深海の泥

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 目覚めたのは自室のベッドの上であった。  彼は深海の中で意識するよりも果てしなく多くの時間を過ごしていた。しかし、その瞬間そのすべてが夢となり朽ち果てていた。  彼は夢の内容をうっすらと覚えていたがそれは夢でしかなかった。しかし、死というものに対する恐怖はしっかりのそこにあった。  目覚めたのは彼が自殺を決意した日の朝だった。  同じ日を再現するように、彼は外出の支度をした。  本を買いに行こうと街へ向かう電車の中、彼は「生きるのに理由はいらない」というキャッチコピーの書かれた看板を見たが、特に興味を抱くことはなく、瞬きの間にその存在について忘れていた。  彼がその日に死ぬことはなかった。  しかし、その1ヶ月後、灰原はまた夜の海にその身を沈めていた。  仕事で些細なミスをしてしまい、叱責を受けた翌日。職場に出勤せずに街をぶらぶらと歩きまわり、日が傾いたころに行き詰まったと絶望した末の自殺だった。  灰原は大学中退後、4年間のフリーター生活を送っていたが、サボりや遅刻の常習犯だった。1年続いた仕事はなかった。一から就活を初めて、何とか正社員として雇用されたとき、いつかはサボってしまうだろうと自分でもわかっていた。  それでも、無欠勤無遅刻を守り続けてきた。それが、たった1回の単純なミスで崩れ去ってしまった。そんな自分が、これからもこの社会で生きていくことが不可能なように思えた。そうして、またやり直したいと思ってしまったのだ。  彼は決して死にたがりの人間ではない。すぐに死んでしまうか弱い生物ではない。でも、誰にでもあるような単純な絶望で暗い海へ向かうのだ。  深海で目覚めた彼は前回の死をすべて覚えていた。しかし、改めて人生を送ったことにより「やはり、自分はあの世界では生きていけないんだ」と実感していた。  しかし、また死後の世界。この暗い深海に絶望するまでに時間はそうはかからなかった。  そうして彼はまた、全てを夢にして朝に目覚めた。当たり前のように職場へ向かったのだった。昨日のミスを引きずりながら、新たなミスに怯えながら。
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