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月曜日は練習がないので、さっさと帰ろうとしたところ、明賀先輩が下駄箱の前で待ち構えていた。
「阿河さん、今日は暇?」
「まあ、はい」
「よかった」
明賀先輩が屈託なく笑った。
他の帰宅しようとしている一年生がちらちらとこちらを伺ってきた。明賀先輩には、なんというか、華がある。上品さ、とも言える。偏差値五〇の平凡な井澄高校に似つかわしくなさが明賀先輩から漂っているのだ。そのせいか明賀先輩と一緒にいるとあたしにまで注目が集まってしまう。
「これから新入生歓迎をやろうと思って。千屋さんには断られちゃったから、阿河さんにも断られたら一人になるところだった」
歓迎会か……。たしかに、千屋さんは断りそうだ。むしろ参加している様子が想像できない。仮に千屋さんが参加するならあたしは参加しない。取っ組み合いのけんかになってもおかしくはないからだ。
学校を出て、最寄り駅の南口に連れてこられた。最寄り駅は北口に飲食店や小さなゲームセンターなどが集まっていて、南口は住宅街が広がっている。学校へ行くには北口を使うため、普段南口を使うことはない。
明賀先輩は行き先を告げずに、すたすたと歩いて行く。やがてこぢんまりとした喫茶店に辿り着いた。一見すると普通の家のようだが、メニューが書かれた看板が出ている。
「ここですか?」
「そう。セパタクロー部の歓迎会はここでやるのが恒例なの」
明賀先輩が先に入り、あたしも続いた。中は外見通り小さく、カウンター席が四つ、テーブル三つと対になるように椅子が六つと、十人も入れば満席になりそうだ。あたしたち以外にお客さんはおらず、物音一つしない。日当たりがあまりよくなく、店内は薄暗い。外見といい、内見といい高校生が入るには少し勇気がいる。
明賀先輩が店奥の窓際席に座ったので、あたしも向かいに座った。
店長だろうか、カウンター内にいた髭だらけの店員さんが黙ってやってきて、黙ってお冷やを置き、これまた黙って去ってしまった。愛想のいい店員さんしか知らないあたしはすこし面食らった。
「歓迎会はこのお店が恒例だって言ってましたけど、定員オーバーになったりしないんですか?」
「逆に聞くけど、すると思う?」
しないだろうな、と納得し、メニューに手を伸ばした。去年入部したのは明賀先輩が一人、三年生がいないことを考えると一昨年はだれも入部しなかったのだろう。明賀先輩の二つ上の代だけ特別に十人以上いたとは考えにくい。
「歓迎会だから、じゃんじゃん食べて飲んでね」
歓迎会だからあたしはお金を気にしなくていいと思うが、明賀先輩が払うことを考えると無遠慮に注文することが憚れた。部費から出るとも思えない。
注文内容を決め、髭面の店員さんを呼んだ。明賀先輩はブラックコーヒーにケーキを三種類。あたしはオレンジジュースにケーキを一個。
注文を聞き終えると店員さんはまたも黙ったまま立ち去った。
「ケーキ食べ過ぎじゃないですか」
「おいしいからつい。運動しているから問題ないわよ。阿河さんも食べたかったら追加注文していいからね」
すぐに飲み物とケーキがテーブルに並べられた。それだけで判断するのもどうかと思うが、ブラックコーヒーを飲める明賀先輩は大人っぽい。右手の親指と人差し指でカップの取っ手をつまみ、ゆっくり飲む仕草もどこか優雅に感じてしまう。
「どう、セパタクロー部は」
「どうって、千屋さんが……」
「まあ、そう言うと思っていたわ」
「なんなんですかね、あの態度。つまらなそうだし、無愛想だし。もっと言ってやってくださいよ」
「そうだねえ……」
明賀先輩は困った表情を浮かべるだけで、それ以上はなにも言わなかった。明賀先輩の気持ちは分かる。部員がたった一人の部に念願の新入生、それも経験者が入部した。多少、いやかなり態度や愛想が悪くても強くは出られないはずだ。
「千屋さんってセパタクローをどれくらいやっているんですか」
「……そっか、知らないわよね」
モンブランを一口大に切り分け口へ運ぼうとしていた明賀先輩の動きが止まり、一瞬驚いた表情を浮かべた。あたしの質問はそんなに変だっただろうか。
「千屋さんは有名よ。セパタクローの世界ではね」
「そうなんですか?」
「ええ。約二十年前にセパタクロー日本代表が世界選手権でアベック優勝したの。そのときの両代表キャプテンの一人娘よ」
千屋さんは、世界でもトップレベルの選手を両親に持つ、いわゆるサラブレッドだ。あたしは驚きのあまり口に含んでいたオレンジジュースをこぼしそうになった。
「そんなにすごい人だったんですね……」
「びっくりしたでしょ。おそらくだけど、経験と実力ともに、高校生の中ならナンバーワンじゃないかしら」
明賀先輩は三つあるケーキのうち二つを食べ終えていた。よく食べる人だ。
「千屋さんはすでに十年以上はやってるから、大袈裟ではないと思うわよ」
十年か……。あたしがお姉ちゃんの後を追いかけて遊んでいたとき、千屋さんはセパタクローをやっていたわけだ。当時の千屋さんは無邪気にボールを追いかけたり、上手くできなくて泣いたり、楽しそうに笑っていたのだろうか。そんな千屋さんはちょっと想像できない。
「ところで、千屋さんには勝てそう?」
「今は、むりそうですね」
今は、の部分を強調した。実力と経験の差ははっきりしているが、だからといって簡単に折れたりできるほどあたしの性格は単純じゃない。そしてそれを素直に認めることもできない。
「千屋さんをぎゃふんと言わせたいんですけど、なにかいいアイデアありませんか」
明賀先輩は困ったように小さく笑った。明賀先輩はケーキをほとんど食べ終わっていて、まだ湯気が立ち上るコーヒーを飲み干した。
「一対一の競技じゃないし、ポジションとかあるから、一概に千屋さんに勝つって言っても難しいわよね……。自分で言っておいてあれだけど」
「そこをなんとか」
「単純な身体能力なら阿河さんは千屋さんを上回っていると思うけど、それじゃ納得しないわよね」
「そうですね。セパタクローでどうにかこてんぱんにしたいです」
「考えておくわ。……返り討ちにされなければいいけど」
明賀先輩とあたしはケーキを食べ終え、二人とも追加で注文した。明賀先輩はコーヒーと別々の種類のケーキを五個注文し、これでこのお店のケーキは全種類制覇したことになる。あたしはケーキを三個にした。千屋さんのことを考えるとストレスがたまり、ついそれを食欲にぶつけてしまう。
「そもそも、どうしてそんな人がうちみたいな高校にいるんですか」
今度も明賀先輩が驚いた表情を浮かべた。あたしが変なことを言っているのだとは思うが、セパタクローに関しては本当に無知なので勘弁してもらいたい。
「それは、井澄高校といえば、セパタクローの強豪だからよ」
「え! うそですよね? 今は部員が三人しかいないのに!」
「うそじゃないわよ。といっても、去年運良く全国二位になっただけなんだけど」
全国二位! それは強豪と言って差し支えないと思う。ただ少し気になる点はあるが……。
「ちなみに、日本でのチーム数ってどれくらいあるんですか」
ちょうど追加注文のケーキとコーヒーがテーブルに置かれ、明賀先輩はおいしそうに頬張った。
「鋭いわね。去年の大会では高校生女子のチームは全部で十六。一回勝てば、なんと、全国ベスト8を名乗れました」
あたしも運ばれてきたガトーショコラを食べ、オレンジジュースを飲み干した。チョコレートと砂糖とオレンジで口の中がざらざらし、水かなにかで洗い流したくなった。
「まあ、甘くはないよ、セパタクローの世界は。マイナースポーツだからか、昔からやってる人ばっかり。技術的には成熟しているし人が多いし、将来の日本代表になれる人だっている。勝つのは簡単じゃないわよ」
なんだかこちらの頭の中を見透かされている気がして、途端に恥ずかしくなった。いや、似たようなやりとりが何度もあったのだろう。そのたびに明賀先輩は同じように厳しさを語ってきたのかもしれない。
「阿河さんがセパタクロー部のことを知らなかったのは意外だったわ。受験生用の学校紹介パンフレットに大きく取り上げるように校長先生にお願いしたのに」
セパタクローについて見た記憶はなかった。パンフレットに掲載されていたとするなら、部活紹介のページだろうか。そこは目を逸らしていたから、見落としていたとしても不思議ではない。
「すごい経験者で構成されているすごい部活に初心者が紛れ込んでしまったのは分かりました。じゃあ、千屋さんはどうしてあんなに無愛想でつまらなさそうなんですか」
仮にも十年以上千屋さんはセパタクローをやっている。好きじゃないとそんなにできないはずだ。それにも関わらず、練習中はつまらない顔をし、あたしたちと仲良くなる素振りを見せない。そうかと思えば練習はサボっていないし、強豪校を選んで進学している。千屋さんは考えが一貫していなくて、いまいち分からない人だ。
「さあねえ……。他人の考えは分からないわねえ……」
「いいんですか、千屋さんのあの態度。明賀先輩からしても目に余ったりしないんですか? あたしが後輩にあんな態度をとられたらすごく嫌ですけど」
ブラックコーヒーの入ったカップを口に運ぼうとした明賀先輩の動きが止まり、目がきょとんとした。
「別に、いいけど……」
意外な答えに今度はあたしが固まってしまった。
「いいんですか……?」
「ええ。千屋さんの態度が悪かろうと、私を下に見ていても構わない。なんなら阿河さんの態度が悪くても構わない」
それはどうしてですか、と聞こうとしたが驚きのあまり口を動かせなかった。
「試合に出られれば、いや、試合に勝って日本一になれるならなんだっていいわ。どんな人間だろうとね」
普段のふわふわした明賀先輩からは信じられないような目の強さに射すくめられ、あたしは動けなくなった。なにかをしゃべろうとしたが顔の筋肉が硬直し、おまけに肺も空気を吸い込めず口を動かすことがかなわなかった。あたしより小さいはずの明賀先輩があたしより大きく見えた。元々静かだったこの場からより音が消え、耳には自分の血流の音だけが届き、空間が伸びた。さっきまで甘かった口も塩辛い空気で満たされていく。
手からフォークが落ち、我に返ってようやく体の動かし方を思い出した。
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