2023年6月(1)

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*  風間は古代邸の入り口から長い廊下を渡り、両扉を開け、応接室に入った。しかし先ほどまでいたはずの渚の姿は見つからず、三人分の空のカップとグラスだけがテーブルに置かれている。嫌な予感がした風間は、首を回して辺りを見回した。サンルームへと続く出窓の奥、日よけがわりに置いてある衝立(ついたて)のそばに、投げ出された足が見えた。  頭が真っ白になる。 「渚!」  衝立の裏へ回ると、渚はその場に倒れながら、一目で正常ではないとわかるような荒い息をしてた。 「はっ…はっ……あ…」  その音を聞いただけで、風間の全身に黒く冷たい震えが走る。  駆け寄って渚の軽すぎる体を抱え上げた。 「渚……渚!」 「……あ……血が……」  辛くも止まらぬ息を吐きながら、血の気の失せた顔をした渚が、風間の胸元に強くしがみついた。 「風間さんっ……」 「大丈夫、ここにいるよ」 「……怖い……あの時、私……何が……」  風間は華奢な肩に手を回し、胸に押し当て、抱き込む。もう片方の手で渚の頭を押さえた。 「思い出さなくていい」 「こ、殺され……」 「思い出すな」  渚の位置からは決して見えない彼の目が、さきの刑事たちに対する憎悪に滲んだ。  『頭部のない死体』事件があって以降、筒木肇という名前を聞くと、渚はたびたびパニックに襲われるようになった。今日の発作は、渚の心の用意ができていないうちに安田がその名を口に出したせいだろう。 「大丈夫だ……大丈夫」  何度もそう言い聞かせ、渚をなだめる。同時に風間は、自分自身にも暗示をかけているような気分になった。何が大丈夫なのかわからない。だけど大丈夫なのだ、と。聞いているほうが苦しくなりそうな激しい呼吸が、風間の腕の中で、徐々に正常な速度を取り戻していく。  やがて渚は過去の痛みに耐え抜き、全身から力を抜いて落ち着いた呼吸を取り戻した。  風間はこわごわ抱擁を解いた。その腕に寄りかかる渚はいっそう白い顔をして、額を手で押さえながら弱々しく笑う。 「……いやになっちゃいますね、風間さん」  こちらを気遣い、なお本音を含んだ泣き笑いのような声──風間は渚のたった一文に胸を締め付けられた。 「何か思い出した?」  渚はゆるく首を横に振った。 「何も。頭痛を置き土産にされただけです」 「……そう。少し横になったほうがいい。立てる?」  風間は渚の手を掴み、肩を支えた。立ち上がると、応接室から廊下へ出る。 「こんなことになるとわかっていながら刑事さんを屋敷に招き入れたこと、怒ってますよね」  渚の弱々しい声に向かって、風間は引きつった顔を貼り付けた。本人としては笑いかけているつもりだが、見た人のほとんどが緊張していると勘違いする表情だ。 「渚のしたいようにすればいいさ」  寝室のある二階へと、階段を一段、一段、ゆっくりと踏みしめる。 「安田さんの腕、風間さんも見ましたか? ロレックスをつけているほう。半年前から元倉さんに付いて仕事をしているなら、ずいぶん外回りをしたでしょう。なのに腕時計の下の肌は、日焼けているはずの周囲の肌の色と違いがありませんでしたね」 「きっとロレックスは元倉の前でだけ着けていて、他所(よそ)では外しているんだろう。本人曰く〝お気に入り〟なのに」
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