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⑸ おみやげもの工場
作業台には、おびただしい数のスノードームが整然とならんでいます。ヤン・ルーは、テニスボールほどのガラス玉を右手でわしづかみにすると、ドームをひっくり返しました。台座に欠けているところがないか確認するためです。台座の欠けがないことがわかると、今度は左手に持ち替えます。台座を左手でわしづかみ、手首を回しながらガラス玉を蛍光灯にかざします。ガラス玉に充てんされたグリセリン水に空気が混じってないかを確認します。ドームの中に空気がまじると、水がにごる原因になるからです。台座に欠けもなく、ガラス玉に空気がまじっていないスノードームは、台車の上に積み上げられたカートンの中に入れます。
作業台のスノードームを右手でとって、左手に持ち替えて、カートンへ入れる。右手でとって、左手。右手、左手。右手、左手……。
ヤン・ルーはスノードームを作業台からとってはカートンに入れるという作業をもくもくと続けます。同じものをずっと見続けていると、ささいなちがいにすぐに気がつくようになります。ガラスドームにのばした右手が、指を大きく広げたままぴたっと止まりました。
『え?』
ヤン・ルーが思わず声をあげると、しずかなフロアで作業をしていた工員たちがパッと顔をあげました。
ヤン・ルーは気まずさをかくして、あごをひき、鼻を「フフンッ」とならしました。何事もなかったように別のスノードームに手を伸ばし、台座の欠け、空気の混入を確認しカートに入れます。それをくり返しているうちにヤン・ルーに集まっていた視線は引いていきました。工員たちが自分の作業にもどっていくのを確認して、ひざを折り、作業台すれすれに視線を落としました。
ここは澤西工藝品有限公司(アーツ・アンド・クラフツ・カンパニー)という主に各種樹脂を原料としたフィギュアや模型、キーホルダーやストラップなどを製造している工場の製品検品部です。今、検品しているニューヨークのおみやげ用スノードームの台座は、セントラルパークの木々のむこうに高層ビル群がならんでいるデザインで、ガラス玉の中に、ニューヨークの名のある高層ビルと自由の女神とがつめこまれています。細かいところまでよく表現されていますが、特殊樹脂に塗られた色は光沢がなく現実味に欠ける感じです。
スノードームをのぞきこんだヤン・ルーは息を飲みました。ガラス玉の中には、ミニチュアではないほんもののニューヨークがありました。
(前にもあった、こんなこと。あんまり同じものを見すぎて、さっかくを起こしているのかな)
ヤン・ルーは目をぱちぱちとしばたかせました。けれども、ガラス玉の中のニューヨークは消えません。ヤン・ルーは目をしかめ、ガラス玉をのぞきこみました。
空を飛ぶ鳥のような気分です。高いビルをかきわけて、地上を走る車の動きまで見えてきました。ニューヨークの町は、人も自動車もいそがしそうに動き回っています。ヤン・ルーの視線は、川にかかる大きな橋に吸い込まれて行きました。
橋の両側を自動車がせわしなく走り、中央の道ではジョギングをする地元民や首からカメラをさげた観光客が行きかっています。
だれもヤン・ルーがガラス玉の外から中をのぞいていることなど気がつきません。
(ここは、ニューヨークのどこだろう?)
そう思って、ヤン・ルーはガラス玉に目を近づけました。
すると、橋の真ん中を歩いていた女の子がぱっとふり返ったのです。空を見上げて、目を丸くしています。
それが、アオイでした。
スノードームの中のアオイが、自分にむかって大きく手をふっています。
ヤン・ルーは目を丸くしました。
ヤン・ルーはあたりに気をつかいながら、手のひらをこきざみにふりました。するとガラス玉の中のアオイが、ぴょんぴょんととびはねました。
「お~い! お~い!」
ぎょっとしたヤン・ルーは思わず、両手でガラス玉を包みこみました。そして、そうっと指を開いて、ガラス玉の中をのぞきこみます。指のすきまから、アオイがこちらを見上げているのが見えます。
『仕事中なのよ』
ヤン・ルーが小さな声で言うと、スノードームの中でぴょんぴょんとびはねていたアオイが飛ぶのをやめて「しーっ」とひとさし指を口の前に立てました。
あたりの人たちがヤン・ルーの仕事の手が止まっていることに気がつきはじめました。ヤン・ルーはアオイが閉じ込められたスノードームを持って立ち上がりました。すると、中のアオイが「うわっ」と悲鳴をあげてしりもちをつきました。
『ごめん、ごめん!』
ヤン・ルーはあわててスノードームを平らな場所におきました。
アオイのいるスノードームを見える場所において、ヤン・ルーは仕事を再開しました。別のスノードームを右手でつかみ、左手に持ちかえて、手首をまわして、カートンに入れます。
『検品作業をしているの』
ヤン・ルーが言うと、アオイが「ちょっと、ちょっと、待って!」とあわてたように言いました。
「検品って、あなたはスノードームの検品をしているの?」
『そうよ。検品は、ほんとうはわたしの仕事じゃないんだけど。今日は人手がなくて、ピンチヒッターなの。いつもはスノードームの色ぬりをしているんだけどね。うちの工場では、色ぬりはたいてい入社したばかりの女子工員の仕事なのよ』
「スノードームを作る工場で働いているの?」
アオイはおどろいて、目を白黒させています。
『そうよ。まだ三カ月くらいだけど』
(きっと暑さのせいだ)
と、ヤン・ルーは思いました。
今日はとても暑くて、部屋の天井にとりつけられたせんぷう機が何台もまわっているけれども、生あたたかい空気をかきまぜているだけで、少しもすずしくはなりません。
(あんまり暑くて、まぼろしを見ているのね)
そう思ったヤン・ルーは、小さなスノードームの中にニューヨークがすっぽり入ってしまっていようと、中に人が閉じ込められていようと、その人が話しかけてこようと、少しもこわくありませんでした。
『わたしはヤン・ルー。あなたはだれ?』
「わたしは山本葵生(あおい)。小学五年生」
アオイが答えると、手に乗ったフィリッポも「ぼく、フィリッポ!」と声をあげました。
『あら……』
これには、少しおどろきました。ヤン・ルーはアオイがカバのおきものを持っていることにも気がついていなかったのに、それがしゃべったからです。
『まあ、よろしく。カバさん』
ヤン・ルーは言いました。
『ヤマモト、アオイ……いうことは、中国人じゃないのね?』
言葉が通じているのにおかしいな、とヤン・ルーは思いました。
『アオイはニューヨークに住んでるの?』
「中国人?」
アオイは、急いで首をふりました。
『わたしは日本人だよ。日本の小学校に通ってる』
――ぼくがアオちゃんを、スノードームの中に連れて来たんだ。
『なるほど』
ヤン・ルーはうなずきました。
こんなにおかしな状況なのに、言葉がどうして通じるのだろうとこだわるのも変な話です。
『良いね。わたしも、この中に入れたらって思うよ』
スノードームを右からとって、左に入れる。右から左へ。その動きをくり返しながら、ヤン・ルーは言いました。
『色付けをしながら、ニューヨークにいる自分を思いうかべていたの。出かせぎ労働者としてじゃなくて、観光客としてこの町を歩いて、このスノードームをおみやげに買ったりするの』
ヤン・ルーはふと仕事の手をゆるめて、蛍光灯にかざしたガラス玉の中にうかぶラメが光を反射させながらグリセリン水の中をただようのに目をうばわれました。
「旅行をしたのはわたしじゃなくて、お母さんなの」
アオイが残念そうに言いました。
「これはお母さんがニューヨークのおみやげに買ってきたスノードームだから。わたし、前にもあなたがスノードームをのぞいているのに気がついていたの。そのときは、お母さんなのかと思ってたんだけど」
お母さんと言われて、ヤン・ルーは『どうして?』と、クスクス笑いました。
『わたし、子どもがいるようなおばさんじゃないよ。まだ、十七歳』
「そうじゃなくて!」
アオイはあわてて言いました。アオイは、ヤン・ルーのことを子どもがいるおばさんに見えていたわけではありません。むしろ十七歳と言われて、もっと若いのかと思っていたくらいでした。
「若いときのお母さんってことだよ。このスノードームは、お母さんがわたしが生まれてくるよりもずっと前に買ったものだから」
『ずっと前?』
そう言われても、ヤン・ルーはピンッときませんでした。
(今、検品をして出荷しようとしているスノードームを、ずっと前に買ったってどういうこと?)
「十七歳ってことは、ヤン・ルーは、高校生なの?」
『高校には行ってない。中学を卒業して、深圳(しんせん)に出かせぎに来たの』
ヤン・ルーはにっこりして言いました。
「深圳?」
『深圳を知らないの? そうか、アオイは日本人だもんね。深圳は、広東省の……』
「広東省?」
ヤン・ルーの話のとちゅうだというのに、アオイは口をはさみました。
「中国の? ニューヨークにあるチャイナ・タウンじゃなくて? だって、ニューヨークのスノードームを作っているんでしょ?」
(スノードームをニューヨークで作ってるですって?)
アオイがあまりにとっぴなことを言い出したので、ヤン・ルーはクスクス笑いだし、止まらなくなってしまいました。
「なにがおかしいの?」
『だって、ニューヨークで売られているスノードームも、ロンドンで売られているスノードームも、パリのも、ローマのも、みんなこの工場で作ってるのよ』
なんとか笑いを止めて、ヤン・ルーは答えました。
「えっ? どういうこと? ニューヨークのおみやげがどうして中国で作られるの?」
『そんなにおどろくことじゃないでしょう?』
おどろくアオイに、おどろかされてヤン・ルーは言いました。
『スノードームだけじゃないのよ。世界中のおみやげの大半を、中国で作ってるんだから』
あまりのおどろきにアオイは言葉を失いました。
アオイは当たり前のように、おみやげものは売られている町で作られているものだと思っていました。
「お母さんは海外旅行に行くたびに、スノードームを買って来ていたのに、中国で作られていたなんて……!」
アオイは、すんでで「がっかりしちゃう」という言葉を飲み込みました。
『アオイのお母さんは、そんなにあちこち旅行をしているの?』
「むかし、ね。結婚をする前の話だよ」
『あら、じゃあ、アオイは旅行に連れて行ってもらえないの?』
「そう。お父さんはいつか連れて行ってくれるって言ってるけど。わたしはどこにも行ったことがないの」
――それで、アオちゃん、へそまげちゃってさ。
フィリッポが言いました。
――だから、その代わりにぼくがここに連れて来てあげたんだよ。
そういうフィリッポはとても得意げです。
『そうなの? わたしにもあなたのようなカバさんがいてくれたら良かったのに』
ふふふっとヤン・ルーはとても感じよく笑いました。
『わたしも深圳に出てくるまで、旅行をしたことなんてなかったわ。これからも、農村戸籍の出かせぎ労働者に観光ビザがとれるとは思えない。でも、アオイはこれからいくらでも行く機会があるでしょう』
これから、という言葉がアオイにずしんとひびきます。そんな日がいつかくるとは思えませんでした。
『わたしが作ったスノードームが、わたしが行ったこともない国に運ばれて行く。そしてそれを買った人は、また自分の国にそれを持ち帰って、わたしのスノードームは世界中に散らばっていくんだよ』
検品を終えたスノードームがならんだカートンを見下ろして、ヤン・ルーがうっとりとして言いました。
『すごくロマンチックだと思わない?』
ロマンチックだなんて、アオイはちっとも思いませんでした。
ヤン・ルーは作業台にならんだスノードームのさいごの一つを手にとりました。台座には欠けはなく、ガラス玉にも空気は混じっていません。カートンには、あと一つスノードームが入るすきまがあるだけです。
『じゃあ、これ、持って行かないといけないから』
ヤン・ルーはアオイたちが入ったスノードームを手にとりました。
『また会えるといいわね』
そう言うと、ガラス玉の中に見えていたほんもののニューヨークが潮がひくように遠ざかっていきました。
ヤン・ルーはカートンを台車に乗せて、慎重にとなりの部門に運びました。検品をしていた作業台とは、パーテーションで仕切られているだけの箱づめをするところです。スノードームは、それぞれ緩衝材(かんしょうざい)に包まれてそまつな小箱に入れられ、それから段ボールに入れられます。そこからトラックに乗せられて、船便で世界中の観光地へ運ばれていくのです。
「検品、終わりました」
声をかけると、箱づめ作業をする工員はけげんそうに顔をあげて「そこにおいて行け」とでも言うようにあごをしゃくりました。
「はい」
ヤン・ルーは台車をおいて、検品部門へと戻ります。
顔が痛いような気がして、ほっぺたをひっぱりました。中国中から出かせぎ労働者が集まるシェン・チェンでは、どこのなまりともわからない様々な方言と、国なまりの抜けない普通話が飛び交っていました。ヤン・ルーが普通話を話していても意味が通じないこと、聞き返されることもしばしばです。同じ言葉を話しているのに、言葉が通じないくるしさに、だんだんと口数が減っていきました。
こんなにおしゃべりをしたのは、ひさしぶりのような気がしました。
❄❄❄
「アオちゃん!」
お父さんとお母さんが悲鳴にも似た声で名前を呼びながら、階段をおりてきました。アオイはリビングのソファの上にたおれこんでいました。お父さんとお母さんが、階段をおりてきたいきおいのまま、アオイに抱きつきました。
お母さんが耳を胸におしつけてきます。呼吸を確認しているのです。アオイの胸の奥からはヒューヒューと息が抜ける音が、しませんでした。
発作はおさまっていました。
「うぁ、なにぃ。おどろかせんといてよ」
お父さんが、床に転がった吸入器を拾い上げながら言います。
「いや、ほんとうにすごく苦しかったんだって。薬を吸っておさまったんだよ」
アオイが言います。はげしい発作の後とは思えないくらい、呼吸は安定していて、話しても少しも息苦しさがありません。
「先生が数値的にあぶないっておっしゃっていたんだから、もっと注意しておくべきだったわ」
水を持ってきたお母さんが言いました。
水を飲みながら、アオイはかざりだなにならぶスノードームを見ました。ニューヨークのスノードームの場所が、少し動いているように見えました。となりにあるフィリッポは、すずしい顔をして口を一文字に結んでいます。
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