****年*月

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 ぼんやりと目を覚ました風間は、頭をもたげた。どうやらテーブルの上で寝ていたようだ。何度かまばたきをすると、手元に湯気の立たないコーヒーのカップが見えた。  正面には、手を組んでこちらを見据える精悍な顔つきがある。 「先生……?」  紛れもなく、風間の目の前にいるのは古代善だった。  風間は空港のコーヒーチェーン店の中にいた。妻を亡くした善が渚と一緒に帰国した時入った店だ。見晴らしのための窓辺には、幼い渚が両手を窓にくっつけて、滑走路を凝視していた。  ──夢……? 「先生……ぼくは寝ていたんでしょうか?」  善は微笑むだけで答えなかった。  店内は異様だった。客はおろか店員すら一人もおらず、滑走路には飛行機一機、トラクター一台もない。店内音楽もなく、周囲は空港というよりも朝方の白い病棟のようだった。  正面にいる善は、組んだ手の上に顎を乗せてこちらに目を細めるだけで、何も言わない。彼のそばに置いてあるコーヒーもまた、まったく湯気を立ちのぼらせていなかった。  その目と目が合った時、風間の胸が暴れだしそうになった。 「そう、ですか」  善はもう十三年も前に死んでいる。 「こっちが夢なんですね」  すべてが夢であればいいのにと思った。 「先生は、ぼくを迎えにいらしたんですか?」  善は答えなかった。 「ははっ……」風間は頭をかきむしって、呻き、テーブルに突っぷす。「どうして……っ!」  ──何も言えず、何も成し遂げられないまま……。 「好きでした、先生」  どうして生きている間に好きだと言わなかったのだろう。 「せんせ……っ」  うずくまり、声を殺して泣く。  夢の中ですら、胸が詰まって、叫ぶことができなかった。  妻が死んだと聞かされた時。空港に迎えに行った時。筒木を殺した姿を見た時。最後に言葉を交わした時。  一度でも、たとえ間違いでも、この不器用な気持ちを善に伝えていたら、彼は自殺を思いとどまっただろうか。  もしかしたら、はいと頷いてくれただろうか。  ──いや、違う。 「あなたは完璧にぼくの気持ちを理解して、だけどすまないと言って、静かに笑うのでしょう? それでもよかったんです。たとえ拒絶されても、それでよかった。ただこの気持ちを伝えたかったんです。でも臆病だから、言えなくて……先生が生きているうちも、黙っているままで……先生がいなくなるなんて考えてもみなかった。喪ってから、言えばよかったなんて後悔して……ばかですよね……ばかだって叱ってください……」  善は答えなかった。 「ぼくを選ばなくていいから、生きていて欲しかった……!」
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