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⑺ ヤン・ルーの夢
梅雨前線は、いつまでも日本列島の上に居座り続け、雨の日が続きます。雨の日は、ぜん息の発作が起こりやすいので、雨の日の晩は、アオイはふだんはお父さんとお母さんが寝るダブルベッドで寝ることになりました。代わりに、お父さんがアオイのベッドに寝ます。これで夜中に発作がおきても、となりにねむっているお母さんがすぐに気づいてくれます。
お母さんは、寝室の窓ぎわにもスノードームを飾っています。
オランダで買ったスノードームは、台座がチューリップにぐるりとかこまれて、ガラス玉の中には風車が建っています。スペインのバルセロナで買ったスノードームは、BARCELONAの文字がモザイクで表現された台座に、サグラダ・ファミリア教会のミニチュアが入ったガラス玉がのっています。
「これ、すてきでしょ。台座までガウディっぽいデザインで」
お母さんが言います。
「バルセロナにもいろんな種類のスノードームがあったけど、これが一番すてきだと思ったの」
「スペインにはいつ行ったの?」
「ニューヨークに行った次の年の九月。やっぱり一年、アルバイトしてためたお金で、二回目の海外旅行だったよ」
そう言って、お母さんはバルセロナのスノードームを手に持ってひっくり返し、またオランダのとなりにならべました。
アオイは寝るまえに、フィリッポをリビングから持ってきて、吸入器といっしょにサイドテーブルの上にならべておきました。
❄❄❄
ヤン・ルーがあらわれたのは、バルセロナの町を歩き、サグラダ・ファミリア教会も見学し、同じくアントニオ・ガウディが設計をしたカサ・バトリョというアパートの吹き抜けに立ったときでした。
青と水色のタイルがはられたアパートの壁は、まるでプールかせんとうのようだ、とアオイは思いました。
吹き抜けの一番上は、天窓になっています。
ヤン・ルーが顔をのぞかせました。
『あら!』
ヤン・ルーは、声をはずませて言いました。
『もしかして、あなたはアオイ?』
「うん!」
アオイは言いました。
「会えると思ってた」
『わたしも会いたかったわ。カバさんもいるの? ひさしぶりね』
――ひさしぶり? つい昨日、会ったじゃないか。
フィリッポが言いました。
『そんなはずない。あなたたちにニューヨークで会ったのは、わたしが深圳に出てきたばかりのとき。あれからもう一年はたっているわ』
「そうなの?」
アオイとヤン・ルーとでは、時間の流れがちがうのでしょうか。お母さんがニューヨークを旅行して、次にスペインを旅行するまでのあいだがちょうど一年です。
『同じ工場で長く働く出かせぎ労働者は少ないからね。一年たったら、すっかりベテラン工員よ』
ヤン・ルーは言って、笑いました。
ヤン・ルーは、ピンクの花柄のエプロンをして、ひじから手首にかけて腕抜きをして、手には絵筆を持っています。
『細部の仕上げをまかされるようになったのよ』
「他の人は、学校の休みのあいだだけ働いているとかなの?」
アオイは聞きました。
ヤン・ルーはプホッ! と吹き出しました。
『アオイは出かせぎ労働者のことをぜんぜん知らないのね。おこづかいかせぎのために働いているわけじゃないのよ』
「え……」
言われて、アオイは言葉を失いました。
『工場には、工員用の寮があるし、食堂もあるから、生活費はあんまりかからないけどね。家に仕送りをしなくてはいけないし』
「仕送りをしてるの?」
それはアオイにとっては、意外なことでした。まずしくて、学校に行きたいのに行けなくて、家族を支えるために働く若い女の人。それは、アオイにとってははるかむかしの出来事、物語の中の出来事です。
「ごめんなさい」
アオイはヤン・ルーが気を悪くしたのではないかと思ってあやまりました。
『ふふっ。みんな、お給料が良いところを見つけて出て行っちゃうのよね。工場はいくらでもあるもの』
ヤン・ルーの言葉に、アオイはお父さんが深圳は世界の生産工場と呼ばれていたと言っていたことを思い出します。
「スノードームの工場はお給料が悪いの?」
『そうねえ。わたしが働いているのは中国企業だから。外国企業の工場の方が、やっぱりお給料が高いかも』
「それじゃあ、どうしてヤン・ルーは今の工場で働いているの?」
『それでも、地元で仕事を見つけて働くのよりもずっとお給料は良いのよ』
それから、少し考えて言葉をついで答えました。
『お給料さえ良ければどこだって良いっていう人は多いけど、わたしはそうは思わなくて。製造ラインの仕事をしていると、自分が作った商品がどこに運ばれて、どんな人に使われているかどころか、どんな商品のどんな部分を作っているのかすらわからないようなこともあるの。その点、スノードームの場合、教えられなくたってどこに輸出されるのかはっきりとわかる。わたしは、それが気に入ってるの』
「そうなの?」
『ここだってにたようなものだけどね』
そう言って、ヤン・ルーは工場で働きはじめた日のことを教えてくれました。
はじめて工場に行った日、ヤン・ルーは先輩工員に作業場を案内されました。ワンフロア一続き(ひとつづ)の作業場にはえんえんと作業台がならんでいて、仕事をしている工員のとなりには作りかけの商品が入ったカートンが何層にもつみ重ねられていました。ヤン・ルーは商品がベルトコンベアで流れてきて、それにハンダでなにかをくっつけるとかそういう仕事を想像していたので、思っていたのとちがうな、と思いました。商品はベルトコンベアでは運ばれなくて、台車にカートンを乗せて、自分で運ばなくてはいけませんでした。
先輩工員は不親切も良いところで、特殊樹脂で型抜きされた生の色のままのミニチュアがずらっと、ならんでいるのを見せて「ほら、このミニチュアに色を付けるのがあなたの仕事」と言っただけでした。
『あなたの仕事は色をぬることって、それさえ言えば十分だと思ったのかしらね』
ハンッと、ヤン・ルーは先輩工員のことをばかにしたように笑いました。
『まあ、さいしょに与えられた色つけ作業は、カートンの中に入っている色指定表を見て色をぬればいいだけの仕事で、むずかしくはなかったんだけどね。必要な画材はぜんぶ作業台の上に用意されてたし、さいしょは下ぬりのような仕事で、細部のしあげは先輩工員の仕事だったしね』
ふうぅと大きく息をはいたヤン・ルーはおだやかでした。
『だけどね、このときにはまだ自分がスノードームを作っていることさえ知らなかったの。完成された商品も見せてもらえないなんて、変でしょ』
ヤン・ルーのさいしょの仕事は、はだ色の樹脂の台座に青い塗料をぬることでした。けれども、このときもまだ自分がぬっているものがなんの色なのかもわかっていませんでした。ほかの工員がしあげた商品をぬすみ見て、腕をふりあげた女性の彫像が、自由の女神だとわかったのです。
「信じられない」
アオイは思わずふきだしました。じょうだんみたいな話です。
『でしょう?』
そう言って、ヤン・ルーはまたフフッと笑いました。
『今は、ほら』
そう言って、手に持ったスノードームを少しあげて見せました。
ヤン・ルーが持っているのは、お母さんのと同じスノードームです。
『わたしのところにくるころには〝バルセロナ〟ってわかるから。バルセロナの建物なんだなあってわかる。どんな人がわたしの作ったスノードームを手にしているのか、本当のところはわからない。でも、想像することはできるでしょ。深圳に出てくるまで、わたしにとっては村がゆいいつの世界で、外の世界を想像することなんてなかった。きょうみもなかったのね』
と、ヤン・ルーは言います。
『だから、スノードームに入っているミニチュアも、どこのどういう建造物なのか、正直、ほとんどわからなくってね。自由の女神、エッフェル塔は知ってたけど、ほかの高層ビルや、教会になるともうお手上げ。だけど、今はわかるわよ。わたし、これまでに自分が色付けをしたスノードームの都市をみんなメモしたのよ。そして、旅行代理店までさんぽに行くの。旅行代理店の窓にツアーのチラシがはってあるんだけど、それを見てその町へ行くツアーがないか探すの。いつか、その町の一つにでも行ってみたいって思ってるんだ』
――どうせ行けるはずがないって思っているみたいな言い方だね。
フィリッポが言いました。
――どうしてそんな風に言うの?
「そうだよねえ。毎年、二月とか三月くらいには、中国人がたくさん旅行に来るよ。大阪の道(どう)頓(とん)堀(ぼり)なんて日本人よりも中国人の方が多いくらいだって、お父さんも言ってたよ。中国人は、海外旅行が好きなんじゃない?」
アオイがそう言ったので、ヤン・ルーは「プホッ」と吹き出しました。
『行けるわけがないよ。たしかにこの数年で、いろいろな国の観光ビザがとれるようになったけど、それは北京や上海、それに深圳の都市戸籍のお金持ちの話。深圳の町には旅行代理店がたくさんあって、海外旅行に行く人も増えたけど、わたしは四川省の農村戸籍だから観光ビザなんてまず出してもらえない。まずしい農村戸籍の人に観光ビザを出して、旅行先で行方不明になったりしたら観光会社がこまるからね』
――そういえば、前にも言ってたね。農村戸籍の出かせぎ労働者って。農村戸籍ってなに?
フィリッポが口をはさみました。
――おひゃくしょうさんってこと? でもヤン・ルーは深圳に住んでいて、工場で働いているんでしょう?
『そうだけど。深圳に住んだからって都市戸籍がもらえるわけじゃないのよ』
ヤン・ルーは言いましたが、アオイにはよくわかりませんでした。ただ戸籍によって、海外旅行に行けたり、行けなかったりするんだ、と思いました。
(そんなの、すごく不公平だ!)
ヤン・ルーはそのことを「そういうもの」と受け入れているように見えますが、アオイはいきどおりを感じます。
『わたしはね、一つで良いから欲しいって思ってるの』
ヤン・ルーはそう言って、スノードームを光にかざしました。きらきらとかがやく、セロハンの雪がヤン・ルーの顔に光のはんてんを作ります。
『ここでだって、もしかしてお金を出してたのんだら売ってくれるかもしれないけど。おみやげもののスノードームを深圳で買っても意味ないもんね。わたしは、いつか自分が行った旅先でスノードームを買いたいなって思ってるの』
ヤン・ルーは言いました。
『そっちは、あなたのお母さんが旅先で買ってきたスノードームなの?』
「うん。台座がきれいで気に入ってるって。いろんな種類のスノードームがあったけど、これが一番すてきだと思ったってお母さんが言ってたよ」
アオイが言うと、ヤン・ルーの表情がぱっとはなやぎました。
『いくつか種類がある中で、うちの工場で作ったのを選んだってこと?』
アオイは「うん」と気軽にうなずきましたが、ヤン・ルーはこみあげてくるものをこらえられない様子です。
「どうしたの?」
おどろいてアオイは言いました。
『うちの工場は下請けだからいろんな会社のスノードームを作っているのよ。だから、この前のバルセロナのスノードームと、この前のニューヨークのスノードームでは、発注元がちがうの。販売元の会社のシールを台座の底に貼ることはある。でも、うちの工場で作られたっていうことがわかるような表示はないの。だから、アオイのお母さんがうちの工場のものだってわかって選んでいるわけじゃないのはわかってる。それでもそんなふうに、わたしが作ったものを選んでくれる人がいるんだって思ったら……うれしくなっちゃって』
と、ヤン・ルーは顔をおおってしまいました。
そんなふうに感動をするヤン・ルーを見て、アオイは胸を打たれました。
スノードームが中国の工場で作られたと聞いて、アオイは鼻しらむ思いをしていました。工場で大量生産されるスノードームを想像して、それを作る人が、その製品に心をこめているだなんて思いもしませんでした。日本製と言われれば、それはたんせい込めてていねいに作られた製品で性能も良い、中国製のものは粗悪品だとどこか無意識に思っていました。そんなふうに思っていた自分をはずかしく思いました。
『たいへん! 手を動かさないとお給料を減らされちゃうわ』
なみだをぬぐってヤン・ルーが言いました。
『じゃあね、アオイ! また会いましょう!』
そう言って、ヤン・ルーは右手に持った筆をちょいっと持ち上げました。
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