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◆プロローグ
見上げるマンションは高すぎて、途中の階層までしか見えない。
それでも私はあるはずの最上階に向かって「さようなら」と呟いた。
いずれこうなる日が来る。
ここに来た時もその心づもりでいたし、目的さえ果たせれば、その日がいつだって構わなかった。
それなのに、鼻の奥がツンと痛む。
耐えろと言い聞かせながらぐっと歯を食いしばり、エントランスに背を向けた。
緩いカーブを描く敷石の上をガラガラと音を立てながら歩く私に、マンションの住人が戸惑うような眼差しを送り、通り過ぎていく。
スーツケースを引く私の服装は、水色のシャツにグレーのパンツスーツ。
足元は歩きやすい黒革のパンプス。髪はひとつにまとめてシンプルだから見た目はマンションの住人というより、保険の外交に訪れたような感じ。
それなのにスーツケースを持っているという組み合わせが、どこかちぐはぐに見えるのだろう。
昨日までの私はこうじゃない。
ブランド物のワンピースに身を包み、ピンヒールの華奢な靴を履いて、バッグだって小さなお財布とスマートフォンがやっと入るくらいのミニバッグで出かけたりしていた。
このラグジュアリーなマンションの住人はハイクラスの住人ばかりだし、ましてや最上階の住人だった私がそういう身なりでいることは、もはや義務のようなものだったから。
でもそんな生活は昨日でおしまい。
私は本来の私に戻る
このマンションに来たのはひと月前だった。
あの日はまだアプローチにある枝垂れ桜がまだピンク色の花をつけていたし、肌寒い日でスプリングコートを羽織っていた。
けれど、もうコートはいらない。
頬を伝う風は冷たくないし、日を追うごとに暖かくなるばかり。
私の明日も同じ。今日は辛くてもきっと大丈夫。明日が無理でも来月にはきっと笑っているだろう。
通りに出て、最後にもう一度マンションを振り返った。
今度は見えた最上階に思いを馳せる。
私が残したメモを見て、彼は何と思うだろう。
ホッとするのかな?
ほんの少しくらいは、寂しいって思ってくれるといいけれど。
バイバイ、私の旦那様。元気でね。
私、あなたが好きでした。
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