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『会社として、紛失届を出しますが……このままでは、彼は懲戒免職になります』
「そ、そんな……!」
『とりあえず、今日中に会社の口座に800万円が入れば、彼を救うことが出来ます。私も協力しますが、イガワ君のご家族で、出来るだけご用意出来ませんか』
「え、でも、800万なんて大金は……」
『幾らなら、ありますか? 私も彼を助けたいんです!』
『母さん……ごめん……ごめんっ!』
ケンジは、コバヤシさんから奪うようにして、会話に入ってきた。涙声で、何度も何度も謝っている。
『お母様。時間がありません。15時までに入金しないと、彼はクビに――』
「ご、500万円、あります……! でも、それ以上は」
『分かりました。私が残りの300万円を立て替えましょう!』
「あ、ありがとうございます!」
『金は、ご自宅にありますか? それとも、銀行ですか?』
「銀行です」
『では、これから使いの者を向かわせますので、銀行に同行してください。これはあくまでも内緒の行動ですから、決して口外しませんように。いいですね?』
「はい、分かりました。お手数おかけします」
『母さん……ありがとう!』
「いいのよ。ちゃんと、コバヤシさんに御礼言いなさいね」
息子の落ち度なのに、大金を立て替えてまで救おうとしてくれる。こんな頼もしい上司を持って、彼は幸せだ。こんな良い上司の元で働けるのに、その職場を辞めさせてなるものか……!
通話の切れた受話器を置くと、私は頬をパンと叩いて両足に力を入れた。
「……しっかりしなくちゃ」
まだ心臓がドキドキしているけれど、奮い立たせて和室に向かう。タンスの上から2番目の引き出しに入れた封筒を掴む。老後のためにコツコツ蓄えてきた500万を預けている貯金通帳と印鑑が、この中にある。単身赴任中の夫には、落ち着いたら私から話そう。
ピンポーン
15分後、コバヤシさんの使いだという女性が我が家を訪れた。紺のパンツスーツを隙なく着こなした、30歳くらいのショートカットの女性だ。彼女が待たせていたタクシーに乗り、銀行の50m程手前で降りた。
「少し歩いて、気持ちを落ち着かせましょう」
女性は優しく微笑んで、私を支えるように寄り添ってくれた。
「すみません……ありがとう」
こんな大変な時にも、初対面の私を気遣ってくれるなんて。本当に.息子の周りで働いている人は、良い人ばかりだ。
30分後、解約した500万円を持って、駅前のコンビニに行った。直接会社の口座に振り込むと、裏工作の記録が残ってしまい、息子のミスが発覚してしまうらしい。私は彼女の指示に従って、5ヶ所のコンビニATMから、100万円ずつ海外の個人口座に振り込んだ。5分後、彼女のスマホに連絡があり、上手く送金出来たことが分かった。彼女は事後処理があるからと、慌ただしく会社に戻って行った。私は何度も頭を下げて彼女を見送り、電車に揺られて家に帰った。
リビングのソファーに腰を下ろした途端、どっと全身から力が抜けた。これでケンジが助かったという安堵感と、大変な危機を乗り越えたという達成感のようなもの、そして長年蓄えてきた大金があっという間に消えた喪失感で、ポロポロと涙が出た。
「……お昼、まだ、だったわねぇ」
鼻をかんで、壁の時計に目を向ける。間もなく15時。きっと、ケンジから「大丈夫」という感謝の報告がくるだろう。
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