深海の泥

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 もちろん、闇の中ではその姿は見えないが、水からその存在を伝えられたのだ。海の中ですれ違う存在としたら魚だろう。また、感覚的にはかなりの大物の様だった。  深い思考の底から押し上げられた気分であった。  やはりここは深海であり、まだ生前の世界を彷徨っている状態なんだと悟った。 そして、しばらく進んでいくとまた新たな発見があった。  壁があった。岩の壁。  上ることはできなかった。体が重く、浮き上がることができない。そのまま壁をに触れながら右周りに進んでいく。  しかし、それ以降新たな発見はなかった。この場所ではたまに魚とすれ違いいくら進んでも左側に壁がある。離れて壁から逆方向に進んでいくと、いずれまた壁に当る。  つまりそれがこの場所のすべてであった。深海の穴。人一人にしては広いが、広大な海の中の一部としてみれば毛穴にも満たない小さな凹みのの様な穴の中。それは自分の死の果てにたどり着いた場所。  死んでも、何も変わらないんだなと灰原は初めて死に絶望した。  生きていた頃も同じだ。世界の広さを知りながらも決まった生活圏の中で細々と暮らし、自分の居場所の狭さを嘆き。またその狭さが自分の人生のすべてだと感じていた。  この暗闇の中には、他者との交流は一切ない。労働もなく。そもそも生きるということがない。  でもこの深海に灰原はいる。  一体どれほど時間がたったのか灰原にはわからない。魚が泳ぎまわっていることから時間が流れているような気はしていた。彼の心境にも移ろいが生まれていることからも、時間の概念があることは量ることができる。  生きていたころは死が魅力的であった。生きづらい世界からの脱却は強く願っていることであり、またやり直したいという願望が死に強く結びついていた。  しかし、今。そのやり直したいという思いに変化があった。死なずに人生を続けたかった。まだ、挽回の機会はいくらでもあった。希望はしっかりと未来に存在していた。  この深海の様な何もない世界ではなかった。まだ生きたかった。もう一度、生きてみたかった。  死に魅了されていた灰原は、いつしか生を渇望していた。  深海で目覚めた最初の頃は、彼の心はそれでもまだ地上にあった。しかし、次第に深海の闇に染まっていき。遅れて死の恐怖や絶望が彼を蝕んだのだった。  わががままだと彼は思わなかった。生きるものが死を目指し、死ぬのもが生を求める。それは、当然のことであると。  天上から光が降り注いだのはその時だった。  一瞬にして、視界が白に染まっていく。その時、また魚が彼のを横切って行った。しかり、そこではじめて彼はそれははっきりと見た。  それは、魚ではなく灰原の死体だった。死体は遠くに流れていき次第に光の中に飲み込まれていった。
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