思えました。スノードームでなくても、美術館で見た絵画や彫刻のほんものを持ち帰るわけにはいきませんが、絵はがきやレプリカは、旅の思い出を持ち帰るという点で、おみやげにふさわしいと思いました。  アオイは立ち上がって、かざりだなに近づきました。  パリのスノードームを手にとり、ふってまたもとに戻します。ガラス玉の中で舞い上がった雪が、グリセリン水の中をゆらゆらとゆれています。  雪はふくざつにらせんをえがき、交差しながら、ガラス玉の中を泳いでいます。  のぞきながら、ガラス玉をのぞきこんでいた巨人はもしかしてわたしなのかしら? と思いました。光を反射して、中の雪がチラチラとかがやきます。明らかな作り物のミニチュアが一瞬、ほんもののように見えました。  七月さいしょの月曜日も、朝からの雨もようでした。 蛍光灯にこうこうとてらされているのに、しんさつ室はどこかうす暗く、しめぼったく感じられました。 「ぜん息、出ちゃってるね」  高橋先生が言いました。  高橋先生は、アオイが生まれたときからみてもらっている小児科の先生です。  先生は、ちょうしん器を耳から外すと、首にひっかけました。ちょうしん器など使わなくても、空気がもれたような音がします。ちょうしん器を通したら、アオイの呼吸はどんなふうに聞こえるのでしょう。煮えたぎる圧力なべのピーピー言う音のように聞こえるんじゃないか、とアオイはひそかに思っていました。 「夜はこわいけど、症状が出てさえなければね。事前に薬を飲んで、吸入器も持って、山に登れないこともないと思うけど。今、もう出ちゃってるからなあ」  首をふりながら、先生は言いました。 「去年の今ごろに比べるとずっと少ない。強くなってきたね」  先生がそう言って、白い歯を見せました。去年の今ごろは、週に二回も三回も発作があって、夜中に病院にかけこんだこともありました。 「よく治療をがんばってると思う。でも……この数値だと、アオちゃんは気づかなくても、小さな発作はあったのかもしれないなあ」  パソコン画面に映し出された検査結果を見ながら、先生は言いました。 「ちょっと息が苦しそうかな、ということはありましたけど……」  お母さんが首をかしげました。お母さんには、夜中に発作を起こしたことは言っていません。吸入器を使って症状がおさえられるくらいの発作なら、なかったことにしていたのです。発作があったとわかれば、高原学校はあきらめるように言われるにちがいないからです。  次に続く高橋先生の言葉を、アオイはもう予想はしていたけれども、それでも聞きたくはありませんでした。 「ざんねんやけど、高原学校参加は許可できないな」  クリニックを出ると、雨はこぶりになっていました。 (明日、晴れるかなあ?)  アオイははい色の空を見上げながら思いました。 よほどの大雨でないかぎり登山は決行することになっていますが、やはり晴れてほしいと思います。  アオイはかさもささずに駐車場まで走りました。お母さんがかさを持って追いかけてきます。お母さんはアオイが車に着く前に、後ろからリモコンキーでカギを開けてくれたので、アオイは待たずにドアを開けることができました。けれども、ランドセルが助手席をふさいでいて、すぐには乗り込むことができません。アオイはランドセルを後部座席にほうりこんで席をあけました。おくれてお母さんが運転席に乗り込みます。 「学校、行きたくないな」  アオイが言うと、お母さんも「そうだよねえ」と言います。  今朝はクリニックで診察を受けたあと、学校へ行く予定でした。「高原学校、行けるよ!」とクラスメイトに言う予定だったのです。五時間目は学級活動の時間で、高原学校の準備をすることになっています。けれども、高原学校に行けなくなった今、学校に行っても所在ない思いをするだけです。けっきょく、この日は学校を休むことにしました。お母さんが欠席と、高原学校の不参加を伝える電話をしました。  お母さんが電話をしているあいだ、アオイは窓の外をながめていました。クリニックの駐車場から、となりの造園屋が見えます。雨が降るなか、二人の作業服の若い男の人が軽トラックの荷台に根巻きされた大きな木をつみこんでいました。合図や、かけ声が、ガラス越しに聞こえてきます。知らない国の言葉です。外国人技能実習生でしょうか。雨の中の作業はたいへんそうです。ところが 「アハハハッ!」  とつぜん、二人の笑い声がはじけました。 (なにがそんなに楽しいんだろう)  アオイのため息が、窓をくもらせました。  火曜日も、やっぱり雨でした。 「雨になっちゃって、かわいそうね。今ごろ、みんな、氷ノ山に登ってるのかな?」  お母さんは、リビングのはきだし窓から雨にそぶる庭を見ながら言いました。 (かわいそうなもんか)  と、アオイはソファの上でひざをかかえて思いました。 (雨の中の登山だって、友だちといっしょだったら楽しいに決まってる。雨にぬれた森の緑は濃くて、あざやかで、きっときれいなんだろうなあ。ぐっしょりぬれて、つかれて、今日はうんざりだったとしても、しばらくしたらきっと楽しい思い出になるんだ)  アオイは、雨の中で作業をする外国人技能実習生のことを思い出していました。  アオイは、お母さんがアオイが高原学校に参加できなくなってかわいそうだと思っているのはわかっていました。けれども、お母さんがほっとしているのも感じていました。雨で、空気のうすい高原で、しかも夜ともなれば、発作が起こりやすい条件はそろいすぎるくらいそろっているのです。発作が起こってもアオイも自分であるていど処置はできますが、病院に運ばれるようなひどい発作が起こった場合、キャンプ場は町の病院からも遠いので安心できません。 「わたしは、一生、旅行に行けないんだ」  アオイが言いました。ひざに顔をうずめるアオイに、お母さんは「そんなはずないわよ」と声をかけました。 「旅行にだったら、何度も行ったことあるじゃない」  アオイはくちびるをとがらせました。 「お母さんは良いよね。行きたい国にたくさん旅行しているんだから。わたしは一生、飛行機にも乗れない」 「お母さんがはじめて飛行機に乗ったのは二十歳のときだよ」  お母さんが言いました。 (お母さんが二十歳になるまで飛行機に乗らなかったのは、乗れなかったからじゃないじゃない!) 飛行機の中には、吸入器や薬を持ち込むことはできます。けれども、やはり飛行機に乗っているあいだに発作が起こってしまったらと思うと、飛行機には乗るべきではないと思うのです。 「先生もおっしゃっていたでしょ。どんどん良くなってる、強くなってるって。子どものぜん息は、大人になるころには治るんだから」  お母さんはそう言いますが、それは来るとは思えないほど遠い先の話です。 「アオちゃんは、これからいくらでも海外旅行ができるよ」  そんなことを言われても、なんのなぐさめにもなりません。 (五年生の高原学校は、もう二度と行くことはできないじゃないか……)  お母さんは、お昼前にパートへでかけていきました。  アオイの胸の奥は、ヒューヒュー鳴いています。アオイは柱にもたれかかって、たばこをのむモノクロ映画の女優をきどって吸入器をくわえました。  その日の夜のことです。息ができなくなって目が覚めました。胸がビョービョーと音をたてています。アオイは、正しい穴をふさぎそこねた男子のリコーダーの演奏を想像しました。空気がまちがった穴から抜けて、不ゆかいな音を出す――。まるで、今のアオイはそんなへたくそな演奏者に吹かれたリコーダーのようです。空気が肺にとどかずに、抜けて行ってしまって、息ができません。  アオイは吸入器をつかんで、部屋を出ました。高原学校には行けなかったのです。もう、発作が起こっても自分だけでなんとかしようなんて思わなくても良いのです。  アオイの部屋から続くリビングは、電気が消されて、ひとけがありません。お父さんもお母さんも、もう寝室に引っ込んでしまったのでしょう。アオイは電気をつけることはできましたが、お母さんを呼ぶことはできずに、ソファにくずれおちました。  つゆに入ってから起こした発作の中で、一番ひどい発作です。持ち運び用の吸入器をくわえようとするけれども、なかなか口に入ってくれません。体にうまく力が伝えられず、手に持っていた吸入器が床に転がり落ちました。しずまりかえった部屋の中に、コロコロコローー!と、床をすべる音がひびきました。   アオイは、吸入器を拾おうと手をのばして、かざりだなにならぶフィリッポに気がつきました。 「フィ、リッポ……」 お父さんとお母さんの寝室のドアが開く音がして、さけび声といっしょに、かいだんをかけおりてくる音がしました。 「た、す、け、て……」 アオイがフィリッポに手をのばそうと腕をあげると、となりにあったスノードームのガラス玉に指がふれました。
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