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Last Case. ケンジ
「おはようございます……」
与えられた安アパートから自転車に乗って、30分。通勤・通学の人波が引いた駅前で朝マックを流し込み、繁華街の外れにある雑居ビルの4階に出社する。ロッカールームで制服に着替えて事務所に入ると、奥のソファーからダークグレーのスーツに度なし眼鏡をかけた“エイトさん”が立ち上がった。
「今日は、お前か、ケンジ」
「はい、よろしくお願いします」
“名前”しか知らない社員達の多くは、俺のような素人上がりだ。けれど、中には本社の人間もいて、エイトさんは多分、本社の人だ。だから、必要最低限しか会話はしない。
「オラ、行くぞ!」
「はいっ」
彼に続いて、エレベーターに乗る。扉が開いた途端、自分の姿が鏡に映り、急いで背を向ける。地下駐車場へと降りていく。まるで奈落の底に落ちていく錯覚――いや、錯覚じゃない。この瞬間が堪らなく嫌いだ。
こんな筈じゃなかった。
きっかけは、会社の先輩に誘われて、軽い気持ちで始めた競馬だった。大きなレースでビギナーズラックに恵まれたことに味をしめて……僅かな貯金を切り崩し、ボーナスを注ぎ込んで、消費者金融に手をつけた。月々の返済に行き詰まり、思い悩んだ俺は、ネットの中に数多散らばる“闇のドア”の1つを叩いてしまった。
彼らは、会社の休日にだけ“簡単なアルバイト”をこなせば、借金を全額立て替えてくれると言った。契約のために、俺は自分と親の個人情報を提出した。
アルバイトの内容は、通販会社の電話営業と説明されたが、実態はオレオレ詐欺の“かけ子”だった。犯罪だと分かっていても、身内をタテに脅されて――誰にも相談出来なかった。
休日を潰す二重生活の無理がたたり、本業でミスが連発して、会社をクビになった。本末転倒だ。
スモークを貼ったワンボックスカーに乗り込むと、既に運転手の若い男が待機していて、滑らかに発車した。
街の景色が流れていく。隔てるのは、ガラス1枚なのに――俺は、随分遠くまで来てしまった。
ピンポーン
「あっ、はい、今出ます!」
約束の時刻から1分遅れて、俺はインターホンのボタンを押した。待ち構えていたように、年輩の女性の声が返る。
「ああ、お待ちしておりました」
ドアの隙間から、70代半ばと覚しき白髪の老婦人が現れた。人の良さそうなふくよかな顔だが、瞳に緊張の色が差している。インターホンの画像で確認していても、この制服を前にすれば大抵の人はこんな反応を示すものだ。
「K警察署のスガノ巡査です」
マニュアル通り、身分証明書を提示する。そこには、警察官の制服を着て真面目な表情をした俺の写真が付いている。
「昨日、担当の者が話したと思いますが」
「はいはい、キャッシュカードと暗証番号ですね」
老婦人は、手にしていたバッグから、銀行のキャッシュカードを3枚取り出した。それぞれのカードには、ご丁寧に4桁の数字を書いた紙片をテープで貼ってある。
「署で防犯登録をして、1時間後にお持ちします」
「はい、すみません。わざわざ、ご苦労様です」
渡されたカードを茶封筒に入れる。“預り証”を代わりに手渡すと、彼女は拝むように頭を下げた。
いつも通り。首尾良く門を出て、エイトさん達の待つ車まで足早に戻る。
「お疲れーッス」
運転手が肩越しに振り返り、ドアを閉めようとした瞬間。
「オイッ、早く車出せっ!」
――ガコン
エイトさんが怒鳴るのと、後ろ手に閉めかけたスライドドアが引っ掛かるのが、同時だった。
「馬鹿野郎、出せって!!」
「で、でも前にサツが!」
「はい、君達、大人しく降りてくれるかな? 警察官だ、本物の!」
腕を掴まれて、俺は中腰のまま固まった。
「チッ! いいから、出しやがれ!!」
「ぐぶっ?! うわわっ!」
エイトさんは迷わずに、両足で俺を蹴った。俺と警察官が車外に転がり出ると、半開きのドアのまま車は急発進して、正面の警察官を跳ね飛ばした。タイヤを鳴らして角を曲がったものの――程なく、急金切り声のようなブレーキ音に続いて、派手な衝突音が住宅街に響いた。
やっと、終わった――。
俺は泣きながら、笑っていた。
【了】
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