2023年6月(5)

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 仰向けになった風間を見下ろす幸崎の顔には、次の獲物を狙う醜悪な笑みが浮かんでいる。まだ終わっていない。まだ渚を殺せていない。そんな顔だ。  倒れた風間は腹部に視線を下ろし、自分の腹に突き刺さる凶器を見た。そして、レシプロソーを持つ幸崎の手首を執念で掴む。  だが、満身創痍の力では無意味な抵抗だった。 「やめて!」つんざくような悲鳴がした。  凹凸を持ったノコギリの刃が、腹部から引き抜かれた。自分の腹の肉が裂かれて血が吹き出るさまを風間は目の当たりにする。  同時に、薄れていく視界の先で幸崎が警察に取り押さえられた。それでもなお渚に向かって走ろうとする男を、安田が地面に押さえつける。抵抗する幸崎はレシプロソーを振るった。安田は手首のロレックスで刃を防ぐと、幸崎の腕を思い切りひねり上げた。絞め技で握力を失った幸崎の手から凶器が落ちる。安田は殺人鬼の背中に腕を回し、手錠に繋いだ。 「確保ッ!」  風間がまともに周囲を見られたのはそこまでだった。 「風間さんっ、風間さん……!」  渚の声がする。血の止まらない腹部を強い力で圧迫する何者かがいる。  痛いと風間はつぶやこうとして、実際は引きつった呼吸しか出てこない。「いやっ」「やだ」と連呼する声が、いつか聞いた小さな渚の声と重なる。  白い手に頬が包み込まれて、ぶれつつある輪郭が必死に呼びかけてきた。 「だめ……風間さん、こっち見て、お願い」  ──小さな渚。  今すぐ触れて抱きしめたかった。大丈夫だと背中をさすって、いつもそばにいるよと安心させたかった。そばにいてくれてありがとうと言いたかった。  愛おしい。  気づくのが遅すぎる。  いつでも手を伸ばせたはずなのに。今、手を伸ばそうとするのに、届かない。  ──ぼくはいつもそうだ。  渚は寂しがり屋なのに、肝心なところでいつも自分は間違えるのだと、風間はうっすらと笑った。 「愛してるから、だから、お願い……やだ……ひとりにしないでっ……」  風間の伸ばした手は、渚の頬をするりとなでて、落ちた。  死ぬのだなと思った。 「ご、め……」  まぶたを開けていられず、ふっと意識が途切れた。
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