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Case.1 ケンジ
プルルルルル……プルルルルル……
ディスプレイの画面が明るい黄緑色に変わり、その中に見知らぬ番号が表示されている。
「……はい、イガワです」
『あっ、母さん? 俺だけど』
「えっ……?」
『俺だよ、俺』
「あ……ケンジかい?」
『そうだよ、ケンジ』
「だって、あんた、声が違うし」
『うん、ちょっと風邪ひいちゃってさぁ』
「それに、電話機に登録している番号と違うじゃないの」
『うん、それで電話したんだよ。俺、スマホ変えて番号も変わったんだ』
「あら、そうなの」
『今度からこの番号になるから、登録しておいて』
「分かったわ。ところであんた、今度の連休は帰ってくるの?」
『うーん……今、仕事が忙しいからなぁ。母さん、俺が帰らないと寂しい?』
「そりゃあね。お父さんは福岡から滅多に帰らないし、アリサもたまにしか来ないし。1人だと、話し相手がいないのよ」
『そうかぁ。それじゃ、休み取れるか会社に訊いてみるよ』
「あら、いいのかい」
『うん。また、近いうちに電話するよ。それじゃあ』
「ええ。身体に気をつけてね」
東京の大学に進学した息子は、そのまま就職した。実家を離れて10年近く経つ。あっという間だ。忙しさを理由に、正月の帰省すら久しい息子からの電話。元気な声が聞けたことに、私は安堵と喜びを噛みしめていた。
都会できちんと働いてくれていることは誇らしい。けれども、寂しいときも多い。幾つになっても、子どもは子ども。もし帰ってきたら、あの子の好きなハンバーグでも作ってあげようかしら。
1週間後――。
プルルルルル……プルルルルル……
ディスプレイの画面が明るい黄緑色に変わる――表示は「イガワケンジ」。
「はい、イガワです。どうしたの、こんな時間に」
平日、金曜日の午前11時。お昼休みには、まだ早い気がするけれど……この前話した連休のことだろうか。膨らんだ期待に、普段より早口で高い声になる。
『イガワケンジ君のお母様ですか?』
「え? はい、そうですが……?」
ディスプレイの表示は、確かに息子の名前。なのに、受話器の向こうから届いた低い男の声には、聞き覚えがない。
『私は、イガワ君の上司で、コバヤシと申します』
落ち着いた声の相手は、重々しい雰囲気を纏っている。上司とはいえ、なぜ本人ではない人が息子のスマホからかけてきたのか?
「あ……む、息子がお世話になっております……」
『実は、この度、イガワ君が会社の金を紛失しましてね』
「えっ……えええっ!?」
『800万円の小切手です。彼が担当している得意先から預かってきたのですが、途中で立ち寄った銀行で“落としたことに気がついた”と言うのです』
「は、800……! 大変なことを……」
『か、母さん、ごめんっ……』
「ケンジ! あんた、なんてことを……」
受話器の向こうで、息子は子どものように泣きじゃくっている。全身の血が凍ったように、身体が震えた。
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