深海の泥

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 生きるのに理由はいらない。という言葉が目に入った。その時、天性の天邪鬼精神によって、死ぬことを決意した。  灰原は、生きる意味が分からなかった。それはきわめて個人的な領域での話であり、「人間はどうして生きるのか?」などという哲学的なニュアンスは含まれていない。  あくまで自分が生きていることにどういった意味があるのか。そんな誰もが眠れない深夜に抱く、考えても仕方がないような疑問。かれはそれを長い間、自問し続けていた。  灰原はコミュニケーションが苦手だ。社会になじめない自分が価値のない人間であると信じ込んでいる。そのため、一端の性欲や人恋しさはあれど、自ら恋愛を求めることはなかった。また没頭できる趣味も持ち合わせていない。  社会に恐怖する彼にとって、働くことは苦痛でしかなかった。また労働の先に「幸せな家庭」や「充実した生活」等のゴールを望んでいない。しかし、働かなければ生きてはいけない。  そんな当たり前のことについて、考えに更けていると。なんども「自分は普通じゃない」という結論に至った。  その普通じゃないというのは例えば片翼をもがれた昆虫のような。もう、自然の中で生きていけず、ただ死を待つばかりの存在のような。空からの景色を眺めることもできず地面をただ這うばかりのような。そんな存在が自分であるのだと。  もはや崖の淵に立っていた。あと一歩で真っ逆さまという心境であった。  ある日、灰原は本でも買おうかと電車に乗って街に行こうとしていた。席は満席であり、ドア前に立って窓の外を眺めながら到着を待つ。そんな何気ないひと時の中、一瞬視界に入って過ぎていった広告。横顔がアップで撮られていた綺麗な女学生の写真、そして『生きるのに理由はいらない』というキャッチコピー。  一体それが何の広告だったのかはわからなかったが。その時、灰原は世界に否定されたような心地になった。  そして、どこか遠くへ行き、死んでしまおうと思った。
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