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⑷ ブルックリン橋の上で
――キャハハハハッ。
女の子の笑い声がひびきます。
アオイは高層ビルのふもとに立っていました。
「ここは……ニューヨーク?」
アオイが言うと「ピンポン! ピンポン!」と言いながら、フィリッポがポケットから顔を出しました。
発作はおさまり、パジャマから洋服に着替えています。
「わたし、死んじゃったのかな?」
手のひらにのせたフィリッポが、ころんっとずっこけました。
――なんでだよ!
「だって、わたし、さっきまでぜん息の発作で……」
――助けてっていっただろ?
フィリッポが、ちょっとかっこつけて言いました。
「それでスノードームの中に連れて来てくれたの?」
――そうさ。
フィリッポはうなずきました。
そうは言っても、アオイの「もしかして死んでしまったのでは?」という心配がはれたわけではありません。けれども、死んだことを確かめることもできないし、今はニューヨークにいるし、苦しくもありません。
夢を見ているのだとしてもニューヨークを楽しんだほうが良い、とあたりを見まわしました。アオイの前にそびえているのは、お母さんが持っているスノードームの中のミニチュアにあるエンパイヤステイトビルとか、クライスラービルとか、有名なビルではありませんでした。いえ、もしかしたら有名なビルなのかもしれませんが、あまりにも高くて、下から見上げてもビルの形がはっきりとわからないからです。
ビルはぎゅうぎゅうに押し合うように建っています。何十階建てなのか数えることもできないガラスばりのビルのとなりに、四、五階建ての古ぼけたビルが建っていたり、窓をアーチでかこった凝った装飾のビルもあれば、無機質な白い箱のようなビルもあります。古いビルもあれば新しいビルもあるのに、その一つ一つはちょっとのすきまもなく建っているのです。それでいて車が走る道路はわりあい幅がせまく、車がやっとすれちがえるくらいの幅しかありません。両側に建つビルの高さから言ったら、片道三車線の道路でも良いくらいだ、とアオイは思いました。
「これが、ニューヨークかあ!」
アオイは声に出して言いました。
「すごいなあ!」
もしかしたら、東京や大阪にもこれくらい高いビルがあるのかもしれません。こんなふうに、真下から見上げたことはありませんでした。
「キャハハハハッ!」
うしろから楽しそうな笑い声が聞こえて、アオイはふりむきました。日本人の若い女の人の二人づれです。一言、口を開くたびに笑い声がはじけます。
「お母さん!」
女の人の一人は、お母さんが、お母さんになる前の、若いお母さんでした。
――このスノードームは、お母さんの旅行の思い出だからね。
はじめての海外旅行に、お母さんは大学の同級生といっしょに行きました。お母さんも、お友だちも小柄で年のわりには、おさなく見えます。こんなところに子どもだけで来てもだいじょうぶ? と思わず聞きたくなるほどです。
(やっぱり、この前の巨人はお母さんだったのかもしれない)
アオイは思います。
ガラスのむこうからデンドゥール神殿をのぞきこんでいた巨人について、フィリッポは、だれかがスノードームをのぞいていたんだと言い、お母さんにしては若い女の子のように見えたとアオイは言ったのです。けれども、ニューヨークを旅行した二十歳のお母さんだと思えば、そうかもしれないと思えます。
高い建物が多いニューヨークの町を、お母さんたちは上ばかり見て歩いています。首からは、大きな一眼レフカメラをさげています。フィルムのカメラです。二十歳のお母さんは、一枚、一枚、フィルムの残りを数えながら大事にシャッター切っていました。
自由の女神の前でポーズをとるお母さん。高層ビルの展望台からニューヨークの町を見下ろすお母さん。ニューヨークを歩くお母さんたちは、とても楽しそうです。
楽しそうなお母さんを見て、アオイは胸の奥がきゅっとちぢまるような気持ちになりました。お母さんは、とても自由そうに見えました。自分が行きたいところには、どこにでも飛んでいけそうな、軽やかさがありました。
アオイは、そんなお母さんのすがたを見て、くちびるをかみました。
――どう、ニューヨークは?
「……うん。楽しい」
フィリッポはアオイの様子がおかしいのに気がついて首をかしげました。
「ブルックリンに行きたいな」
アオイが言いました。
――ブルックリン?
フィリッポは目をぐるりとまわしました。
――残念だけど、マンハッタンを出られないんだ。お母さんが、ブルックリンに行ってないから。でも、ブルックリン橋になら行けるよ。行ってみる?
あいかわらずフィリッポはせっかちです。アオイが「うん!」と答える前に、地面が遠ざかりアオイは、ワイヤーを束ねる支柱を見上げていました。土くもが投げた糸のように、ほうしゃ状にワイヤーがのびています。
「ああ、ブルックリン橋だ」
アオイはつぶやきました。
柱のむこうに広がるのは青い空、ではなく、光をあちこちに反射させた虹色の空です。空には、雪に見立てたセロファンがテロテロとかがやきながら、水の中をういています。それに、少し水はにごっていて気泡も浮いています。
「旅行をする目的ってなんだろうね?」
――どうしたの、いきなり?
「うん、だってさ、ブルックリン橋に立ってみて、ああ、ここが! とは思うけど、それってすでに写真や動画で数えきれないくらい見てるじゃない? それと、ちがうわけがないし。もちろん、写真のわくの外にも風景は広がっているし、声とか、においとか、写真では伝えられないものが、いっぺんに飛び込んでくるわけだけど。こういうのがあるってわかっていて、そこに行って、やっぱりあるっていうのを確かめているだけみたいに思えてきた」
――そうだね。一週間かそこいらの旅行だとそう思うかもね。
フィリッポがうなずきました。
――かつての旅人は、未知なるものを求めて旅をしたものだけど。
「よく調べていった目的のものよりも、ぐうぜんの出会いのようなものの方が、感動したりするのかな」
――古代エジプトのカバとかね!
フィリッポがいばって言いました。
――アオちゃんは《モナ・リザ》、《モナ・リザ》言っているけどさ、たぶん《モナ・リザ》を見たら、あ、そうって言って終わりだよ。
「そうかもね。あとは、その町に住んでいる人と知り合うとか……」
アオイが話すとちゅうに、手のひらにのせたフィリッポの上に、影が落ちました。
(あ……)
それがなにを意味するのか、アオイはもうわかっていました。
「フィリッポ、空を見て」
言って、二人が空を見上げると、思ったとおり、黒いかみの女の子がガラス玉の中をのぞきこんでいました。
――うわぁ!
おどろいたのは、フィリッポです。手のひらでフィリッポが飛び上がります。フィリッポはラバーでできているので、飛び上がられると着地したとき、ずしんっという手ごたえがあります。アオイはあわててフィリッポをぎゅっと手でつつみました。
――この前、アオちゃんがおどろいたの、わかったよ。
指の中から、外をうかがいながらフィリッポが言いました。
「大きいものね」
球体にゆがんだ女の子の顔が、空いっぱいに広がっています。
おそろしいような気もしましたが、アオイは空にうかぶ巨人の顔から目をそらさずに見つめました。
たまご型の顔。長いかみを一つにくくっています。
第一ボタンを開けた、青いシャツ。
巨人の正体は、若いころのお母さんだなんて思っていましたが、ニューヨークを観光するお母さんとは別人でした。
二十歳のお母さんは、海外旅行中ということもあって、うっすらとおけしょうをしていますがガラス玉をのぞきこむ顔はおけしょうはしておらず、アオイよりもお姉さんですが、お母さんよりは子どものように見えます。ほおのまん中に、少し大きめのほくろがぽつんとついています。
じっとガラスのむこうの顔を見つめていたら、むこうもアオイに気がついたようでした。目をまん丸にして、口もぱっくりと開けています。
「わたしたち、目が合ってる!」
アオイが声に出して言いました。すると、アオイの声が聞こえたのでしょうか。ガラスのむこうの女の子はますます目を丸くしました。
『え? どうして?』
女の子は言いました。ガラスごしに、少しくぐもったような声がひびきます。
――むこうからもこっちが見えるんだ!
フィリッポが手の中で、ぴょんぴょんとびはねます。
「そう、みたい! お~い!」
アオイは手をふりました。
女の子は、目を丸くしました。
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