吾輩は猫であるかもしれない

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吾輩は猫であるかもしれない

 吾輩は猫である。  ああ。みなまで言うな。分かっているとも。ちょっとだけ恰好をつけたかったのだ。吾輩だって偉大な文筆家の小説の冒頭を言ってみたかったのだ。  一生で一度は言ってみたいセリフであろう。猫として。 「ナッツー。ご飯だよ」  そう。ナッツが吾輩の名前である。夏目漱石と同じナツである。決してご主人に拾われた時にピーナッツの段ボールに入っていたからではない。 「どうしたの?」  不思議そうに首を傾げて吾輩を見つめている若い女性。吾輩のご主人である。名前は春という。 「今日は特別なので、ナッツの大好きなチュールですよ」  皿の上に出された食事からいい匂いが漂ってくる。はっは。吾輩が食べ物ごときでつられるような下賤なものだとは思ってもらっては困る。  しっぽが左右に揺れているのは吾輩が喜んでおるのではない。しっぽが喜んでいるだけなのである。  私は自分のしっぽにも自治権を与えているのでしっぽにも自由意志があるのである。本当の支配階級というのは抑圧せずに支配するのである。  なので、勘違いしないでほしい。ご主人がにこにこと吾輩が食べるのをじっと笑顔で見つめているので仕方がなく食べてあげるのである。  決していい匂いと食事につられたわけではないのだ。吾輩は仕方なく食べてあげているのである。そのあたりを勘違いしないでほしい。 「美味しい?」  ご主人がにこにこと笑いながら頭を撫でてくる。食べている時にやめてほしいのである。吾輩は少しもの言いたげにご主人を見上げる。 「あ、ごめん。食べる邪魔しちゃったね」  ご主人が頭をなでるのをやめる。やめろとは言ってないのである。抗議の声をあげるとご主人は嬉しそうに笑ってまた吾輩を撫で始める。  庶民というものは仕方がないものである。高貴な猫である吾輩はそれを許してあげるのだ。ノブレスオブリージュである。  ご飯を食べ終わって顔を洗っていると部屋に誰かが入ってくる足音がした。ご主人が振り返るとそこにはご主人の弟である秋二が立っていた。秋二は手を複雑に動かして何やら意思を伝える。 「ああ。そっか。もうそんな時間か。準備しないとね」  ご主人もそれを見て秋二に対して手をせわしなく動かして答える。いわゆる手話というやつだ。いくら賢い吾輩でもこの二人の手話は早くて正直意味が分からないのではあるが、別に困らないので気にはしていない。ご主人は立ち上がるとバタバタとせわしなく隣の部屋へと移動する。  秋二が吾輩に近づいて来て目の前にかがみこむとそっと手を伸ばして頭を撫でようとしてくるので、その腕を両手でつかんで嚙みついてやる。  秋二が慌てて手を引っ込める。困ったような顔をして秋二はご主人に向かって話しかける。 「え? どうして、ナッツはこんなに狂暴なのかって? ナッツは優しい子だよ。ねー」  ご主人が可愛らしく言ってくるので「にゃー」と同意しておく。 「なぜか、秋二には当たりがきついけど」と手話で言うと秋二は半眼で吾輩を見つめてくる。  ふん。吾輩とご主人の時間をいつも邪魔するからなのである。天罰というものなのだ。つん。と顔を背けてやると秋二がむりやり頭をぐしゃぐしゃと撫でてくる。やめろ。毛並みが乱れる。吾輩がにらみつけると秋二もこちらを睨みつけて笑っていた。やはりこいつは敵である。 「秋二も隆久さんに失礼の無いようにしてね」  ご主人は隣の部屋から顔を出して手話をしながら言ってくる。そうなのだ。今日はご主人の恋人が初めてこの家にやってくるのである。そのせいなのかご主人は朝からごきげんである。秋二は眉間にしわを寄せている。 「秋二のことも今日、紹介するから」  秋二もなにやら手を動かしながらうなずいた。しばらくするとご主人がばっちりと化粧をして服も着替えて部屋から出てきた。我がご主人ながらなかなかの綺麗さである。吾輩も鼻が高いと言うものだ。ピンポンと呼び鈴が鳴ってご主人が玄関へ向かう。吾輩も後ろから付いて行った。  玄関の扉を開けると細身のすらりとしたスーツ姿の男性が家の中に入ってくる。 「いらっしゃい」 「お邪魔します。君が秋二君だね。初めまして高木隆久と言います」  秋二がぺこりと頭を下げる。 「ああ、そうか。耳が聞こえないのだったね。大変申し訳ない」  そういうと懐から手帳を取り出す。吾輩は何をするのだろうと隆久なる男に近づいた後、下駄箱に飛び乗って手元をのぞき込む。 『私は手話ができないので、大変申し訳ないが筆談でよいだろうか?』  秋二がぺこりと頭を下げる。 『私は高木隆久といいます。初めまして秋二君のお姉さんとお付き合いをさせていただいているものです。手話は今度来るまでには覚えるようにするよ』  隆久がにこにこと笑顔を浮かべながら手帳とペンを秋二に手渡す。 『はじめまして。麻木修二と申します。手話は無理に覚えなくても大丈夫ですよ』 『僕も秋二君と気兼ねなく話をしたいからね。僕のために覚えるのさ』  そう書いた隆久はウィンクをして微笑む。秋二は驚いたように目を見開く。ふむ。悪い男ではなさそうだ。 「これ、お土産みんなで食べようと思って」  隆久は手に持っていた袋をご主人に掲げて見せる。 「駅前の数量限定のプリンじゃないですか! これ食べてみたかったんですよ」  ご主人が小さく飛び跳ねて喜ぶ。 「君にはこれ買って来たからな」  吾輩の前にチュールを掲げて見せる。ふむ。この男はいい奴かもしれん。それでも鼻をつんと背けておく。吾輩は安い猫ではないのだ。  三人はリビングに移動するとご主人が淹れたお茶とプリンを囲んで話を始めた。和やかな空気がながれており、三人とも仲良さそうにしていた。 「あ。コーヒー切らしてたんだった」  お茶が無くなってコーヒーを淹れようとしたご主人が声を上げる。 「近くのコンビニで買ってきますね。秋二、ちょっとよろしく」  言葉で手話で言いながらご主人は玄関を飛び出していく。ぽかんとした顔で二人がその様子を眺めていた。吾輩は小さくため息を吐く。  ご主人はこういうところがあるのである。今日、初対面の二人が間に入っているご主人がいないと空気が気まずくなるという想像ができないのだろう。  仕方ない。ここは吾輩の可愛さで間を持たせてやろうと二人の座っているテーブルの上に寝転がろうとジャンプした。 『はは。困りましたね。二人きりだと秋二君も気まずいでしょう』  隆久が手帳に書く。 『いえ、そんなことは』 『無理しなくてもいいですよ。今日初めて会った姉の彼氏と二人きりなんて気まずいでしょう』 『でも』  そこまで書いて隆久が秋二を見つめる。 『秋二君と仲良くなるチャンスでもありますよね』  にこやかに笑って見せる。どうやら、吾輩の可愛いタイムは必要なさそうだ。テーブルの上に丸まって体に顔をうずめる。 『安心しました』  秋二が書くと隆久が首を傾げる。 『姉は、あんな性格なんで、人を疑うっていう言葉を知らないんですよ。それは姉の魅力ではあるとは思うんですけど、反面騙されやすい人で。  今までも何回も人に騙されてきたんです。それでも姉は人を疑う事を知らない。底抜けのお人よしなんです』 『そうだね。と言っていいのか分からないけれど、そこが彼女の魅力だと私も思っているよ』 『ええ。そう言ってもらえると弟としても嬉しいです。僕たちは両親を早い時期に亡くしていまして、莫大な財産を引き継いでいるので、それを目的に姉に近づく人も多いので隆久さんが違うようで安心しました』  秋二が書くと隆久は少し動きを止めて、また書き始める。 『そうなんですね。ご両親を亡くなっていたのは知っていましたが。その話は初めて聞きました。でも、安心してください。私はそもそもそんな財産があるとも知らなかったのですから』  にこやかな笑顔のまま隆久が書く。確かにご主人は男運が悪いと言うか見る目がないというか、今まで付き合った男はだいたい財産目当てのクズのような男ばかりだったから、今度こそまともそうな人で吾輩も安心できるというものだ。 「知っていたけどな」  突然の隆久の言葉に吾輩は顔をあげた。隆久は相変わらずにこにこと笑っている。 『姉を大事にしてあげてください』 『もちろんですよ。弟の秋二君にこんな事を言うのは恥ずかしいですが、私は春さんを愛しているので』 「愛しているのは財産のほうだけどな」  吾輩は手帳に書かれた言葉と口に出されている言葉が一致していない現象に手帳と隆久の顔を交互に見る。  隆久は相変わらずにこやかな笑顔を浮かべたままだ。 『姉も隆久さんの事、大事に思っていると弟から見ても分かりますよ』 『そう言ってもらえると嬉しいですね』 「嬉しくないわ。あの女、将来俺の物になる金を寄付だ募金だと無駄遣いしやがって」 『結婚したら三人で暮らしたいですね。それまでには僕もしっかり手話を覚えておきますよ。それとも秋二君に教わろうかな』 『僕て良ければ何時でも教えますよ。僕も筆談じゃなく話したいですね』 『はは。頑張らないとな』 「ああ。あの女と結婚して財産を手に入れるまではな。騙されたと気が付いた時には俺は海外に高飛びさ」  なんだ。この男は。にこやかに秋二と会話をしながら、口では暴言を吐いている。一体どんな精神状態ならこんなことができるのだ。 『ああ。でも新婚だったら二人で過ごしたいんじゃないですか? なんなら僕は一人暮らししますよ』 『遠慮しなくていい。これから僕たちは家族になるんだから』 「金を手に入れるまではな。ここまで我慢して子供っぽい女と付き合ってきたんだ。それぐらい我慢するさ」 『隆久さんも結構なお人よしですね』 『そうかな?』 「それはお前だよ。馬鹿」  そこで玄関が開く音がした。ご主人が帰ったきたらしい。 「ただいまー」 「お帰り。早かったね」  隆久がにこやかな笑顔で出迎える。 「うん。コンビニ近いからね」  吾輩は部屋の隅に避難する。秋二が手帳を持って立ち上がり二人のもとに駆け寄る。  ああ。なるほど。隆久はきっと分かっていなかったのだ。  。  秋二は『僕は耳は聞こえているんですよ』そう書かれた手帳を隆久に見せた後、隆久を思い切り殴りつけた。    
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