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空気は塩辛い。全力で走り抜けたあとはいつもそう感じる。
レース出場者全員が位置に着き、会場の空気はピン、と張り詰める。
スターティングブロックに足をかけ、地面にそっと指を下ろすと、地面が太陽から蓄えた熱がゆっくりと伝わってくる。あたしの心拍数と呼吸は正常。神経が鋭敏になり、両隣の走者の呼吸音と心臓の音さえ聞こえてくるような気がする。
あたしの肌を直接焦がす日差し、観客やほかの選手からの視線、出走前の緊張感が、あたしの中で熱と力をたぎらせていく。
アナウンスの「ready」の音声で一気に空気が動かなくなった。あたしはこの一瞬がたまらなく好きだ。たった一〇〇メートルをだれよりも速く走り抜けるために何百日と練習をし、それをぶつける。真剣に。それだけを。
号砲とともにあたしは一気に先頭に躍り出た。地面を蹴る足に、地面から確かな反作用を感じ、それを推進力にしていく。目線はゴールだけを見据える。夏の空気は湿度が高いとはいえ、風を一身に受ける目は乾燥する。体内の酸素も薄くなり、視界は徐々に狭まっていく。レース前半は意識して振っていた両腕も感覚がなくなっていて、今どういうふうに動いているのかすら分からない。乳酸がたまり全身の筋肉が硬直し自由自在に操れなくなっていく。それでもやめようとは思わない。もっと痛くていい、もっと苦しくていい。一緒に走っている人たちより、いや日本中のだれよりもあたしのほうが速ければ、それで構わない。
ほんの少しだけ死を意識した瞬間ゴールし、ふらふらとコースから外れそのまま大の字に倒れ込んだ。必死に酸素をかき集め、死にかけていた脳と体を生き返らせていく。あたしの心臓が激しく脈打ち、血液が循環しているのが分かる。その勢いだけであたしの体は上下左右に小刻みに動いてしまう。
目を潤すためか勝手に涙が溢れ、汗と混じる。
生きている気がする。この塩辛い空気を吸うたびにいつもそう思う。
起き上がる頃にはきっとあたしの汗がくっきりと地面に人型をつくり、寝転がって動けないでいるあたしをみっともないと笑う人もいるだろう。でも、どうでもいい。だれよりも速く、空っぽになるまで出し尽くした今はどうでもいい。汗も涙も痛みも歓声も勝利も全部あたしのものだ。
あたしはそれを愛していた、間違いなく。
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