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「現場に出たことがなさそうなシワの少ないスーツ、元倉さんの前でだけ見せるロレックス。なのに、手帳はかなり使い込まれていました」
打てば響く会話をしながら、二人は踊り場を通り過ぎ、再び階段に足をかける。
「彼、お金持ちの新人キャリア組のふりをしていますが、組織に長らく身を置いている人ですね」
「公安部か、警察庁か……とにかく別の事件を捜査するため警視庁に潜り込んでいるんだろうね」
階段を登り切って廊下を右に曲がった。
「だけど元倉さんは、安田さんの正体に薄々気づいているんじゃないかな」
「そのようですね。あえて知らないふりをして、部下の好きなようにさせているんでしょう」
渚は頭痛に顔を歪ませながらも、うっすらと微笑んだ。
「元倉さんたちは、他の刑事たちとは違いましたね」
渚の言いたいことは風間にもわかった。
今まで渚に捜査依頼をしにくる刑事たちは、たいてい形式的か、投げやりだ。上からの指示で仕方なく来てやっているが現場は素人など求めていない、という態度を隠さない。
渚の容姿を下卑た視線で舐めて『お嬢さん』などとセクハラまがいにからかい、むしろそうすることを主目的に訪問してくる者もいた。こちらの意向を無視していきなり捜査資料を広げる者もいる。
そんな刑事たちを風間が軒並み出禁にした結果、彼らが来たのだろう。
「元倉さんは優秀なんでしょうね。戦略的で、それに……親身になってくれました」
「妻と娘がいるそうだ」
「ああ……」
寝室のドアを風間が開き、その場で倒れこみそうになる渚の肩を抱き直しながら、中に入った。渚をベッドに腰掛けさせる。
こうして来客の観察をするのは二人の数少ないコミュニケーションであり、渚が幼い頃からずっと続けてきた遊びの一つだった。何はともあれそのおかげで、忌まわしい筒木肇の記憶から、渚の注意をそらすことはできた。風間にとってはその事実以上に、感じうるものがない。
渚は先ほどのパニックで体力を消耗しきってしまったようだ。スーツのジャケットを脱ぐまではできたが、残りは風間にまかせる、という意思表示のためか、ベッドへ上半身を倒した。風間は無言でワードローブを開き、渚の部屋着を見繕う。
「……髪の毛、また伸びたね。いっそ美容師でも呼んでみるか」
「風間さんが手入れしてくれるでしょう?」
「髪も服も、毎日家族でもない男にベタベタ触られるのもいやだろう」
渚から返事は来ず、そのまま沈黙が流れた。服を手にして枕元に寄ると、身を投げ出した渚のシャツに触れる。ボタンを上から外していった。
「本当にすまない。ぼくと先生があの男を捕まえていたら、こんな苦行を強いることもなかった」
渚は事件があって以降、筒木肇の手によって人質にされた恐怖から、さきのような発作を起こしては、筒木がいるかもしれない外の世界を恐れて幽閉じみた生活を送っていた。
気を張っていれば外に出られないわけではない。だが風間がおらず一人取り残されると渚はパニックを引き起こすので、それなら最初から外に出ないほうがいいという結論になる。風間も強くそれを推奨し全面的に世話しているので、渚の生活は言うなれば、自分の家を幽閉塔に見立てた消極的幽閉というふうだ。
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