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Case.2 アリサ
今春、勤務先の中学校で、ダンナが卓球部の副顧問になった。合宿だの遠征だの家を空けることが増えた。今週末の三連休も、地区予選に向けての強化合宿だとかで、やっぱり不在になった。月曜の夕方には大量の洗濯物と共に帰ってくるので、それまではコッチもココロの洗濯だ。あたしは娘のユイを連れて、久しぶりに上げ膳下げ膳の実家に逗留することにした。
「それで? ケンジ兄から、なんの連絡もないの?」
一頻りはしゃぎ回って電池の切れたユイがお昼寝している間、ママの入れてくれたほうじ茶を啜りながら、あたしが持参した豆大福を齧る。五福堂の大福は、部活帰りによく食べたっけ。地元を離れてからは、わざわざ買いにくることも出来なかったけれど、食べたかったのよね、これ。
「そうなの。携帯にかけても繋がらなくて……かといって、あんな事があった後だから、会社にかけるのも気が引けるし」
ママは思案気に小首を傾げ、同じく豆大福をパクリと頬張る。
「だけど、もう1ヶ月も経つんでしょ? 200万も借りておいて、おかしいわよ」
ママの口から飛び出した相談とも愚痴ともつかないトンデモ話に、あたしは戸惑いながら憤慨した。2つ年上の兄が、会社の小切手を無くして、それを隠すためにママからお金を借りたそうだ。なのに、それ切り音沙汰がないと言う。
「せめて無事に済んだのかどうかだけでも教えて欲しいんだけど……マイペースな所がある子だからねぇ」
なんだかんだ言いながら、昔からママは兄に甘い。あたしには、やりたかった部活動も、県外への進学も、二言目には「女の子なんだから」という古い価値観で押さえつけてきた。兄なら多少無茶な希望を口にしても許されたのに。
「あたしからも連絡してみようか?」
「そうかい? 悪いわねぇ」
仕方なしに彼女が期待する言葉を口にすれば、躊躇いの欠片もなく即答が返る。取って付けたような「悪いわね」は感謝じゃなくて、依頼のダメ押しだ。そうしてやんわりと、いつも彼女の望む行動をあたしは取らされてきた。自分の望みを聞いてもらうために。
「ところで、あんたもなにか話があったんじゃないのかい?」
ホッとした表情を浮かべてから、ママは湯呑みに口をつける。
「あ、うん……ユイも来年から幼稚園でしょ。なにかとお金がかかるから、あたしも仕事しようと思っているの」
やっと回ってきた“あたしの番”。でも、どこから話していいものやら。
「あら。ユキヤさんの収入で足りないの? 公務員じゃない」
「そんなに多くないよ。車を買い換えたばかりだし、マンションのローンもあるし」
公務員の給料が高いというのは、もはや都市伝説だ。昨今は「民間との格差を無くす」なんて傍迷惑な御上の意向で、手当てがあれこれカットされたから、決して暮らしに余裕はない。その上、部活の副顧問を引き受けたら、洗濯物がドバーッと増えて、水道代と電気代が跳ね上がったのには本当に参った。
「だけど仕事って、ユイちゃんの送り迎えはどうするの」
「うん。だから、自宅で始められる仕事を選んだのね」
2杯目のほうじ茶は、セルフサービスだ。急須を引き寄せ、卓上の電気ポッドからお湯を注ぐ。
「パソコンと専用ソフトを買ったら、仕事の依頼が来るの。簡単なデータ入力だから、家事の合間に出来るし。初心者でも、ひと月で10万、半年後には30万くらい稼げるんだって」
「ええ? 凄いわねぇ」
「それで先々月申し込んで、専用ソフトで練習しているんだけど……」
ほうじ茶をいれる手元に意識を向けるフリをして、あたしは言葉を切る。水音が沈黙を引き継いだ。
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