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思い返せば返すほど自分自身でさえ荒唐無稽な記憶だと思うのだが、私にとってはフロアから家に帰る今まで胸に残り続けていた火をいとも簡単に吹き消す程には恐ろしい記憶であることは間違いない。
だが自分だってただ穴あけパンチ恐怖症に陥って過剰反応を示した訳ではない。そう、ここに落ちている穴あけパンチは紛れもなくあの時の穴あけパンチなのだ。
型番が同じ別製品などでは無い、あれの隣で曲を流し続けていた自分の脳裏に嫌でもこびりついてしまった、あの穴あけパンチの細かい傷や経年劣化の痕跡と完全に一致している。
「あのー、穴あけパンチ……さん?ごめんなさい、大丈夫ですか?」
しかし今爪先に当たったのは掌に乗る程の穴あけパンチ。顔に穴どころか指の先を削ぐ事さえ不可能だという事もまた理解している。
私は穴あけパンチを拾い上げて語りかけた。
「何お前ちょっと足で小突いただけなのに心配してくれんの?ウケるわー。おれッチのボディ見てみ?金属製だぞ、お前なんかよりもカッチカチだっての。」
「うわっ!?」
「は?いやビビんなし、お前から話してきたんじゃん。」
「いやまぁそうなんですけどもね!?」
私が話しかけるとそれまではただの穴あけパンチだったそれが突然軽薄な言葉遣いで喋り出す。
私が話しかけるというのが穴あけパンチが喋り出す合図になるという事はよく分かっているのだが、今まで物音一つ立てなかったモノがおもちゃのスイッチを入れたかのように喋り出すのはそう簡単に慣れそうにもない。
しかしそんな事は今は問題ではない。夜更けの自宅前で、穴あけパンチ片手に喋るのは傍から見れば不審人物に他ならない光景だろう。
それに好きでやっている仕事とはいえ流石に仕事終わりともなると疲労が溜まる。それを麻痺させていたアドレナリンも穴あけパンチに吹き飛ばされてしまったので、寒い玄関先で立ち話も程々にしたい。
「とっ、とりあえず、中に入りましょう。」
「おっけー、お邪魔しまーす。」
そう提案したが、穴あけパンチの方はこうして私が持っている以上、この提案は半ば強制に等しい。しかしこれがそんな事に気付くこともなく手の上で元気よく挨拶をしているのは、やはりモノは人に従順であるという固定観念からなのか、それとも本当に何も考えていないのか──。
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