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愚痴を聞かされるのが嫌いだ。
亡くなった祖母から言われたことがある。
『自分の機嫌は自分でとれ、他人に甘えるな』
私はその教えを守ってきた。
嫌な目にあっても誰にも漏らさず、自分の中に押し殺してきた。
今日も私は頑張った。
心地よい自分の居場所を作った。
みんなそうすればいいのにと思う。
ヘトヘトだった。
休日の一日が丸潰れだ。
コインランドリーから帰ってきた私は、まだ生乾きのタオルや衣服をベランダに干した。
一度に大量に詰め込みすぎた。
滅多に使わないから分量がわからなかったのだ。
洗濯物を干していたら、大きな満月に手が止まった。
月など見上げるのは久しぶりだ。
気持ちが一気に軽くなる。
顔が自然とほころぶ。
——幸せだ——
だが、しばらく見惚れていたのがいけなかった。
突然、隣のベランダから声がした。
「こんな時間に洗濯したの?」
女が隔板から身を乗り出して、こっちを見ている。
年は六十前後くらい。
私の母親と同世代の痩せた女。
どうもと、私は頭を下げた。
「今日も仕事だったの? 遅くまで大変ね」
私は早く部屋に戻りたかった。
もうすぐ推しのイベントが始まる。
頭を下げて、部屋の中に入ろうとしたら
「うちのヒロがね」
と、女がまた声をかけてきた。
「暴れんのよ」
立ち止まって振り返った。
女が腕を見せてくる。
女の腕は、古いのや新しいのや切り傷だらけだ。
「普段はおとなしい子なのに、満月になると私に刃向かうの。男の生理かしら?」
まずいと思った。
このまま話を聞いて、厄介事に巻き込まれたくない。
警察に相談したらどうかと言いたいが、そうなると私もあれこれきかれそうだ。
「すごい難産だったのよ」
女は自分がいかに苦労して息子を産んだか、育てたかを話し始めた。
早くこの場から逃げたかったが、少しこの人が可哀想になってきた。
私の母のように他に話す相手がいないのかもしれない。
私も生身の人と話すのは久しぶりだ。
昨今の事情でリモートワークが始まり、職場の人と会話する機会は減った。
支払いもほとんどカード。会計の時に一万円札を取り出して、『大きくてすみません』とか『細かいお金、あります』と小銭を漁ることもなくなった。
でも寂しいとは思わない。
私にはSNSで繋がっている友人たちがいる。同じ推しを愛でる仲間たちだ。
楽しく充実したリアルが私にはある。
母やこの人とは違う。
私の母は友人もいない、趣味もない人だった。
いつもお金がないとこぼし、芸能ゴシップが大好き。
不満だらけの日々を送りながら、彼氏もいず二次元キャラに入れ込む私をバカにした。
自分で自分を幸せにしてあげようと、努力しない女だった。
「満月が近づくとね、息子を殺しちゃおうかな、なんて思うのよ」
突然そう言うと、女は顔を引っ込めた。
さすがに気になり、私は急いで隣を覗いた。
女はタバコに火をつけている。
「吸う?」
と、タバコを勧めてきた。
結構ですと、私は身をひいて部屋に入ろうとしたが、また声をかけられた。
「あなた、いい子ね」
振り返ると、女がタバコを手にしたままこっちを見ている。
「洗濯物の干し方、丁寧だし、几帳面なのね」
笑っている。
「向こう隣のおじさん、私がベランダでタバコ吸ってたら、臭いがこっちにやってくるから止めろって、怒鳴ってきたのよ」
あなたはそういうこと言わないのねと、女はまた笑った。
人から笑いかけられたのは、いつ以来だろう。
「また、話ししようよ」
お隣さんは姿を消した。
サッシの扉が開き、閉まる音がした。
私も部屋に入った。
ほんのちょっとだけ、胸があったかい。
母は亡くなった。もう会えない。
適度な距離でいられるなら、またお隣さんとおしゃべりしてもいい。
私が不快にならない程度のちょうどいい距離。
それが何より大事だ。
ずいぶん時間を取られてしまった。
もうすぐイベントが始まる。
私は服を脱ぎながら浴室に駆け込んだ。
身をきれいにしてから推しに会う。
これは私の儀式だ。
私が住んでいるのは古い団地。
浴室内に洗濯機が置いてある。
中には苦労して細かくした母親が入っている。
あれをどうするかは、後でゆっくり考えよう。
まずはイベントだ。
急いで体を拭いてスマホを手にして、気がついた。
隣の部屋との間の壁を見る。
息子が暴れると言っていたが、私は今日、作業中に一度も隣から大きな物音を聞いていない。
さてはあの人も、ちゃんと自分の幸福を自分の手で掴んだのか。
やるじゃん!
今度会ったら、名前ぐらい聞こう。
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