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26
じめじめする季節を乗り越え七月がやってきた。かと思えばすぐに八月になった。
あたしは着実にトスとローリングを身につけていた。千屋さんはあたしのトスを、
「明賀先輩ほどじゃないけど、かなり上手くなった」
と評した。明賀先輩ほどじゃないけど、という枕詞は前も聞いたことがある。以前までなら一言多いとか思っていただろうが、千屋さんは素直にそう思っているのであって、あたしもそう思うから腹を立てる要素はない。
北原さんはサーブに磨きをかけ、三段階のスピードを使い分けるようになった。速く攻めるサーブ、足の裏でプッシュするようなフェイントサーブ、その中間、といった具合だ。
和食さんはまだ試合に出られるほどではないが、春からに比べ見違えるように伸びている。
千屋さんは手がつけられないくらい強くなっていた。曜さん曰く、
「もう相手が務まらない。というか私の指導がよすぎた」
八月最初の土曜日、夜に自室で寛いでいるとスマホの着信音が鳴った。明賀先輩からで、懐かしさに顔が自然とほころんだ。先輩が卒業してまだ半年も経っていないのに。
「久しぶり。どう、元気?」
明賀先輩の声も心なしか弾んでいる気がした。ちょっとしたお互いの近況報告をした。あたしはトサーに転向したこと、明賀先輩は大学でもセパタクローを続けていること。
「本題なんだけどね」
明賀先輩の声が少し固くなったのを感じ、あたしも自然と居住まいを正した。
「私たちの大学と試合をやらない?」
「試合、ですか」
「そ。お盆の時期に何日かみっちりと。阿河さんたちも試合前にちょうどいいでしょ?」
願ってもない話だ。明賀先輩の大学はたしか大学セパタクローの強豪だ。そんな相手と試合できるのは助かる。
「いいですね。明日曜さんに相談します」
「曜さん?」
電話口からいぶかしがる声が聞こえた。あたしは曜さんのことを説明するのを忘れていた。あたしが説明しようとすると、明賀先輩が、
「もしかして、千屋曜? 元日本代表の」
「そうです。今、あたしたちの指導をしてもらってます」
しばらく明賀先輩は黙り込んだ。間違ってあたしが電話を切っちゃったかと思って焦りだしたころにようやく明賀先輩が息を吸う音が聞こえた。
「そうなのね。じゃあよろしく」
あたしが大学生との試合について曜さんに相談すると、曜さんは、
「やろう」
と即決してくれた。
明賀先輩に連絡し、日程を確認したところお盆の間の三日間ということだった。大会前の最終調整としてこれほどありがたい話はない。
今日はその一日目で、会場は明賀先輩の大学の体育館だ。明賀先輩は井澄高校の体育館でやろうと言ってくれたが、曜さんが、
「試合はいつもの体育館じゃやらない。アウェーに慣れろ」
と言って強引にこちらの要望を押しつけた。大学生たちは一〇人以上いて、そこから三チームつくり、あたしたち含め四チームでコート二面を使って延々と試合を繰り返した。
午前中を全勝で終え、確かな手応えを掴んだ。お昼を食べて体育館へ戻ると、明賀先輩が一人でリフティングをしていた。この人は本当にセパタクローが好きなんだな、と改めて思う。
「今日はありがとうね。試合前なのに、わざわざ」
明賀先輩があたしを認めるとリフティングを中断した。
「いえこちらこそ。試合前最後の調整に助かります」
「ちゃんと調整になってる? ワンサイドゲームばっかりだったような気がするけど」
ワンサイドゲームとまではいかないが、それなりに差をつけ、危なげなく勝ち続けていた。前回の合宿と違い、千屋さんを使い、その千屋さんが暴れ回っているからだ。
「私たちは結構強いはずなんだけど、参っちゃうわね」
「それは千屋さん様々ですよ。正確にスコアつけたらあたしの三倍くらい点取ってるんじゃないですか」
「そう! 千屋さん!」
明賀先輩が突然大声を出すものだから、あたしは驚いて少し飛び跳ねた。今までで一番大きい声を聞いた気がする。
「千屋さんの強さがもう異次元、化け物、今までとは別人。去年も十分強かったけど、比較にならないわね。なにがあったの?」
毎日一緒に練習しているから明賀先輩がそこまで言うほどなのか、あたしには分からなかった。実力は認めているが……。
「強いて言えば、すごい指導者がついてくれたことですかね」
「千屋曜ね。呼び捨てにするのも変だけど。私も指導してくれたらな、と思うこともあったけど……。そっか、じゃあ……」
千屋さんが両親と血が繋がっていないことを教えてくれたのは明賀先輩だ。だから当然、明賀先輩は千屋さんと曜さんの微妙な関係を考慮して、曜さんを指導者として迎え入れることを遠慮していたのだろう。
「千屋曜を指導者にしようって言い出したのは阿河さんね?」
あたしは頷いた。
「じゃあ千屋さんの進化に一役買ったわけだ」
「そんな大それたことはしていませんよ。勝つには指導者必要で、それが曜さんだっただけです」
明賀先輩は眉尻を下げ、肩をすくめた。その動作と表情だけでは考えが読めなかった。
「去年までの千屋さんは真剣にはなってくれたけど、どこか危うさがあったわ。薄氷の上を歩くような、ね。でもそれはもう消えた。そこには千屋曜と阿河さんが関わっているようにしか思えないけど」
あたしは本当に深く考えているわけではない。もちろん千屋さんと曜さんの関係を考慮しなかったわけではないが、必要だと感じ強行し、結果としていい方向へ転がっただけだ。
「阿河さんを部長にしてよかったと思ったわ。阿河さんのことだから部長じゃなかったとしても同じことをしてたでしょうけどね」
それに関してはその通りだと思うから素直にうなずけた。
「前置きはこれくらいにして。本題に入りましょうか。今回の試合の本来の目的」
大学生側になにか考えがあるのだろうな、とは薄々察してはいた。あたしたちのチームに千屋さんというスター選手がいたとしても、同じ大学生同士で試合なり合宿をしたほうが有意義だったはずだ。
「阿河さんも千屋さんも私たちの大学にこない? そしてセパタクロー部に入らない?」
「進路の話ですか。正直全然考えていなくて」
明賀先輩が心底呆れた表情をした。久しぶりに会った明賀先輩はずいぶんくだけた人になっているように感じた。
「三年生の夏よ。春には進路希望とか出してるはずよね? それとも阿河さんは留年したの?」
「出してはいますけど」
明賀先輩の言うとおり、春に進路希望表なるものを担任に提出した。そこには大学進学、志望校は近場の大学名を書いた。家のダイニングで進路希望表を前に悩んでいたらお姉ちゃんが、
「大学は出ておいたほうがいいよ。お金なら私も出せるし」
と頼もしい援助を申し出てくれた。
「悩んでるんだったら、私たちの大学にしておいたら? で、セパタクローを続ける」
こんなことを言ったら呆れられるどころか軽蔑されそうだから言わないが、あたしは本当に日本一になること以外今はなにも考えていない。だからこの先、大学どころかセパタクローを続けるのかさえ分かっていない。
あたしは話の矛先を変えたくて、
「千屋さんはもう勧誘したんですか。千屋さんの進路は知らないですけど」
と聞いた。
「機を見て話しかけるつもりよ。でも、勧誘するまでもなく千屋さんは私たちの大学でセパタクローを続けるでしょうけど」
明賀先輩の声は妙に確信を帯びていて、それが不思議だった。ただ、千屋さんがセパタクローを続けるつもりであることに関してはあたしも同意だ。千屋さんはもう自分の意思でこの道を歩いている。
「千屋さんは後五年もすれば力はピークを迎えて世界トップレベルになる。きっと阿河さんもね」
千屋さんならそうなると思う。でも、あたしがそうなるかと言われても実感はない。明賀先輩のお世辞かと思ったがそんな雰囲気ではない。表情は真剣そのものだ。
「あたしはそこまでじゃないと思いますけど」
「私が嘘や冗談でも言ってるとでも? 私はセパタクローに関しては嘘を言わないわよ」
そのことはよく分かっているつもりだ。一昨年の二人きりの新入生歓迎会のときから、ずっと。
「私の代で日本一になれなかったから、嘘をついたといえば嘘をついたのだけれど」
明賀先輩が自嘲気味に笑うと、あたしの左肩をぽんと叩いた。
「なにはともあれ考えておいてね」
そう言うと明賀先輩は、体育館に入ってきた千屋さんの元へ駆け寄った。
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