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 春になりあたしは井澄高校に進学した。理由は単純で中学の知り合いがだれもいなかったからだ。東京の私立高校で共学、偏差値五〇、特段強い運動部もない、まさに平凡を絵に描いたような高校だ。付け加えるなら、平凡だからこそ選んだ、とも言える。  今日は入学式で、その後これからの学校生活について担任から簡単に説明を受けて終わった。時間は正午を回ったところで、初日ということもあり教室内には緊張感が漂っている。クラス内ではまだグループができていないから静かだ。あと一ヶ月もすればグループが固まり、にぎやかになるのだろう。  クラス内に親しい人どころか、中学校が一緒だった人すらいないあたしは大人しく帰ることにした。  好きなことはとくにない。勉強はもってのほかだ。部活に入る気はさらさらないから、きっとこれから放課後は時間を持て余すようになるのだろうか。いや、友達ができれば毎日遊んで楽しい生活が送れるようになるはずだ。 「阿河彩夏(あがわあやか)さん」  校門を出ようとしたところで後ろから声をかけられた。  あたしをフルネームで呼ぶ人は知り合いにいない。だれだろうと思い振り返ると、やはり知らない女子生徒だった。 「阿河彩夏さんですよね?」  その女子生徒が首を少し傾け、確かめるように聞いてきた。  ずいぶん小柄で一五〇くらいだろうか。あたしが一七〇あるから見下ろす形となってしまう。髪は長く、ゆるいパーマでもかけているのかうねっている。目が大きく、全身から愛らしい印象を受けた。 「そうですけど……」 「よかった。私は明賀茜(みょうがあかね)です。部活の勧誘にきました」  阿河彩夏ではありません、人違いです、と言いたかったがもう遅かった。ちょっと考えれば分かることじゃないか。この時期に、しかもあたしに声をかけてくる人がなんの目的で話しかけてくるのか、なんて。 「陸上はもうやりませんよ」 「陸上部の勧誘ではありません。セパタクローです」 「セパ……なんですって?」  聞き慣れない単語に思わず聞き返してしまった。一刻も早く立ち去る気だったにも関わらず、だ。 「セパタクロー。やはりまだマイナースポーツの域を出ていませんね」 「陸上だろうと、セパなんとかだろうと、入部する気はありませんので」  あたしは踵を返してその場を立ち去ろうとしたが、右手首をすばやく掴まれた。 「まあまあ、実際にやってみませんか。なんならお話だけでも」  腕を強く振り、振り解こうとしたが明賀先輩は離してくれなかった。諦めて明賀先輩ごと引きずって歩きだそうとしたが、驚くことに一歩も動けなかった。陸上の短距離で鍛え上げた足腰だ。一年半は競技から離れているとはいえ、こんな小さな人に負けるはずがないのに。  この小柄な体のどこにそんな力があるのか不思議に思い、改めて見ると、制服のスカートと黒のハイソックスから覗く腿が不自然に隆起している。 「もしかしてマネージャーじゃなくて選手なんですか」 「ええ、そうよ。セパタクロー部主将、二年。部員確保のために阿河彩夏さんを勧誘しにきました」 「それはわざわざご苦労様です。でも、ジャージとか持ってないので今日はむりです。残念ですが」 「ま、入学式だし、そうよね」  明賀先輩がようやく手を離してくれた。手首にうっすらと赤い跡がついている。掴まれたときに思ったが、腕の力はそこまでではなかった。上半身より下半身の力が大事な競技なのだろうか。 「でも、阿河さんのクラスは明日体育があったはずよね。すると当然ジャージもあるわけだから、明日は参加できるかしら」  なんなんだ、この人は。あたしの名前どころかクラス、時間割まで把握している。気味が悪い。 「明日の放課後、クラスに迎えに行くから、よろしくね」  明賀先輩はそう言うと笑顔で手を振り立ち去った。  あたしは大きくため息をついた。  翌日、授業が全て終わると同時にあたしは教室を飛び出した。明賀先輩が来る前に帰ってしまえば問題ないだけのことだ。話が合いそうな人がいたから放課後もおしゃべりに興じていたかったがしかたない。  教室を出て曲がった瞬間、だれかとぶつかり、とっさに、 「ごめん」 と謝った。 「急いで来るなんて、感心ね」  不幸にもぶつかった相手は明賀先輩だった。明賀先輩はあたしを見上げ朗らかに笑っていて思わずほだされそうになってしまう。 「やる気に溢れていて嬉しいわ。さあ、行きましょ」 「えっと、いや……」  とっさに上手い言い訳を思いつかず、しどろもどろになってしまう。その間になにごとだ、と数人のクラスメイトに関心を寄せられ、その輪が少しずつ大きくなっていってしまった。入学式翌日から先輩に絡まれている後輩の図に見えるのだろうか。いや、身長差を考えるとあたしが絡んでいるように見えてしまうはずだ。  ギャラリーから、 「あの人かわいい」 だとか、 「あの人もしかして、明賀先輩じゃない?」 などの声が上がりはじめ、気恥ずかしくなってしまった。 「分かりました、行きますから。さっさと行きましょう」  明賀先輩はギャラリーに関心はないようで、あたしだけを見つめ、満足そうに微笑んだ。  明賀先輩の先導でセパタクロー部の部室に案内された。部室棟は二階建てで体育館から少し離れた場所に建っている。各運動部に一室割り当てられているらしい。部室は棟の二階で、室内の両壁際にロッカーが六個ずつ、長いベンチが中央に置かれているだけでシンプルだ。清潔感もある。  明賀先輩と一緒に着替え、体育館へ向かった。どうやら屋内競技のようだ。昨日は帰宅後、セパタクローについて調べる気にはなれず、今のあたしに事前知識はなにもない。  名前の通り、明賀先輩は妙な人だ。前を歩く明賀先輩のふわふわの髪の毛を睨めつけながら思った。意固地で面倒くさいあたしより他にもっと楽に勧誘できる人がいそうなものだが、なぜかあたしに拘る。たしかに、同年代より運動神経はいいほうではあるが……。  なんにせよ、入部を断るためにはどんな手段も辞さないし、いい作戦を思いついたから大丈夫だろう。セパタクローという競技を貶せばいい。「くだらない」だとか「つまらない」とこき下ろせば、明賀先輩も諦めてくれるに違いない。自分がやっている、もしくは好きな競技を貶されていい気分になる人はまずいない。あたしとしてはそんなことを言いたくないが、四の五の言っていられない状況だ。  体育館に着き、明賀先輩が重そうな扉をスライドして開けると、静かなアリーナが広がっていた。まだだれもおらずコートもない、と思っていたが、入り口横の片隅にコートが一面設営されていた。  高さ一・五メートル程度のネットが張られ、長袖、長ズボンのジャージ姿の女子生徒が一人手にボールを持ち立っていた。ジャージの大きさが体に合っていないのか手のひらまで袖が余っている。ズボンも二〇センチくらい裾を折り返している。背中には「ALL JAPAN」の文字が印字されている。  黄色のボールは小さく、片手で楽に掴める程度で、なにかで編まれているのか、よく見るとところどころに穴が空いている。  コートのネット近くにいた女子生徒がボールをゆっくりと手から離し、床に落ちる直前で、右足側面を使い真上に蹴り上げた。女子生徒が落ちてきたボールを今度はネットと平行に、自分の前へ蹴り上げると同時に走り出した。二歩、三歩と目で追ううちに、ジャンプした。さらにそこから空中で体勢を変え、右足をネットより上、さらに自分の頭より上に持ち上げた。呆気にとられているうちに女子生徒はボールを空中でオーバーヘッドキックの要領で蹴り落とし、ネット向こうのコートにボールが叩きつけられた。まるでバレーボールのアタックを足でやってのけたみたいだ。  空中を飛んでいた女子生徒は蹴った足とは逆、つまり左足と右手を使い優雅に着地を決めていた。 「あれがセパタクローよ」 「あれが!?」  くだらない、つまらない、なんてとてもではないが言えなくなってしまった。あんな見るからに高難易度なものを見せられてそんなことを口にする勇気はないし、敬意に欠けた言葉を口から出すことがはばかられた。 「セパタクローは別名空中の格闘技、なんて呼ばれているわ。端的に言うと、腕以外を使って行うバレーボール」  なるほど、それでネットは低めで、アタックはあんなにアクロバティックなことをしているのか。 「えっと……あれをあたしにやれって言うんですか?」  目が見開かれ、呆然とした表情をしているであろうことが自分でも分かる。それくらい衝撃的なものをこの目で見たのだ。 「アタックはあの子と、最悪私がやるわ。阿河さんは追々ね」  ほっと胸を撫で下ろしたが、そうじゃない。あたしはそもそもセパタクローをやる気はない。すごいプレーであることは認めるが、あたしの運動神経を持ってしてもできるとは思えない。  コートにいた女子生徒はこちらに一瞥もくれず、黙々と練習を続けている。足だけでトスを上げ、空中で体を回転させ、足だけでアタックを打ち込んでいく。 「千屋(せんや)さん、ちょっといい?」  明賀先輩の呼びかけに、コート上の女子生徒が反応し、ようやくこちらを見た。それからゆっくりとこちらに近づいてきた。その様子は、さっきまで機敏に動いていた人とは別人のように思える。  背は一六五くらいで、あたしより少し低い。髪は肩で切り揃えられ、目が細長く眠そうな印象を与え、表情に乏しい。 「この子は阿河彩夏さん。千屋さんと同じ新入部員」  入部するなんてまだ一言も言っていないのに、明賀先輩は勝手に話を進めていくし、あたしが割って入る隙を与えてはくれなかった。 「で、こっちは千屋(ゆい)さん。同じく一年生」  あんなにすごいプレーをしていたのが同い年とは……。「ALL JAPAN」と印字されたジャージを着ていることから分かるように経験者なわけだ。いったいどれだけ練習したらあんなことができるようになるのだろう。  千屋さんに感心こそするが、あたしに入部する意思はないから、「よろしく」と手を差し出すことはしなかった。千屋さんは千屋さんで無反応で、しばし沈黙がこの場を支配した。明賀先輩も笑顔のまま固まってしまっている。  千屋さんが少しだけ頭を下げると、さっさと練習に戻ってしまたった。まるでこちらに興味はありませんと言わんばかりの態度だ。  うっわ、なにあれ……。 「ごめんなさい、千屋さんは昨日からあんな感じで……」  明賀先輩が悪いわけではないのに、なぜか申し訳なさそうにしている。  昨日から、ということは入学初日にセパタクロー部へ入部を決めたわけだ。にもかかわらずあの態度ときた。やる気があるのかないのか分からない人だ。  断るのにぴったりな理由ができたあたしはすぐに溜飲を下げた。あんな奴がいる以上、入部なんてまっぴらごめんだ。明賀先輩には諦めてもらおう。悪いのは千屋さんだ。 「とりあえず、試合に必要な人数が揃ったから、千屋さんも喜んでいるわ。阿河さん、これからよろしくね」 「あのですね……」 「別に喜んでませんよ」  練習に戻ったと思っていた千屋さんが口を挟んできた。しゃべりながらリフティングをし、ボールの行方を追っていて、顔をこちらに向けることはない。 「どんな人が来ようとどうでもいいです。経験者、未経験者、センスがあるなし、関係ないです」  これには明賀先輩も困った表情を浮かべている。こいつは本当に一体なんなんだ。初対面でこんなにイライラさせられる人がいるとは夢にも思わなかった。 「どうせ入ってもすぐやめますよ。難しいと音を上げ、嫉妬し……」 「千屋さん!」  明賀先輩がぴしゃりと言って一歩踏み出したが、それより先にあたしが千屋さんに詰め寄った。千屋さんは臆することなくリフティングを続けている。 「あんた、本当にむかつく」 「そ」 「勝手にあたしのこと決めつけないでくれる?」  なにが嫉妬だ。あたしのことをなにも知らないくせに。過去の嫌な思い出が甦ってきて、頭から、胸へ、下腹部からさらに全身がどろどろしてきた。心なしか視界も揺れてきた。  千屋さんはあたしを無視し、ここにいないものかのように振る舞っている。その態度に益々怒りが込み上げてきた。 「こっちを見ろ!」  空中に浮かんでいたボールをあたしは横から思いっ切り蹴飛ばした。  これには千屋さんも反応をし、あたしを睨みつけてきた。 「あんた、本当に気にくわない」 「そ」 「できることならこの場でいますぐボッコボコにしたい」 「できるの?」 「できるけどしない。その代わり、精神的にボコボコにする」 「は?」  千屋さんが怪訝な表情を浮かべ、「頭がどうかしてるんじゃないの」とでも言わんばかりの侮蔑の色を見せた。 「セパタクロー部に入部する。そんで上手くなってあんたの傲慢な鼻をへし折ってやる」  あたしは高らかに宣言し、千屋さんに中指を立てた。
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