後編

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後編

 ××年〇月×日午後3時。   とある中学の校舎三階にて。   廊下をダンダンダンっと勢いよく駆ける制服に身を包んだ少年少女。上がる嬌声。はしゃぐ声と5限終わりのチャイムがバックミュージックを彩る。   教室内も、まだ喧騒に包まれていた。少年少女の口から発する雑音の数々。   誰も彼も好き勝手に野放図に、蒸留される前の水を飲みあうように、日常会話という名のいい加減を楽しんでいる。   そこに痛苦はないので苦悶の表情もなければ、大した事も言わないので驚きもない。   当たり前の空気に満ちていた。   そんな当たり前の空気で窒息しそうな女子が一人。   死に体で机にしがみついてブルブル震えていた。   何を寒がっているのかと、みれば髪がぐしょぐしょで全身まで濡れて床に水が滴っていた。   ついさっきのこと。女子が授業をおえて、トイレに行こうとしたら、急に後ろから大勢で囲われて手を引っ張られトイレで水をかけられた。   ホースをつけて正面からばしゃばしゃと。そして何も言わずに、そのままそいつらは消えた。   帰ってきて震えていたわけだ。教室は夏なのでエアコンがガンガンで死にそうになっていた。授業がはじまると教師が言った。  「おまえ、寒くねえの?」   何か他に言うんじゃないかと、そんな当たり前の期待すらない。本当にそれだけだ。   中3女子身長低め、髪は真っ黒、ぼさぼさのロング。一見して分かる陰気キャラ。   双草愛はいじめられっ子だった。   それ以上でも以下にもなれぬ、学校のつまはじきもの。いらない置物。   あだ名は消しゴムのカス。   その日も帰ろうとすると、また髪を掴まれた。  「ちょっとこい」   そして強く掴まれ引きずられて、教室の開いていた窓から外側に向けて掴んだ髪を上半  身ごと飛び出させるように、  「今日からこいつ、スタントマンやっから。お前ら手伝え」  やめてという言葉が意味をなさない事を知っていた。   わらわらと集まってくるクラスの奴らに四肢を掴まれ、  「さあ、デッドリーか! ビューティフルライフか、二択だ! ここから落ちて着地したら  俺らがなんもしなくても人気者だ!」   しかし、狂気は実行されずに終わる。頭を逆さにされて揺さぶられたせいだ。   たらたらたらと、口から零れる。あまりの臭気にみんな離れた。  「やっべこいつ吐いてやがる」  そしてまたどっかにいく奴ら。   帰りは、シームレスだった。臭いに蓋をするように皆離れていった。   ボロボロにされた上履きをゴミ箱に捨てる。   明日からは土足だ。どうでもよさそうに、革靴を履いて、何かをでろっと踏みつけた。何か入っていた。   粘性の黄緑色の何か。   これもまたどうでもよさそうに、取り除いて、空の夕陽を背に帰る。   翌日は、朝から、ビラが配られていた。何のビラかとみていると、自分の顔を切り貼りして、全裸の女性とアイコラさせられていた。   くだらないと思っていても、全身に言いようのないだるさを感じながら教室に行くと、机が落書きどころじゃなくなっていた。   完全に足が潰れがくがくで安定していない。ぶっ壊れていた。その日はそれで済んだのか、帰りはまたもシームレスだった。   翌日も平日なことに嫌気が差しながら登校すると今度は、皆がこっちを見向きもしなかった。   教師にも無視された。教師にも話が回っているのだろう。その日は無視デーだったらしく、クラス中どころか、校舎で知る人はいないとでもいうように全ての人に目を逸らされた。  愛は、それを受けて、できればこんなちょろい日が続いてくれればいいと、スキップで帰った。家に帰ると、両親がおかえりーと。   夕飯はなんだろうと居間に駆けて行くと、  「ああ、あんたか」   兄と勘違いしたのだろう。その乾いた一言で愛は両親から目を逸らし、2階の自室に籠った。   双草愛はいじめられっ子だった。  ある時、怒りに限界がきて正当防衛にクラスメイトを刺した。   正確には放課後の教室で相手が複数人で囲んできて、そのうちの一人がハサミで槍の様に突いてきたので、隠し持っていたカッターナイフで抵抗しただけだ。   結果は、書類送検。家裁送致。保護観察という成れの果て。手首を狙ったのが動脈を傷つけてしまい、過剰防衛という判決だった。   以来、家族が家族じゃなく、戻ってきた愛をいじめる奴はその家族以外でも、近所やら関係者やらとたくさんいたし、学校でも悲惨だった。   クラスメイトの一部、と限定的だったいじめ派閥はクラス規模どころではなくその他大勢で、学校中が敵意を向けていた。   そして今までの事は全て録画されていたらしい。愛が何か言い返した時、何かやり返した時、過剰防衛の時、専門家にみられたらすぐばれるような動画編集をして、校内、身内にだけ流している奴がいた。   このいじめに発端なんてない。   そして明日もいじめは続く。   内容だけ聞くと何故いじめにまでなったのか謎な感じだが関係ない。   こういうのは二通りある。   理由があるタイプとないタイプ。   双草愛はないタイプだ。クラスメイトは正しさがどうのこうのと虐めの理由を並べていたが、それも結局は何かにむかついた奴がよくやる自分の怒りの出どころ探しみたいなものだ。   意味はなく、根拠もない。   毎日が地獄。わけのわからない悪意で始まり、既に絡め取られて人生が終りかけていたが、抵抗する気力が欠けていたのは家族にまで見放されたからかもしれない。   しかし愛はあまり感情を表に出さないタイプだった。   自室でめそめそ泣くようなキャラじゃない。   だから事件を起こしたのだと——皆がいう。   そして明日も行かなければならない。魔都へ。   そう思って空を見れば快晴。   行ってこいと言わんばかりの健康的象徴。   習慣化というのは恐ろしく、愛は手綱をひかれるようにその日も学校へ行った。   そうして——地を舐めていた。   体育館裏。呼び出されたわけでも自分から行ったわけでもない。   連れられて、羽交い絞めにされて、こいつを試してみたかったと、いきりキャラがいきってスタンガンで全身をあぶられた。  「やっべ、こいつ息してねえ! やっべ!」   やっべやっべと言いながら、皆離れて行って、一人地面に取り残された。  意識はあったが、生きたくなかった。   目は開いたが閉じた。頭は動いたが動かしてなかった。呼吸は動いたが動かしてなかった。   このまま息を止め続ければ死ねる。そう思うと、少しくすっと笑みが零れた。もう何年かぶりの笑みだ。死ねばもっと笑えるかもしれない。   愛は死ぬまで窒息するふりをした。   できてもできなくてもいい。   せめて誰もいない間にせめて、  「この世に正義なんていないんだ」  仰向けになった視界に空が見えた。   揺らいで見えた  濁りが見えた。   淀んでいた。   海の中から空を見あげたらきっとこんな感じなのだろう。  「ははっ」   目を開けたまま意識が薄まり、涙で更に息が足りなくなってからだが痙攣し、後一歩のところで。   視界が闇に覆われた。   死ぬ直前で、口を塞がれて、人工呼吸をしてきた。  「なーんだ。まだ生きれるじゃん。あなたが可哀想なのは、あなたの境遇が可哀想なんじゃないわ。あなたが自由を知らずに、変える力を知らずにこのまま可哀想の言葉の罠に踊らされてあなたが可哀想なあなたで居続けることが本当の可哀想なのよ。だから」   がばっとは起き上がれなかった。ごろんと転がって、何してんのって目で見返した。気付けば息止めをやめて全身で息をしていた。   彼女は言った。  『正義はいるわ。本当の正義は、絶対自分のことを正義だと名乗らないのよ。本当は誰の心にもいる恥ずかしがり屋さんなの。だからね。私は今から世の中が作り出した、正義という概念に敬意を表して——あなたの人生を救うわ』   双草愛はきょとんとして、しばらくずっと彼女を見続けていた。   ブルジョワジーな感じの西洋風の喫茶店の2階窓側席。   そこにコースターが二つ並んでいる。向かい合うように二席。  「どう少し落ち着いた?」   彼女は、一頻り話し終えて、ことっと赤い果実を絞ったドリンク入りグラスを置いた。  「異界化?」   愛も砂糖で甘くした紅茶入りのグラスを置いた。  「そう、正確には人間のね。貴方は今、とある化け物に狙われていて、蝕まれているの。異界に飲まれているのよ。貴方の人生が」   意味が解らない。そう言おうとして、あまりに不恰好な伝え方なので言い換えた。  「もっと詳しく教えて下さい。それとあなたのお名前」   出会ってすぐ、彼女は愛を介抱してくれて、その優しさに触れたせいか、背中を撫でられただけですぐに調子がよくなり、帰りますと言ったところ送っていくと。   それで家に帰ろうとしたらそっちはよしましょうと、まるで心を読んだように帰宅ルートを外されて近くの喫茶店に落ち着いた。  「来咲汁子。名前が聞けるくらい落ち着いてくれたならよかったわ。で、さっきも言った通りよ。あなたはね、今普通に暮らしているように一見映る」   少し身構える。鵜呑みにしていたわけではないけれど、彼女、汁子の言い方には迫力があった。  「でも、最近。いやいつからかは特定できないかもしれない。ふとした時に貴方は不幸の只  中にいた。違う?」   汁子はもう一度手元のグラスに手を伸ばし、触るだけに留める。  「えーと……覚えてない、です」   その返答に興味が無さそうに、続けた。  「いじめられてたのは多分に、その化け物のせいなのよね。それだけじゃない。貴方の身に降りかかった全てが、異界化の一端である可能性が高い。だからあなたの不幸はあなたの落ち度ではないの。これだけは伝えておきたかった」   やはり、意味が解らなかった。今時な中高生じゃなくても、これが少しおかしい事は理解できる。  「全然理解してないのは知ってるわ。だから、とりあえず、まずは安全の確保ね」   そう言って、汁子は財布から千円札を2枚取り出すと、ひらひらしながらとりあえず会計しましょう、と席を立った。   愛はそれについていく。助けてもらって奢られるつもりはないので、会計で一緒にお金をだしたら、少し微笑まれた。  「で、続けましょうか、歩きながらでもいい?」  「どこに向かってるんですか?」  くすっとされる。  「まあそのうちわかるわ。で、続き。貴方を狙ってる化け物の名前」  「はい」   わからないが頷くしかない。  「スキュラっていう、神話に出てくる怪物の名前なんだけど、ここは海の近くだし、海原市ってつくくらいだから、影響されたのかしらね。怪異が反応すれば化け物はあっけなく生まれ出る。あ、怪異ってのは、異界の事象のことね。基本的に現実世界にはノータッチなんだけど、たまにごくまれに人の邪念、弱味に反応することがある。身に覚えはない?」  たくさんある。数えきれない程。あれだけのことをされて、恨むなという方が無理だ。  「言っとくけど、いじめが起きる前よ。何かない?」   わからなかった。頭を押さえていると、ようやく一つピンと。いやこなかった。  「わかりません」   そういうと、汁子はすっと目を閉じる。   でもないものはない。覚えていないだけかもしれない。そう思って記憶を漁った。   あっと、何かに。いやでもそんなわけはない。  「あの……多分、いや絶対違うと思うんですけど」  すると、汁子はまた目を開けて微笑んだ。   何でもいいから言ってみてと。  「じゃあいいますけど、近くで、近所で、殺人事件がありました。大分昔ですけど」  汁子の微笑みがとまり、目を閉じる。  「え、と。事件っていってももう風化したあとなんですが、六軒先の一戸建ての6人家族だったんです。私の家も近所付き合いは然程ありませんでしたが、人当りのいいお爺さんと4  0台くらいのご夫婦と子供3人いました。よく挨拶をしてくれたので覚えてます」  汁子はふんふん聞いていた。で、と続きを催促される。  「それで、多分小火だったんですよ。火災警報器がある夜にじりじりなって、どうも、誰かがやっちゃったみたいで、怒鳴り声が聞こえてきたんです。って思うじゃないですか普通」  黙って聞いてくれている。構わず続ける。  「どうにも放火だったようで、後のニュースでわかったんですけど、最初に庭から放火して、  家の中に侵入した男がいたんです。皆殺しだったようです。火は鎮火したみたいですが、凶行はとめられなかったみたいで、全員。私怨ではなく無差別だったと供述していました」  なるほどっと、目を瞑ったまま頷く汁子。  「い、いま思い出したんですけど、それからな気がします。私の周りで、不幸が」  すると汁子は目を開いた。  「わかった。大体把握したわ。で、貴方も思い出してくれて把握したはず。実際何が原因かなんてあまり関係ないの。ただ思い出して納得してくれたらよかっただけ」  「なるほど……でもそれなら」   何故に聞いたのかと問う前に、でも、と口を開く汁子。  「多分その殺人事件でダウトね。恐らくそこで現実感が薄れるレベルの邪念が生じたか。き  っとそれが偶々近くに住んでいた貴女へ向いたのね」  何が、と。  「もちろん怪異が、よ。飛び抜けた不幸ではない。でも貴女は今怪異によって異界化しかけていて、スキュラに狙われている。恐らくこの辺のほとんどの人が貴女と関わった瞬間に貴女を嫌うわ。そういう呪いのようなものをかけられていて、この現実の歪みを異界側でスキュラが喰うことによってあれは現実に顕現する。貴女はいわば、生贄」   放心していた。  「私はね」   指を天高く指し示す。  「……の前に、最近潰れたホテルよ。中に人はいないわ。私の戦略室なの」   そう言って勝手に入っていく汁子。ここまできては帰るわけにもいかず、帰りたくもない。  愛は渋々彼女について行った。  「私は、とりあえず貴女を救いたいの。スキュラも倒したいけど、一番はそれ。それが魔法少女の私にしか出来ないことなら尚更」   汁子はカビ臭い元ホテルの部屋で改めて愛を真正面から見る。  「それは分かりましたけど、魔法少女って」   まさかの魔法少女だ。そんな奴いるのか、実在したのか。聞くと汁子はクスクス笑って、「まあ普通はいないでしょうね。でも、異界化した世界ならありえるのよ。いわゆるその魔法少女の力も、世界の異界化で生まれた非現実的な存在だから」   適当に座ってと言われてとりあえずベッド横の椅子に腰掛けると汁子はベッドに座る。まるで自分の部屋のようにしていたが、多分他人の所有物だ。  「ここはね、実家が嫌で間借りさせてもらってるわ。まあ住居不法侵入ね。ぶっちゃけ」  いや、と軽く突っ込む。汁子は笑っていた。  「いいのよ。私この街の平和を守ってやってるんだから。それに、家には帰りたくないし…  …まあそれは置いといて」   いやいやいや。また突っ込むが汁子は笑うだけだ。  「話が逸れたわ。さて本題。貴女は今スキュラに狙われていて、異界化しかけている。喰われる寸前なの。恐らく貴女の精神崩壊を皮切りに完全に異界化したところを喰うつもりなのか、まだ遠くから見ているだけみたいだけど、ついさっき」  あ、と気づいたように。  「そう。あの時、崩壊寸前だった貴女の精神は異界と完全に同化しかけていた。向こう側に両手両足突っ込んでたの。死のうとしてたでしょう?」  愛は顔を伏せた。  「だから助けにきたの。そもそも貴女が喰われてスキュラが顕現したら、困るのは私達だからね」  「それで、なんでここなんですか?」   素朴な疑問だった。そもそもさっきから逃げ隠れしているのは何故か。  「それはね、貴女が、もう喰われかけているからよ」  説明になっていない。  「言い方を変えるわ。ここが戦略室なんて嘘。今の貴女はもうこの世の誰に関わっても命を狙われるってわけ。精神攻撃、直接的加害。なんでもしてくるわ。無理矢理筋道を作って貴女を殺しにくる。死にかけた貴女は絶好の餌食なの。死と生の狭間で、向こう側に全部出たところを喰われたら今度こそ終わりよ」   意味が、わからなかったはずなのに、わかる。おかしな事を言っているはずなのに、何故か信じてしまう。   それはもしかしたら自分が本当に異界化とやらになりかけていて、自覚があったからかもしれない。  「でも、助けるたって、どうやって」  ビシッと汁子が愛を指差した。  「それよそれ。だからね」   汁子は改めて愛を真正面から見た。そして、  「私は貴女と人生を交換しようと思ったわけ。私が貴女になるの。貴女が私になるの。そうすれば私は遠慮なく貴女としてスキュラを駆逐するし、貴女は私、来咲汁子になって適当に自由を満喫すれば良い。方法? そんなの簡単よ。貴女がその行為を心から許諾してくれればいいだけ。猶予はないわ。ここから出れば」   貴女は死ぬわ。そう言われたら愛はもう動けなかった。  「今決めて、死ぬか生きるか」   突然だった。さっき死のうと思っていた人間に唐突に生か死か選べと。  「貴女はわかる。貴女は強いわ」   愛はわからなかった。いきなりあったばかりの人間の突拍子もないおかしな発言を信じて人生を交換しろなんて、いかれている。現実感がなかった。   でも一つだけ簡単なことがある。わかりやすい解。愛はそれを答えた。ただ純粋に「生きたいです」と。  「でも本当に交換なんて」  「できるわ」  「私まだ心の準備が」  「できてるわ」  「何を」  「だって貴女、信じてないじゃない」  図星だった。  「貴女は信じてないから、ここに至るまで好奇心だけで私に着いてきた。そして信じてないけど本当だったら面白いからもし交換できるなら今すぐにでもしてしまいたいと思っている」   図星だった。  「私はね、他者の心が読めるの。そういう魔法を有している。だから貴女が交換したいって事も、今の貴女が本来の貴女じゃないこと、もっとサバサバしたわかりやすい人になりたいって事も、世の中を全部めちゃくちゃにして、恨みを晴らしたいって事も、この話を聞いた後ですらまだあいつらが憎いって事も、全部。脳天から爪の先まで、知ってる」  震えた。怖かった。でもそれ以上に、  「わかってるわ。怖いけど、興味がある。違う?」   そう。その通りだ。でも愛は頷けなかった。自分から頷いたら、  「それもわかってる。逃げたくないんでしょ。あいつらから。だから死のうとしてた。いじめで自殺する子の自殺動機は最後の牙よ。最後に命で牙をたてる。でも貴女には似合わないわ。正義で人は……いや正義で自分は救えない」   汁子はすっと手を差し出して、にこやかに微笑んだ。  「私ならもっと上手く立ち回るわ。知ってる? 人生交換ってね、最強にして最大の魔法なのよ。貴女は貴女でなくなった瞬間、きっと全てのしがらみから開放される。他人の人生だもの。自由よ。怖くないわ」   だから、こっちへきなさいと。  「貴女が魔法少女(わたし)になるの。私は残りカスの力でなんとかするわ。だから」  愛は一歩足を踏みしめた。交換って何をどう交換するのか。何もわからないけど。   変わりたかった。それが唯一無二の願いだった。   愛はさらに手を差し出して汁子の手に重ねた。   魔法が紡がれる。   光の糸が二人を包む。繭になり、二つの繭がまた解けていく。   そうして、双草愛は来咲汁子に、来咲汁子は双草愛に。  「ねえ何も変わってないですよ?」  「ああ、ごめんね、姿はそのままなの。でも皆の認識は完全に入れ替わったわ。試しにこの住所に行ってみなさいな」   汁子は、いや元汁子は紙に書いた住所を渡してきた。   元愛はそれを受け取ってすぐにホテルをでた。   半信半疑だった。でもたしかにあの光とあの繭は本物だった。  「これはありだ。なんか色々ありだ!」   ありだありだと叫びながら、街をかけた。  でも走り出して程なくの事。  「あれ、そういえばどこに向かってる私」   足が半自動的に目的地に向かう。でも元の自分の家ではない。そう気づいた時に同時にある事にも気づく。  「あれ、知らない道なのに」   知ってる。見た事のない歩道橋。見た事のない街路。見覚えのない家と緑の植った道。  「知ってる」   そう、知っていた。少しずつ、歩を進める都度に思い出す世界。   “触れた世界を思い出す”   不意に彼女の脳裏にそんなワードが飛び込んできた。  「そうか、これが」   人生の交換なのかもしれない。   彼女は真っ先に自宅へ向かった。道は覚えていた。周りをマンションや崖で囲まれた冴えない袋小路。   そう、両親がよく溢していたじゃないか。袋小路の家は道に迷いやすいって。人生が行き詰まる。だから早く引っ越した方がいい。  「ああ、記憶が入り込んでくる。面白いなあ」   汁子の両親は風水が好きだった。迷信めいたオカルトが好きだった。   気付いたら引っ越す前にリストラされてうっかり宗教に、気付いたら宗教で薬漬けにされて、何度かの逮捕の末、精神がついに壊れて妹が軽はずみに言った最近クラスの子が冷たいを、いじめと勘違いしてその学校に押しかけ、それらしい生徒を刺した。   共犯で捕まった二人が獄中死したのはそれから2年後。トチ狂った妹が両眼を工具で突き刺したのはそのすぐ後だ。   汁子はそれから意味のない惰性の日々を過ごしてきた。  「……」   そこまでを知って、言葉もなくなった。  「なるほどそれで」   死ぬにしたって妹がいるから死ぬに死ねず、かといって誰かに任せるような相手もいない。   ノロノロ。   思い出しながら家の前の暗い路地を行く。   玄関について鍵をポストから見つけて開ける。   すぐに素足で廊下を渡り、どこかの部屋の前を通ったらそこが妹の部屋の前である事と、使命を思い出した。   すぐ作るよーと声をかけて、でも返事はない。そもそも料理をした事がない。   襖を開けると寝息とともに寝ている多分来咲汁子の妹、楠葉にくすりとして、台所にむかう。福祉はあるが妹の楠葉は施設に入るのを嫌っている、らしい。   それからしばらく苦手な料理と格闘した。   楠葉が起きてきたのはそのやや後でお姉ちゃんと声がしたので慌ててかけつけた。   夕飯も終わると自室に行き、ガラリと窓を開け寝転がる。   翌日も同じだった。楠葉は生憎と寝ていたから、まじまじと見てしまった。目元には昔につけた傷が深々と目玉を削るように痕をつけている。  「さて、起きるまでご飯の支度しますか」   家の中を進めば進むほどに全てを思い出す。いや違う。   そうじゃない。動いているんじゃない。動かされている。  「そうかそういう事」   人生交換。つまりそれは姿こそ違えどその人物になる。  「まあでも、郷に入っては郷に従えとね。しばらくはこの調子で行くしかないが」  それから双草愛の手探り新生活は始まった。   一か月目はまだ大丈夫だった。雪かきも人生最初の一日目は楽しいものだ。   もう一か月経てど平気だった。   彼女はむしろ謳歌していた。人生を。いじめの無い世界を。   三カ月目でもまだましだった。   何故かって人間三カ月そこいらじゃ、そこにある平穏の真贋は見極めがつかないものなのだ。   翌朝4時、彼女は叩き起こされた。楠葉が呻いていたからだ。   ぎゃあぎゃあいいながら薄い戸板を三つ四つ挟んだ部屋越しじゃ声はよく通る。何事か聞きに行くと、楠葉はこちらの顔を見もせずに叫ぶだけだった。  「落ち着いてよ」  「いやだいやだイヤだああ!」  「困ったなあ」   って言ってられるうちは花だろう。   何度かそれが続いたが、その時はまだ境遇のせいだと思っていたし、どこか他人事に感じたので危機感はなかった。   収まってからつぎに来たのは数多の督促状だった。  「何これ」   内訳をみてもわからなかったので電話してすぐに買いだめた食料品だと気づいた。それ以外にも積もり積もった過去の請求書がわんさと出てきた。つまりお金がない家なのだ。   その少し後に公共料金の請求書も届いた。金がなかった。   楠葉に聞いたが案の定よく知らないらしい。  多分、借金をする当てもなかったのだろう。   こうなってくると他人事ではなかった。   すぐに考え方を変えた。   妹に福祉の事と費用に関して詳しく聞いたが、全部姉に任せていたの一点張りだった。  しばらく家の中を漁って該当の資料をみつけると記憶が戻ったのでこれはなんとかなった。   それでも福祉だけでは明らかに二人が生きるのには足りない。   全盲の福祉なら障害年金の他様々な助成が受けられるはずなのに、彼女にはそれが出なかった。来咲の名前を出すと両親への遺恨か、何故かうちでは無理だと煙に巻かれた。   結局年金の6万5千円。公共料金に1万消え、食費に3万消え、その他生活雑貨やらに色々消えて、五千円残った日は貯金したがよくわからない督促状に全部消えた。    さすがにやばいとバイトをし始めようとしたが、年齢で弾かれる。役所にいけば施設を勧められ妹に聞けば発狂するほど拒絶する。   無理矢理年齢不問で履歴書不用の出会い系やらチャットレディやら怪しさ抜群の業種でバイトをしようとしたところでようやく気付いた。   ああ、もうこれ私なんだ、と。   他人事じゃないんだと。   自分が来咲汁子だと気付いた時、ようやく何かに触れたのか、全てが流れ込んできた。  濁流の如き思考。   彼女が汁子が、双草愛を見つけたのは、必然で。いい子守役が見つかったから。安堵したし嬉々としたのは、妹の世話は大変だから。   元々貧乏な家に金もなく仕事の当ても無い。魔法があろうと金の足しにはならないから。  ネジを回せば勝手に動く地獄のぜんまい人形はすぐに見つかった。   汁子はSNSでみつけた○○中学のいじめられっ子に目星をつけた。その子に嘘をついた。  彼女の記憶が次々と流れ込んでくる。   適当な嘘で騙して嵌める。元来汁子の特異魔法は誰かと人生を交換をするだけのちんけな魔法だった。   でもだから彼女は繰り返した。いつも通り、また、次もまたと人生交換をする。この前代の汁子もまた人生交換をしてきたのだ。   元が誰だったかもわからない。   そうして——もう死ねるなら後は全部任せてしまえと、自棄になった。   つまり逃げた。介護疲れの姉が妹を赤の他人を騙して押しつけて自分はとんずら。   笑えなさ過ぎて涙もでない。何人の歴史があったのか。皆が時間の経過とともに自分事になりながら、誰かになすりつけてきた歴史。   なすりつけられた人達と、それに騙されてきた楠葉。最低の現実。これこそが異界化じゃあないのかと。   それから元、双草愛はどれだけそうしていたかわからない。   他人の人生の体験版をプレイしているうちは辛いハズがない、でも本編に入れば、その痛みがわかった。   でもそれでも、あの地獄よりはマシだった。  「それに」  その前に。   元愛は、愛自身の事をまだ思い出す。   あの異界化云々がもし嘘なら皆の悪意は本物で、元の双草愛は自身の人生に未練はない。  つまりそれがわかっていたから、  「助けてくれた」   いや違う。  「死にたかったんだ、ただ単に」   この世から退場したかったのだ。前代の来咲汁子も愛の前に人生交換する前は酷い人生だったのかもしれない。   そう思って涙したのはその日の夕方、速報で、双草愛さんが学校の屋上から飛び降り自殺をしたと聞いてからである。   そうして、来咲汁子の記憶の侵食は止まった。   双草愛の自殺をきいて程なく、彼女はバイトを探していた。   基本的には元々持っていたスマホで探していたのだが、ある時から契約がきれてWi-Fiのみの接続となったため、Wi-Fiがないので近所のコンビニの無料のやつを使う。   イートインコーナーで安いおにぎりと缶コーヒーを片手に長らく探していたが、  「ない! くそお、どうすれば……くそお」   一人でぶつぶつ言っていたところで、店員さんが後ろから近づいて肩を叩いてきた。  「あの、お客様。こちらの使用は1人二時間までとなっておりまして」  しまったとばつの悪い顔で苦笑いする。  「あはは、すいません。今退きますので」   見れば周りの席が全部埋まっていた。これはいい迷惑だろう。  「よろしくお願いします、あっところで」  「はい?」  「さっきあなたについてきた動物……いえなんでもありません」  「へ?」  「すいませんお気になさらず」   店員はそう言ってなおも、あれは野良か、と呟きながら去って行く。   なんだなんだと思いながら帰路に着いた。   彼女、現、来咲汁子の家はマップでみると、都会の割に結構な僻地に立っている。土砂と浸水の2つのハザードにかかっていて、ネットで調べたところ測量の記録では1メートルまでしか接道してないらしい。   再建築不可だ。築ウン十年の古い家屋なのでこれを売るには公示地価のニ分の一程度に下げる必要があり、上物は価値がないから壊し代も入れたら数百万がせいぜいだという嘘くささだ。   一度売ることも考えたのだが、住み替えで賃貸アパートにしたとして逆に高くつくし、家賃を払う余裕はない。生活保護は断られた。資産(いえ)がなくなればおりるかもと言っていたが、あの家に資産価値はない。多分また来咲の名前でケチがついたのだろうと思った。   家を見下ろすように家の隣の急坂を下る。いつものコースだ。  そんないつものコースだが、今日は足跡があった。  「肉球? だよね」   猫が泥を踏んだ足で歩いているらしい。   ずっと自宅の方まで伸びていた。  「まっいっか」   と、気にせず玄関を潜りただいまを言った。   楠葉はまだ寝ていた。   仕方なく夕飯の支度に入る。いや入ろうとした。   自室に一旦戻り台所に行こうとしたが、窓から泥つきのあの足跡がずっと伸びていた。  「まさか。侵入?」   そうに違いない。犬か猫かしらないが、動物の嗅覚はすごい。   そろそろと足跡を辿りそれが台所に続く。   間違いない。確信した彼女は腰を落とした。   気付かれぬギリギリで近づいて思いっきり飛び付く。   そしてリビングから台所に。いた。冷蔵庫の隅にある非常食置き場でガサゴソやってる。  「猫!?」  「にゃあ!?」   猫だった。   もう幾つもの缶詰が食い散らされ、今はシーチキンに手をつけている。猫ってシーチキン食うのか、知らないけど。  「うちの大事な非常食をこらあ!」  飛び掛かった。  「にゃあああ!?」   するりと逃げるその口にはシーチキンの食べカス。  「くっ、許さない」   睨み合う。何故か猫の方まで彼女を睨んでいる。  「お、お」「は?」    お、ってなんだよ。その音でるのか。そう思った瞬間だった。  「俺だって! 食わなきゃ死ぬんだよ! 仕方ねえだろ!」  お、おいおいと。彼女の目がまーるくなる。  「え……猫喋った」   ふんと、ふてくされたような顔で口周りのシーチキンを舌で回収している。  「ああ、そりゃ喋るさ。俺は猫は猫でも、特別賢い猫だからな」  「説明になってないんですが……」  「だあかあらあ? 猫が喋ると何か不都合でもあるのかよ?」「いや怖いじゃん猫喋ったら」 「どの辺が?」  「いや喋るってことは人間と同じように気使わなきゃいけないし、餌忘れたら怒られるし、関係を維持するの大変そうだし」  ぽかんとしている猫。  「いやいや、そんな殺生な! 俺だってちゃんと生きてんだ! 会話くらいさせろよ!」  彼女は頭を抱えた。頭痛が痛い。言語がおかしい。  「とりあえずお腹減ってるの?」  「もう一缶くれるのか! くれ!」   とりあえず膠着状態を抜け出す為に大量のサバ缶を与えて、しばらく自室で寝かしたら元気になって色々話し始めた。  「俺は来咲汁子専任のバグさ! 魔法少女のナビゲーターだと思ってくれていい。本当はもっと早く姿を現したかったんだが、双草愛の魔力が残っているうちはあいつに着いてたんだ。死んじまったけどな」  「うーん。つまり」「お前のナビだよ」   それじゃわからない。  「普通に考えればわかるさ。魔法少女は本来知識を持たない。力のみの存在だ。だから俺たち力を与えるしかできないバグが優しくナビゲートして活動の支援をするのさ」  「って事は君はわたしの」  「そうさ、まあお助け猫みたいなものだ」  「な、なるほど……」   そう言っても、やはりわからない。魔法少女の知識が彼女にはまだなかった。   すると彼女の表情から無理解を読み取ったのか、まあまて、と手前に歩み寄る。   地面に手をついて、  「来咲汁子の第六代目よ。お前に新しい石と、ステッキを授けよう」   疑問で固まっている彼女を無視して、  「とはいえこれは感覚だ。カラクリはわからないし何の力もないが、そういう存在という認知が始めからあり魔法少女にはお役目を果たしてもらうというバグなりの認知の歪みがある。与えられる力は特異魔法とステッキがそれぞれひとつのみ。これは決まりみたいなものだ。地球が丸くて、人間が二足歩行なのと同じくらい当たり前の決まりだ。よくわかんねーけどな」   ごほんと、猫が咳払いする。  「お前ら来咲汁子は繰り返し人生交換の魔法を使って、ルールを何度も上塗りできるようにした。反則みたいなもんだ。でも使える。使えるってことは、使っていいんだ」   犯罪者の屁理屈みたいな事を言っていた。  「さあじゃあ、手を出して」  「いやまあ手ぐらい、いいけど何を」   と、その直後。触れた手から光が迸る。うわーとひっくり返りそうになるも、光が接着し  たみたいに離れない。そして、  「もうちょっとだ。今俺の中の異能をお前に移してる」   光が宝石のように輝いて2 人の間で四散している。それが徐々に薄れていき、やがて消えた。  「まさか」  「そう、お前の中にお前の特異魔法が宿った。あとはステッキだ。ステッキだけは前代が死ねば消える事になってるんだが、これは例外ってやつだ」   そう言って猫は箪笥を漁りだす。彼女はそれをぼうっと見ていた。  「コイツだ」   コインだった。しかし錆びて汚れている。  「あとはお前のステッキだが、これは巡り合いなんだ。偶々こっちを歩いていていいアイテムを見つけたら十中八九ステッキさ。誰が探してもいいんだが、俺は生憎死にかけてたんでな」   とりあえず、彼女は一旦落ち着くために床に座る。猫の耳に手をやって、引っ張った。そして言った。  「お前えらそうだ。ドラ猫」    「ドラ猫じゃねえ!  バグだ!」  「いやシーチキン泥棒だからシーチキンだ。バグはなんかださい」  「な、お、お前!?」   あははと笑ってまた耳を引っ張った。   耳が弱いのかすぐ大人しくなって楽しくて何度もやった。   彼女がウレタンとして声優界に飛び込んだのはそれからしばらくのことである。   しばらくお待ち下さいませ。   ただいまデータをダウンロードしています。   そんな機械音声と共にウレタンは目を覚ました。   テーブルの上に腕枕をしてうたた寝していたようだ。   テーブルの向かいっかたにシーチキンがいて器用にウレタンのスマートフォンを操作していて、あー、ここでマップがバグったーとか言っている。   いやいや待て待て。   シーチキンはスマホの操作は無理だったはずだ。   つまりこれは、夢。   すぐに覚める必要があった。   なんでか忘れたけど、現実では何か困ったことがあった気がする。今すぐに戻らなければならないような。  「本当か?」   シーチキンが口を開いた。   ウレタンは頷いた。  「お前が今見ている夢は本当にすぐ覚めるべきものか?」  意味がわからない。   シーチキンはスマホの操作をやめて、歩み寄る。  「あっちはめんどくせえぞ。楠葉は死んだし、元のお前は死んでるし、魔法少女はバタバタ死んだし、戻ればお前は向き合わなきゃならない」  そんな必要はないとウレタンは思う。  「なんでだ?」  「だって人間の役割なんて所詮は演技だからだ」  「詳しく」  「さあ。でも少なくとも私の見てきた人間は皆、肩書きという仮面を着て、自分の生活や名誉やそういう不確かなもんを守る為に仮面を何重にも被せて生きていた。めんどくせーだろ。だからこの夢から覚めても用事は済ませるけど、それだけだ」  シーチキンはまじまじとウレタンを見る。  「ああ、つまり親は親の、子は子の、生徒は生徒の、教師は教師の、市民は市民の、政治家は政治家の、敵は敵の、味方は味方の、人は人の、当たり前を演じる事で」  「そう。だから私はこれまで自分の役割には酷くドライだっただろ。知っているからだよ。あの時いじめられていた双草愛でさえ、いじめられっ子の役割を演じていたに過ぎない。望むと望まざるとに関わらず人は人の仮初の役割をなぞる事で少し安心してんだ。役割を役割だと思わない事で人は人として生きていける。虎だって捕食者としての自我と役割がある。これが自分の強さの認識をなくしてしまったら、たちまちに草を食う弱者だ。草食ってる鹿だって肉食になる時はあるが完全にジョブチェンジしたら、狙われるようになるし、そ  んな強さはない。そういう当たり前がなくなるのは怖いんだよ」  「つまり」  「皆役割に騙されているのさ。役割はさ、自分が望んだときにだけそれになればいい。だったらそんなの、役割、でもなんでもないだろ。ただの望む自分だ。だから私は勝手にやってきた。あっちに戻っても、いつも通り、自分のしたい事をするだけだ。魔法少女も来咲汁子も知らない。生活も妹も友達もどうでもいい。」  「でもお前がやってきたことって全部」  シーチキンが顔を覗き込んでいた。  「あの妹の目を直す為。生活を建て直すため。全部生活を守る為だろ」  ウレタンは立ち上がり、部屋を出る為に移動する。そこにシーチキンもついてくる。  「両目で八百万だ」   ウレタンはため息を吐いた。  「貯めてきたのは楠葉のためだ。それだけあれば、先進医療が受けられる。まだ目の再生医療は不完全だ。でも数年後には現実味を帯びてくる。励ます為のジョークだったかもしれねえ。でもあの日主治医に聞いた言葉でお前は」  「人間が嫌いだからだ。じゃなきゃあんなことするか」  「それでもお前の悪には意味があった」   これは夢だ。だからわけわからない言葉がぽこぽこと出てくる。  「お前はただの悪じゃねえ。意味のある悪だ」  意味がわからない。  「虐めは悪だ悪だと刷り込まれる儀式だ。でもあの虐めはお前にもう一つの役割を与えていたんだ」   立ち塞がるシーチキン。  「お前は役割を演じるまでもない。既にお前はなってるよ。お前の望む。何せお前は」  シーチキンが何か言った。聞き取れなかった。でも意味だけはわかって、反論しようとして目が覚めた。  「夢……」   火葬が終わって親戚の人達と、食事を囲んでいた。   皆下を向いているわけでもなく、小さな子供達もいて、好き勝手に出歩いている。   当のウレタンはと言えば寝ていたわけだ。  「ぶったまげたな。ようやく起きたか」   シーチキンが呆れた顔でウレタンのそばによる。  「ま、疲れたんだろ。もう少し寝るか?」  今度はウレタンが呆れ顔をする番だった。   来咲楠葉は死んだ。検死するまでもなかったが一応の検死の結果、やはり自殺だった。  動機もすぐに分かった。   遺書には、耐えられない。生きていけない。何も楽しい事がない。次は光ある世界に生まれますと書いてあった。   警察に突っ込まれたのは以下の記述である。  『唯一無二の姉が私には救いでした。でも私はお荷物が嫌だった。姉は私の存在が苦で何度も姉じゃなくなった。別人みたいに話しかけてくる。多分今の姉はもう元の姉ではないのだと思います。本当の家族はもうどこにもいない。それに気付いたので私は旅立つ事を決意しました。追伸、今までありがとう。お仕事がんばってね』   姉偽物説が上がったものの、公的な書類上もそうだし勿論親戚も色々フォローしてくれたおかげで、ちゃんと違う解釈はされたのだが。  楠葉が死んだ事を必然だったとは思っていない。   でもなら、解決できたかというと結局は見えない未来の医療技術に頼るしかなかったし、それだけが理由だったわけじゃない。   そして今、彼女が死んだ事でウレタンは確実に一人になった。  「ん? どうしたんだ」   座布団にぺたんと座って不意にシーチキンの頭を撫でていた。それに対して彼は何も言わない。ただ見上げてじっとウレタンを見て目を逸らした。   葬式は終わった。今は楠葉の親戚たちと高級な料亭で懐石料理を食べていた。無論ウレタンは一口も口に運んでいない。   ウレタンの代わりに喪主をやってくれた今年で48になる叔母に断ってシーチキンに全部あげた。   叔母は「食べて大丈夫―?」と戯けていたが、シーチキンががっついてるのをみて、あらまあと笑っていた。   来咲家は因縁だらけの家だったが両親も妹の楠葉も死んで、彼らには残された汁子がやたら可哀想にみえたらしく、本当に優しくしてもらえた。  「どうせならうちにくる? 煩いのが二匹居るけど仲良くできるなら構わないよ」  そう言っても、もらえたが流石に悪いので気持ちだけ貰っておいた。  「あ、ねえお姉ちゃん」   ふと親戚の子供が1人。  「遊んでよ! 暇だよ! 遊ぼう!」  そう言ってくれた。  「ちょっと! こんな時に、めっ!」  「えー!」   親が躾けている。ウレタンはふっと笑った。子供が、あっ、と。   「笑った笑った!」   あはあは言ってからちょっとトイレと駆けていく。親はひたすら謝ってきたが、  「大丈夫ですよ。むしろ元気になりました」  嘘だった。でもそう言ってあげたかった。   程なくして皆帰った。ウレタンは車で送るという申し出を拒否した。   そして、また雨が降ってきた。   シーチキンと二人で料亭の庇の下で立ち尽くしていた。  二人とも無言だった。   静かだった。頭の中も静かだった。何も考えていない。   不意に電話がなって、それも無視した。   しかし、またかかった。無視した。するとイタ電のように何度もかかってきた。   着信をみると、あかりと。そうだ。双草愛の時の携帯をそのまま使っていた。電話帳もそのままに、再契約した。   望野、あかり。あー、とウレタン。そう前に一度来咲になってから携帯を再契約したあとに新しい電話番号で彼女達に電話した事があった。   その時は何を話すべきか悩んで無言電話だったけれど、あかり達の察しは良かったようで、誰が無言をかけてきたかわかったのか、チャットアプリ側に自動追加されていた。  まあそのウレタン側のアイコンがまんま、ウレタン、だからそりゃバレバレだった。  「どうした? 早く切れよ」  「あ、ああ」   しかしどうにも長い。大事な用でもあるのだろうか。  そう思っていたところで、シーチキンが待て、と。  「みてみろ。向こうの車の中! カーテレビ! みろ!」   視線だけ向けてきになると近づいた。テレビに熊のぬいぐるみが映っている。そして向こう側の世界。異界だった。  「こいつは……」   なんだなんだと、シーチキンをみれば、険しい顔で悩んでいた。  「わからねえ。ちっ、こんな時に。おいウレタン! なんか言ってる。中に入れるか!?」  やったらまずいが、ドアが開かないか調べてみた。やはり開かない。仕方なく、劣化させて開けようとしたがすんでのところで躊躇した。  「チッ。向こうで何かあったんだ」   鳴り続ける携帯電話。シーチキンの切羽詰まった声。   ウレタンは電話にでた。   第一声が、  『ウレタン! 助けて!』だ。  『あかり、か?』  しばらくの間。  『そうだよ! 今大変なの! ゆ、雪子が』   貞原雪子は来咲汁子になってから少し話した記憶がある。  『雪子が、こっちで食われてしまったの! なんか恐ろしい奴らに!』   あかりはこの電話伝いじゃなくても平時からウレタンを双草愛と認識している。  何故かそう。   二人はウレタンの事を双草愛だと認識している。   人生交換した後の死んだ双草愛の事も、ウレタンだと認識していた。彼女達の認識は何故か二人そろって双草愛と来咲汁子がごっちゃになっている。   何故かってわからない。わからないけど、唯一無二のーー昔の自分を知る人物だった。  『どこだよ!? いま!?』   ウレタンは叫んだ。電話越しに。  『わからない! いまこの糞うざいバグとかいうあいつにずっと操られてたんだけど、駒が減りすぎたとかなんとかで力配分が戻って解放されたみたい……とにかくお願い、ようやく正気に戻れた! わからないよ! 何もわからないまま死ぬのはいや! なんでウレタンが私達から離れたのか知らないけど、でもごめん、私まだ、死にたく、なくて、ごめんね、なんかごめん』   かけ直したがアナウンスがあって留守番だった。  「ウレタン!」   シーチキンが叫んだ。  「異界だ! どうするよ? 探しても見つかるかは知らないぜ!?」  一にも二にもない。   もう本当のウレタンを知る人は彼女達しかいない。   しかし次も帰ってこれる保証はない。  「へっ」   顔を伏せて小さく笑う。   ウレタンは目を閉じた。目蓋の裏に道を作る。道の先に光溢れるゴールが。その先へ。   そしてもう一度、異界に。 「とりあえず、走るぞ」   シーチキンが返事の代わりにボディーバッグに飛び移る。   ウレタンは地面を蹴った。飛翔はしない。無駄な工程を極力省く。 「ていうかメーテアだよメーテア。アイツがいつくるかわかんねえと、余計な敵連れて行って余計にややこしくなんだよ!」  「ならいっそのこと」   シーチキンが顔を出し不敵に笑う  「まさか」  「そうだ。連れていくってのはどうだ。俺たちは爆弾抱えて走ってるようなもんだ。来られても迷惑だろうが、わざわざお呼ばれしてんだ。共闘する」   悪くない案かもしれないと、ウレタンは思った。   遠く向こうにある橋の上。停車した電車で赤い光がちらちらしていた。 「炎?でもあの辺りなんか異様な気配だな」   ウレタンはここぞとばかりに手袋を後方斜め下に向けた。そして放つと同時に地面を弾く様に蹴る。   爆発的跳躍力で一気に距離は縮まり、そのまま電車の窓ガラスを手袋で消して、侵入と同時。 『ご乗車ありがとうございます。ただいまこの電車は』   周りを見回す。  『車内トラブルのため、一時停車しております。もうしばらく』   異界側の車内トラブルは先頭から2車両目まで暗黒に呑まれていた。迫る暗黒。   そして、対峙する誰か──。 「あ、あかり?」  「ウレタン!」   3両目の隅で倒れた別の少女を介抱する望野あかりと、ぬいぐるみがいた。   ぬいぐるみが動いてこちらに気付いて、顔をむけた。  「きたようだね」  「ああ間違いないなバグだ」   シーチキンは即答した。 「倒し方に失敗したんだよ」   いきなりぬいぐるみが喋った。   どういうことかと聞く前にあかりが、  「それより、ウレタンは本当にあの、彼女なの?」  「は?」  「ずっと気になってたんだよね。あの時いじめられていたのが、本当にウレタンなのかなって」   こんな話をしている場合じゃないと思いつつ、 「違うと言ったら?」  「でもどっからどうみてもあの時の」   ウレタンは鍵をバッグのサイドポケットから取り出して空中に差し込む。  「もし、そうだとしても」   ダイスを開く。中には一振りの長剣があった。取り出すと使い方が即浮かぶ。  「私はとりあえず助けに来ただけのただの馬鹿だよ! 今はな!」   シーチキンもバッグから飛び出して迫る暗黒と対峙する。   するとぬいぐるみが皆の中央に立つようにポテポテと移動する。しながら言った。  「まず、僕らが来た時はあの暗黒はまだメーテアだった」  「あいつメーテアなのか!?」  どうりでこないわけだ。  「そして僕らが来た時メーテアは倒された後だった」  「わかりやすく言え! そもそもお前の手持ちの魔法少女はもっといたはずだ」  「まあ待ってくれ。で、メーテアを倒したのは五人組の魔法少女だよ。まあ生き残りが彼ら以外居なかったから、最後のセーフティーネットになってたみたいだね。僕らがついた頃に  はメーテアが倒された後で、一件落着さ。言葉もなかった」  「じゃあ」   この暗黒はなんなのか。  「あれは奴がよく雑魚の召喚に使っていた、泡だ。失敗したと言った。あれには倒し方があった。奴があの漆黒の泡を出していない時に倒さないと、今度はあっちが本体となって活躍し始める」  「そりゃあ……めんどくせえな」   「あれに僕の方で保有していた駒が何人かやられた。雑魚の群れに数人持っていかれた直後さ。手痛いな」   あかりも別の意味で悔しそうに俯いている。  「これがバグだ」   シーチキンが舌を打つ真似をした。   するとぬいぐるみがシーチキンを見て、  「バグ含む異界の化け物たちは皆食いあってる。現実世界の食物連鎖と同じだ。お前は善を気取っているただのデクだ」  「なんだと!?」   二匹のやり取りを無視してウレタンは剣を構える。  そして、  「ありがとよ。今ので準備できたぜ。さあ飛ばして行こうか」  剣を正眼に構える。   西洋の真っ直ぐな長剣。  シンプルな刀身と刃先。   いくぜ。   ウレタンは数回ステップを踏んだ。   そして、  「はあああ!」   切り裂いた。縦に一閃。風圧が闇を切り裂き縦に真っ二つにした。   ただの風でないことは一目瞭然だ。   しかし問題がある。  「だせえなその武器。オイ」  「言うなよ。わかってる」   相手が相手なので、効いたかどうかと様子見するまでもなく、離れていた闇同士が合体する。   ウレタンは今度はマックスまで貯めることにした。所詮は三分クッキングだ。時間が経てば次の武器を出せる。   あかりがウレタンを見た。  「雪子の事はまた後でね」   期待されても困ると思いつつ、ウレタンは言った。  「助かったら飯奢ってくれ」   返答もまだなのにシーチキンが「まじか!」と反応。   何をどうやって止められるかもわからない、敵、に対してウレタンは長剣を今度は縦横無尽に斬りつけた。   その一刀が強力だったのか、しばらくその縦の斬撃の痕は消えず、暗黒が分離したまま膠着が続いた。   その隙を見逃すウレタンではない。  「逃げっぞ。こんな狭いところで戦えるかよ!」   いうや否やシーチキンがインザバッグし、ウレタンがあかりの手を引いて、あかりはぬいぐるみを持って後方に大きくジャンプした。  「逃げ!」   るに決まっている。  あかりの叫びに脊髄反射して、片手から重力を放つ。後ろ向きに大きくジャンプ。そのまま滑空した。  「見極めろよウレタン」   シーチキンがバッグの中から。  「ああなった奴の目的は喰うことだけだろうな。そしてあの中で何が起きるのかも分から  ない。試すわけにもいかない。さしずめ、動くブラックホールってとこか」   ウレタンは滑空したまま、後ろ向きに鍵をさし足場をまた蹴る。あかりが「こんな真似が」と驚いていた。  「飛べる魔法少女もいるだろう。珍しくもないさ。しかし」    バグが、  「君たちには何ができる?」   今度はウレタンとシーチキンが悩んだ。  「わからねーよ。あの不死身にどんな攻撃が通るのか。でも、今は逃げるしか」  「しかないよな。あいつの手駒はあと何人だ?」   シーチキンが聞くと、  「残念だが、君らが来た時に残り二人だった。なら自明の理。元々途中で一人、大事な駒を失ったのが痛かったね」   ぬいぐるみは、抱き抱えられながら言った。「実はこの前。メーテアと雑魚に何人かやられる前に僕の駒の中で最強の魔法少女が死んだ。いや喰われたが正解だ」   もしかして、  「そう、それがさっき私がウレタンを呼んだ理由。雪子。喰われたんだよ! なんか二足歩行のスラっと足の長い人面犬みたいな化け物に」  犬神みたいなのをウレタンは想像した。   暗黒は今のウレタンより早い。徐々に距離を詰めている。シーチキンが、  「なら、ウレタン!」  「ああ、行く」   ウレタンはもう一度足場を作る。そしてもう一度後ろを見ながら飛んだ。着地したのは次は本当の足場。高層ビルの屋上だった。  「さてと」   前にはメーテア。宙をうねる滝のように、空を舞う大蛇の様に暗黒が迫る。  「あれに触れると身動きが取れなくなる。そのまま嗚咽しながら駒の一人が飲まれたよ。気をつけるんだ」   あかりはぬいぐるみの顔を思いっきりつねって、  「とにかくお願いウレタン。私は全然戦闘向きじゃないからさ」  「言われなくともっ!」   ウレタンはあかりの手を離した。逆流させた重力とともに飛び上がると、  「まさかお前!」   体勢をみて気付いたシーチキンが叫んだが遅い。  「さあ来い」   お試しのつもりだった、蛇行しながら向かってくる暗黒の蛇を、間近。手袋を前に出す。   翳した手袋と暗黒面が衝突。   直後。   ふおん、と。   変な音を発して暗黒が消失した。   完全に、何一つ残さず、綺麗に消えた。  「お、お前」  「笑うしかない」   消えた。まさかこのステッキであっさり消えるとは思わなかった。それが本当にあっさり。スイッチをオフにしたように消えた。   皆呆然としていた。これはいかがなものかと。あれだけ手こずっておきながらステッキで消失するボス級。  「あ、あはは」   当然の反応をするあかり。ぬいぐるみは絶句しシーチキンはしかし、  「待て」  「なんだ?」  「お前本当に消えたのかそれ?」  「あ」  「そうだ。原理は俺ですらよく知らないが、消した物は基本的に異次元にある。そうそれはいずれ、出さなければならない。つまり」  そう、封印に近い。でも考えがあった。   消したメーテアは後で別の場所に出現させる。でもそれはいつでもいいのだ。ウレタンは以前に手袋で最長何日これを維持できるか試した。   すると胃の中のものが消化されてでてくるように、二カ月かけてそれが出てきた。   でも、  「ひとまずは一件落着か」   そう、  「うんでも、雪子はまだだからウレタン!」  「でもひとまずは落ち着いた。その犬っころはあとで見つけるとして、私らはまず」  ぬいぐるみの方に体を向けた。   小さな作り物の体で、ため息をつくぬいぐるみのバグ。  「生憎と、向こう側に戻る術もない。君らは僕がたくさんの魔法少女を操っていたから笛があるだろうと、そういうわけだ。残念だが」   あかりはぬいぐるみの口の中を弄った。チャックを開けてポケットも弄る。  「やりい」   ぴったり3本。ぬいぐるみのバグが言葉を無くしている。  「お前、契約してる魔法少女リセットして、一旦ゼロからまた探そうとしてたろ。ちっ……」  でもと、あかりが、  「これで雪子を救い出してここから出る目処がついたね」   肝心なのがその方法だ。あかりの言う化け物がどこにいるのか、まず探さなければいけない。  「簡単じゃないよね、でも誘き出しちゃだめだよ。だってあいつは」  何か言おうとしたあかりの目が大きく見開く。   なんだと思った直後である。   シーチキンが叫んだ。   「それを早く捨てろウレタン――!」  ウレタンの手から手が生えていた。   いや違う。それは明確に手袋から生えていた。  「やっば」   言う暇も惜しむように手袋を強引に脱ぎ捨てる。  そこから、這い出すように、腕が伸びる。   無数。数えきれない本数のうでが、飛び出して次に胴体がでる。   肌を露出した胴体は鈍色をしている。   胴体が片側の手袋からも飛び出る。こちらは腕が後から出て、顔が次に出て、最後に足だった。   最早生き物の形をなさない化け物が二匹。   手や胴体についた手袋はそのまま手掴みで彼らの胃に消える。  「おい」とシーチキン。  つまり。  「やばいね」とウレタン。  「逃げるぞ……」   そう言ってシーチキンはバッグに引きこもった。   ウレタンも本音を言えば引きこもりたくてしょうがない。  「おい! 笛貸せあかり!」  「え、でも。雪子が」  「ここで全員倒れたらどうしようもない!」   しばし逡巡するあかり。本当はそんな暇さえないが、あかりにとっては大事な時間だったようで、程なくわかったと言って笛を投げてきた。   ウレタンがキャッチする。   もうメーテアは復活の儀を終えたようで、薄気味悪く非対称な瞳で、2人と二匹をじっとみていた。  「先に行ってくれ! その隙はカバーする!」  あかりを見る。いない。   言っていた間に飛んだようだった。   さて、と心の中で呟き笛を手に、前を見据える。   メーテアが戯けた調子で「え? え?」と首を傾げている。   その容姿は最早自称ですら美姫を名乗れる代物ではない。身体の位置がバラバラで、目から赤い血が垂れ、まるでバラバラ死体を無理矢理繋ぎ合わせたような、奇異。   ウレタンとメーテアの間には、時空の壁があるように、膠着していた。   やがて、緊張をほぐす様に、  「お前嘘だろあれ」  「バレたか」   シーチキンはいつも通りだった。  「まあ確かに足手まといだな。あのバグはあの感じじゃ協力はしないさ。あれが正解だ」  「ああでもしないと、あいつは安心して飛ばなかったしな。それに」   ウレタンが笛を吹く。メーテアはピクリともしない。わかっているから。  「やはりか」   捕捉されているのはウレタンだけ。  「ああ、帰れない」  「倒すまでな」   揺らぐ。滲む。光の錦。   太陽が消えた異界の闇に滲む光が、戦闘の演出のように揺蕩う。  「視線を逸らすなよ。奴は視界から消えると早い」  「倒し方考えようぜ」   意識を逸らさないように腰辺りで鍵を差す。  出てきたのは、錫杖。「は?」と思わず声。  「いや、似合ってる。ぷくく」  「ありえねー……」   くきくきっとメーテアの何かが。  「首、今回は骨があるみたいだぜ」   確かにプラプラしていない。片方は首がそもそもないが、関節が前よりはっきりしている。  「いや、どうでも」  いや、待てよ。   首に骨が通ってる。もう片方も異質だが、骨格がある。前回との違い。   それだけ。でももしかして。    ウレタンは考えた。メーテアが今回に限り、そんな微細な変更をした理由。   「いや」    違う。理由なんざない。あれは元来、そういうものなのだ。   つまり。  「おい、シーチキン」   顔だけ出したシーチキンは不思議そうに「ん?」と。   この闘い。  「勝てるかもしれねえ」   ふっと薄く笑うウレタンにシーチキンは尚も疑問を口にするが。  「ようするにあいつ今、不定形から微有形に戻ってるんだよ。何度か退治された事でな。より形が定まってきてる。なんて」  かもしれないレベルだけど。  「刺激を浴びることで進化する微生物みたいなもんだ」  「つまり」   勝てる、かも、しれない。   ウレタンは錫杖を構えて、虚空に向けて何度か振った。  「少し重い杖だと思えばなんとかなる」  頭に浮かんだ錫杖の使い方は、瞑想。心を無にすれば汝、その身を癒さん、とかなんとか。   これではどうにもならない。だから三分。これで持ち堪えて、いい出目を待つ。ひたすら。  ウレタンは飛び出した。真横に。きっかけとなりメーテアも動く。ウレタンは錫杖を構え、ビルの屋上から、飛んだ。   自由落下する。一切の抵抗もなく。着陸は死を意味し、いくら身体強度が上がっていたとして、高層ビルの屋上から落ちて助かる保証はない。  「おい! 俺まで殺す気か!」   シーチキンの言はもっともで、何故飛んだかと言われたら逃げる以外の目的はない。つまり、悪手。  「ってわけでもないんだなあこれが!」  勿論、死ぬ確率は極めて高い。   手袋はない。  「どうする気だよ!?」  「今の状況で、あいつと対峙してる方がやばいんだよ! でも」  迫る地上。数秒もなく、間近に迫る。  「南無三!」   シーチキンが祈る。ウレタンは錫杖を下よりに構えて、瞑想した。   何も考えず心を無にし、直後。   衝撃が全身を駆け巡る。   足が割れたような痛み。痛みなんて、易しい言葉ではない。   死がよぎる。   しかし、錫杖のおかげで頭から落ちたわけではなく、ウレタンの身体の軽さもあって足の骨がグシャグシャになり、骨が皮膚を突き破ったところで止まる。   同時に始まる、治癒。   瞑想により、ウレタンの全身の傷は瞬時に癒えた。  「よっしゃーいくぜ」   シーチキンは呆れた声で、  「ありえねえ、お前もう少し」  「自分を労ってる暇も余裕もねえ! シーチキン! 後ろは任せたぜ!」  溜息と同時に陸を走る。   当然程なくして、後ろにメーテアの影。  「ウレタン!」  「おう!」とウレタンは振り返らずに察して斜めに地を蹴った。   スライディングするように飛び込むと、さっきいた場所に無数の穴が開いていた。  「あぶな」  「言ってるそばから!」  トントントンと、後方へジャンプしてメーテアの腕の追撃をかわす。   それが終わるや、今度は口から、飴玉のようなものを吐いた。   弾丸のような速度。   横に逸れるも、頬をかする。  「なんだありゃ」  「舌の動きも半端ないな。っておい後ろ!」  メーテアは前にいる。いや忘れていた。  「二匹目かよ!」   気付けば背後からもう一匹。分離した方のメーテア。  「やべえな」   挟み撃ちにされていた。   ウレタンは慎重に相手の出方を伺う。絶体絶命になった事で、メーテア側も慎重になる。   その隙に鍵を差す。様子見するように動かないメーテア。   開くと同時に時間切れがきて、錫杖がきえる。  「お前」   そう数えていた。きっちり三分。でもここで外れを引いたらアウト。取り出したるは。  「赤いハンカチ」   だった。シーチキンが「は?」と思わずウレタンを見た瞬間、やべ、とシーチキンが言う。   後ろのメーテアが距離を詰めていた。  「貴女終わり、え?」   メーテアの口が大きく開き、そのままウレタンを丸呑みにした。そう、ウレタンの幻影を。  ハンカチはいわば、闘牛に使う赤布。   翳せば攻撃をいなし、そのままハンカチは大きく膨らんで、ウレタンを消した。幻影だけ残して。  「はっ、どうだ? 撒いたか?」   シーチキンが後方の目として、   「いや、二匹いたからな。一匹は様子見してただろ。そいつが、まだ。離してはいるけどつ  いて来てる」   らじゃあと言う間に、ウレタンはまた鍵を差す。   そして取り出した武器にガッツポーズをした。  「お、お前ついに」  「ああ、当たりだ。多分」   重火器のようなフォルム。先端が筒のようになっていて、ずしりと重い。男子の憧れ。  「ロケランだぜ。えーと何何。撃てば勝つ」  砲身に白い字でそう刻印されていた。  「大丈夫かそれ……また外れなんじゃ」   だとしてもうつしかない。   ウレタンは立ち止まり振り返って、構えた。   肩に担いで、手前のビルから飛び出してきた、メーテアを捉える。   メーテアの混ぜ物のような顔が驚きに満ちていた。   そして撃った。すると砲身が発光し、重みがます。再装填されていた。  「まじかよっ」と間髪入れずに撃った。   発光し、その度に何度も何度も何度も。   弾切れかと思うまで。それを避けていくメーテア。そのままとぶようにウレタンに近づき。   今度はウレタンが近距離からもう一度、放つ。当然、避けられるがしかし避けた先に、先程撃ったロケットが火を噴いていた。   ウレタンが距離をとる。メーテアは得体の知れない攻撃だと判断してか、逃げ続けていた。   どこまでも、追尾するそれに、ついに方針を変えた。受け止めようと手でキャッチ。  「え?」   爆発した。当たり一面に爆風と噴煙が広がる。ウレタンは更に離れて様子を見る。  煙が晴れていく。   メーテアはそこにいなかった。代わりに、肉片と化した、メーテアだったものが。  「さて」   これで終わったわけじゃない。   ああとシーチキン。  「もう一匹だな」   ウレタンは程なく、舞い落ちる木の葉のようにするりと現れたメーテアを睨む。身体の位置がおかしい二匹目のメーテアの顔は破顔していた。   ウレタンは砲身を向けた。二匹目のメーテアが息を吸う。   すると強力な風を起こし、周囲の物を吸引し始めた。  「うお! うおおおお!」   飛ばされそうになるシーチキンと、  「大した風じゃない、が」   冷静にその様子を見るウレタン。   吸引したのは、ウレタン達ではなく、さっきの肉片。そこに周囲のコンクリの破片やガラクタが混ざって、吸引したメーテアにトゲのように生える。  「ようやく一匹か」   砲身を向けたまま膠着。   残り1分。   ウレタンはまた絶え間なくロケットを放った。   しかし、  「くっ」   メーテアに向かう追尾型ロケットは、次の瞬間、  「弱い弱い、え?」   と舌を出し、どれもあの飴のような弾丸で打ち落とされた。   ならばと数を増やすために更に止めどなく放ち続けるが、メーテアはそれらを交わしたり打ち落としながらやり過ごし、決して先のように手で受け止めたりはしない。   爆発物の有効性を確認したからだろう。   つまりこのままでは負ける。ロケットランチャーの持ち時間も残り僅か。  「シーチキン」  「おう」   ロケランを放つ。放ちながら、一旦後ろにまた飛ぶ。同時にロケランを手放した。  「使う。もうここまできたら、出し惜しみはなしだ」   そう言ってパーカーのポケットから取り出したコイン(ステッキ)を弾く。   基本的に必要な物はポケットに入れる癖がある。   今日の格好は葬式の後だから普通なら制服だが、ウレタンは上だけ伸縮素材のパーカーなので、比較的動きやすい。  「使うのか? お前散々故人の能力を使うの嫌だと」  「それは」  「記憶が入ってくるから嫌だと」   そうなのだ。前代の来咲汁子の魔法は使うとまた彼女らの記憶が入ってくる。   そこには当然知りたくもない汚泥の過去も混ざっていて、入ってくれば自分がさも体感したかの如く漏れなくその日一日がグロッキーになる。  「でもやらざるを得ないだろ」  話しているとメーテアが、「待って、置いてかないで」   と、首をこきりこきり。腕が枝分かれして、準備を整えている。  「ああ、みたいだな」   太陽の無い昼の海原のオフィス街が、たまにぼうっとオーロラの様な明かりで滲む。その光と屋内照明の明かりでなんとかここまでこれた。  「きっと太陽を食ったのもコイツだ。あの闇の泡で」  シーチキンが神妙にいう。  「ああ、でも。今は勝ちの目がある」  コイン《ステッキ》をもう一度弾く。   弾いたコイン《ステッキ》をキャッチする。   それを大きく振り被る。   そのまま、投げた。それは当初メーテアの頭にあたり、こんっと弾かれてコロコロと転がって足元に落ちる。   メーテアは茫然としていた。  「反応なしかよ。第二球と」   次はメーテアの胴体に当てた。跳ね返りヨーヨーのように手元に戻る。  「なに? なに? え?」   メーテアの反応がないので更に数回繰り返す。   因みにコインは紐付きだ。ウレタンの手中に繋がっていて、なくすことなく戻ってくる。  程なくウレタンはめぼしい効果が得られずコインを足で踏み潰すなどした。お次は手でねじり上げた。びくともしないコインとピクリともせず唖然とするメーテア。  「メーテアも実はからくりを理解してんなら厄介だな」  それでもウレタンはコインへの攻撃を続けた。   無論メーテアも、いつまでも黙ってみてくれるお人好しではない。   メーテアがついに動きだす。すすすと横にずれるように動き、弾かれたように飛び出した。  対しウレタンは後方に飛びながら鞭のようにコインを飛ばす。   メーテアに弾かれてまた戻ってくる。次は角度を変えたが、また弾かれる。しかし、メーテアも腹が立つのか、弾き返す力は尋常じゃない。そのスピードは凄まじく、キャッチと同時に手の皮が切れた。   しかし、力はちゃんと吸収される。  「ぼちぼち、貯まったかな」   バッグの中から他人事のようにシーチキンが、  「ああ多少痛かったけどな。手が」   コインについた糸の先にはウレタンの手。手には穴が空いていた。穴は糸で繋がっている。  これを使う際にコインを握る。すると毎回この状態(ステッキ)がセットされ、ヨーヨーのようになる。穴の先はウレタンの隕石に繋がっている。   ダメージを吸収してエネルギーに変える永久機関(ステッキ)  これがウレタンの余裕の証。   人生交換で無数に作られた特異魔法とステッキ。   前代の持つその一つ。   パワードコイン(シーチキン命名)を持つ限り全てのコインにかかる負荷は吸収され、蓄  積したエネルギーは、  「なん、え?」   と間抜けな表情のメーテア。   一方ウレタンは、とん、とワンステップ。   ツーステップ目で地が爆ぜた。   コンマの知覚。コンマ一秒の判断で、メーテアは腕をガードに使った。そこに、分銅を振り下ろしたような衝撃。   メーテアの腕は砕け、頬は裂け、頬骨はミンチになり、反対の頬骨で止まる、その数瞬のラグ。   潰れた顔のままコンマ静止。直後、メーテアは反対車線のガードレールを薙ぎ倒し、三回転げて血を吹いた。  「ぐ、え?」   何が起きたのかすら理解してないらしい。ウレタンはコインを握りしめた拳を相手に向けた。  「ま、これが奥の手ってやつだ」  「手だけにな」   言ってシーチキンも、うははと笑う。   問題ない。これなら勝てると、思っていたわけじゃないが、まだ幾らでも手数があった。  「じゃあ」   仕上げと言う間もなく飛び出した。  「ひ、ひ」   と、メーテアに異変。  「は?」   と言いながらも、飛び出したウレタンがもう一度拳を振った。それを間一髪で交わし、  「ひ、ひひひひひ」   バタンと、土下座をした。  「は? お、おい。こりゃあ」   シーチキンもさすがにぶったまげて、なんだなんだとバッグから飛び出す。  「助けてください」   命乞いを始め出した。化け物の命乞い。そんなアホな、とみていると、その瞳から血涙が流れる。  「どうか、どうか、おおおおおお、メシアよ」  さすがのメシアも困り果てる突然の謝罪。  「いや、あの」  「私は貴方様には叶いません。どうかどうかお怒りをお静めくだされえええい。お鎮めくだされええええい」   何かの罠かと思い一旦離れる。  シーチキンも察して離れた。  「どうするよ。これは予想外だぜ」  「ああ」   本当に、まさかこんな人間みたいな真似をするとは思ってもみない。   死など恐れておらず、ミンチになってもバターになっても、死ぬまで闘うバーサーカーだとばかり思っていた。  「それがまさか」  「ありえねえ……」   メーテアは位置の違う身体を折り曲げて、顔を地面に擦り付け、胴体で天にお願いをするように祈るようにして、謝っていた。  「いや、あの謝られたって」  「そりゃそうだ。何人殺したと思ってる。知らねーけど。お前はいずれにしろ」  もう一度、メーテアに近づく。何かの罠かもしれない可能性は消えていない。   どうせ、どちらにしろ勝つ予定だった。   しかし、あれ程強かったメーテアがこの程度で降伏をするだろうか。   そう思って、同意を仰ごうとシーチキンを。シーチキンがやや離れている。いや、違う。  震え。シーチキンが震えていた。   今までになく、全身の毛を逆立てて、それでも尚収まらない震えに、身動きもとれず。  「おいおい何だって」   シーチキン何やってんだ、と呼ぼうとした直後だ。  「これは、これは。危険だ。勝てるか俺でもわからねえ、いや、待てお前なら」  シーチキンはまた正気に戻って後方に飛ぶ。   飛びながら、  「離れろウレタンも! 後ろ!」  ウレタンも咄嗟に飛んだ。   直後に、振り下ろされた、何かの腕。   いや、見えない。   見えないが大体の勘でそれは腕だと分かり、大体の勘でそれがメーテアより大きな何かだとわかる。   メーテアが何に怯えていたか。メーテアの身体が見えない何かに掴まれて宙に。  「おおおおおお、お許し、を、え?」  そして宙の中に消えた。   バリバリバリと咀嚼音。   何もみえない。しかし聞こえる。   そして、  「ごっくん」   可愛いらしい子どものような声。  「あー美味しかった。さて」   ギョロリと視線が向いた気配。  「次はあなた達の番。どうしたの? どこにいるかみえない? ギャハハハハハ」  悪女のように醜く笑う声。   見えない何か。巨大な、化け物。シーチキンの戦慄。   直感だった。あれだけ強かったメーテアがあっけなく喰われたあれに、多分雪子も喰われたのだ。   帰っていいのかどうかはわからない。  「ウレタン。一旦休戦だ。どうせ奴等はここから出られない」  でも喰われた人がもう帰ってこれないかもしれない。   そこまで考えて、でも倒したら帰ってくる保証などないのだと気付いた。   そう思ったその瞬間今まで強がって意気込んで、奮起して誤魔化してきた感情が押し寄せる。   死んだ来咲楠葉。この来咲汁子の元になった人物の家族。悲惨な最期。死んだ元の自分。死んだ自分の友達の危機に躍起になった。でも本当に意味がわからない。何をそんなに、必死に。   誰にも気づかれない程に小さなため息。   会話を省略し、ウレタンは笛を吹いた。   瞬時に視界が晴れる。太陽が町を照らす。   つまり、現実に帰還した。   それからしばらく町をぼうっと見ていたが、程なくぶらぶらと彷徨った。   それから電車に乗って、そしてよく覚えていない。   気付いたら自宅前。自宅に帰るまで一言も発さず、帰ってからもシーチキンとはさした会話もなく、一言だけ。  「どうするよ、あれ」   ウレタンは答えなかった。   着替えもせずに布団に潜り、「ま、多分。誰かがやるだろ」  そう、誰かが。   発した言葉にシーチキンは変な顔をしていたが、ウレタンは安心して、泥のように眠った。  それから何事もない日々が過ぎた。   いつものように学校に行き、いつものように帰宅途中に魔法でコピー窃盗と洒落込み、終わったら誰もいない我が家に帰り飯を作り、シーチキンと一緒に夜まで駄弁る。   変わりない毎日。   あかりが一時ウレタンの学校まできて、顔を伏せながら、逃げてきたんだね、と一言だけ残して去っていったが基本的に平和な毎日だった。   学校ではこっしーには会わない。彼女は愛のいた学校から来ていて制服を借りて不法侵入していたと制服を貸した運動部のOB が漏らして噂になっていたが、あれ以来一切ご無沙汰だった。   他の生徒にもあまり会わなかった。多分ほとんど寝ていたからだ。   仕事はやや休職気味だったが、このほど完全に休職届けを出した。つまり活動停止だ。  そんな気分ではなかった。仕事はやめたが中学卒業まで残った資金で食い繋げば、適当に中卒で仕事を探せばいいのだ。   あのキラキラした世界と自分との非対称さが、ウレタンには耐えられなかった。   学校と家とスーパーの往復は続いた。   ある日少し気になって近くのスーパーをネットで調べてみたら、星3.5のレビューが前より星が3に欠けていた。   原因を探せば理解。品質が悪いとか味が落ちたとか。食えはしないがなんか微妙に鮮度が悪い。不味いなどのレビューが多かった。   多分ウレタンのせいだろう。その日何を思ってかウレタンは店主に謝りに行った。  「はあ? お前さんいつも飴買ってく子だろ。盗んだって言われてもなあ。冗談言っちゃいけねえよ。うちはよ、その道十年のベテランGメン雇ってんだ。監視カメラだってある。嬢ちゃんみたいな尻の青い子供にケムに巻かれるようなチャチな対策はしてねえし、生憎窃盗はでてねえ。あっでもせっかく来たんだ! なんか買ってってくれよ。っておい」  家電量販店にも行ったが同じ感じだった。  「しっかし驚いたなぁ。まっさかお前が、改心するとはね」  ウレタンも驚きだ。   まさか自分が自白しに行くとは思ってもいない。   でもやはり妹が居なくなってから、全てを綺麗にしたくなった。   疲れていたのかもしれない。   この不毛すぎる現実に。   目的もなくただ生き汚く生きることに、嫌気が差していた。  「ま、今更だろうけどな」   それからウレタンは犯罪と名のつく行為は一切しなくなった。まあ犯罪と言っても窃盗と不法侵入とお金の複製がせいぜいだが。   晴れてまともに戻ったのだ。あっぱれである。   世の中では今彼女の事など他所に空前の事態が広がっていた。   神隠しのように人が消えていく。   ニュースキャスターは真摯な目で危機を訴えていたが生憎と人拐いに関しては素人の出る幕じゃない。   警察の仕事だ。   そう思っていたら次第に学校の生徒数が日に日に減っていき、ある日登校した日になんと休校になった。   慌てて家に帰る。帰る最中、人とは一人もすれ違わなかった。  帰ってきて、バッグの中のシーチキンが早く早くと。   急かされテレビをつけたウレタンがみたのは非常事態宣言。  『現在、海原市一帯に決して近づいてはいけない前代未聞の非常事態宣言が全国に出ています。国はこの市一帯に非常線を張り、外部からあの市に人が入らないように徹底的な対策をとっています。なんでも非常線を張っていた軍人の方が何人か、何か、いえ、いい辛く、はい、言います。何か、見えない何かに掴まれてそのまま宙に消えてしまったと。市民全員が消えた海原市。果たしてこの市に何が』   チャンネルを切り替える。砂嵐。また砂嵐。ザッピングしたが、この地域の放送局の番組は軒並みやられてしまったらしい。何にかって。  「おい」  「…………」  「おいおいおいおいおいおい」  「……………………」  「おいおいおいおいおいおいおいおいおい! おい!」  「わかってる慌てるなウレタン。何が起こったか」  ああ、わかる。言われなくてもわかっていた。   食われた。全員。   ウレタンがのんべんだらりと生活をしている間に、何かに。何に、ってあれしかいない。「まさか、こちら側に顕現するとはな。恐らくだが、メーテアを食った事で奴の現実性がついにこちら側の世界への干渉を可能にしたんだろう」   言葉もなく、呆然とテレビの砂嵐をみるウレタンと、神妙にそれを見つめるシーチキン。  「まさか」  「ああ」  「全員、なのか?」  「ああ」  「学校の皆も、仕事の仲間も?」  「ああ恐らく」  「魔法少女も?」  「ああ、今気づいた。だろうな。消えてる。恐らく最後の生き残りだったあかりもだろう。  あのバグもいない。」  「双草の」   言いかけてやめたのはもう他人だったからだが、シーチキンはそれにも恐らくなと頷いた。  「そうか……」   顔を伏せて思考がとまる。長いようで短い。この十五年を暮らしてきた海原のほとんどの人達が消えた。違う。神隠しじゃない。喰われたのだ。  「そうか、っつ」   歯を噛んでうっかり舌を誤る。血が滲む。   もう心配してくれる人もいない。   元からいなかったか。  いや、いた。いたし仮に居なかったとしても、本当に可能性すらゼロになった。  「ウレタン。俺はいくぜ。一人でも」   シーチキンは勇敢だった。というより死が怖くないのだろう。バグだからだろうか。  「お前はどうする?」   噛んだ舌を引っ込めて、垂れる血をそのままに顔を上げた。   昔のことなんてどうでもよかった。   今自分が来咲汁子で周りには仲間がいた。   助けてくれた人もいるし、全部もう全て終わったと見限るほどに、  「いうまでもねーよ」   弱くなった覚えはないと。   シーチキンの首を掴んでバッグに入れながら、はっと笑う。  「わたしは来咲汁子。一応魔法少女だ!」  「話が早え! どうせ向こうさんはこっちの位置を把握してるだろう! ならもっと広い場所にいこうぜ!」   ウレタンは素早く窓から外へ。   空は黒く淀んで、さも世界の終わりの様だった。   淀んだ空気と、物憂げな街を駆ける。  ひとっこ一人いないゴーストタウン。   木枯しの吹く誰もいない公園。   自然音だけの住宅街。   注意もされずカラスに集られ放題のゴミの山。   虚しく音楽だけが鳴り響く駅構内。   もぬけの殻になった車道。   たまに見かける道路のど真ん中に放置されたバン。   店員のいないコンビニ。   誰もいない繁華街。   シャッターも降りてないのに、人間の気配も影も無い。  「なあ」  「なんだよウレタン」  「奴の目的。奴に目的はないよな」  「強いて言えば現実化という本能だな」「本能、か。それがあいつらの全てか」   本当にそうか。考えている横でシーチキンああ、と少し声量を落とし一呼吸おいた。  「スリーシスターズという化け物がかつていた」   初耳だった。  「お前が来咲汁子になる前さ。先代の来咲汁子が打ち滅ぼした奴は三頭の犬の化身の姿をしていた」   走るのをやめて立ち止まる。丁度、地下鉄の構内だった。地下は高さがないわりに広く、ターミナルなら分岐する逃げ道が多いのであえてだった。  「倒したはずだった。奴はな、食らった相手の能力を次々と吸収し、手の施しようのない怪物へと成り代わるそういう化け物だが幾つもの魔法を内包するあいつの敵じゃなかった」  「じゃあ、それで倒したんじゃ」  シーチキンは首を振る。  「奴はスキュラを倒していた。食っていたんだろ」  「まさか」  「ああ、お察しの通りさ。説明は聞いてたはずだろ? 双草愛についていた化け物の話」  「それが?」   とてとて。地下のプラットホームの白線の外側を歩くシーチキン。  「そこでスリーシスターズは死んで、スキュラが生き返った。スキュラは実体をもたない化け物だ。倒すことはできないが奴を倒した事で解放された。そして双草愛に取り憑いた。理由はしらん。でも取り憑いた。だから先代が人生を交換までしてお前と成り代り倒した。死ぬことでな。取り憑いた奴ごと葬ったわけさ。まあ先代自身も軽く死にたがってたから利害の一致ってやつさ」   じっと前を向いて考えていた。  「しかしここで問題が発生した。スリーシスターズが今度は生き返ったのさ」  は、と。  「不思議なルールでな、異界では自身を倒した奴が死んだり消滅したりすると、それまでの倒したという経緯まで吹き飛んでなかったことになり、倒された奴が復活するという特殊な作用が観測されている。よくはしらねえ」  「おいおい」  「まあ聞きな。それでスキュラを倒したつもりが一緒に先代が死んだから、またシスターズが復活してしまった。俺はこれを予想しなかったわけじゃない。でも先代はやると聞かなかった」   余程死にたかったのか。  「まあどっちにしろあいつさえ倒せば、全部丸く収まるんじゃねえかな」  シーチキンが歩みを止める。ウレタンも止まる。   視界の先。地下鉄の暗がり。   レールの向こうから闇を切り裂いて何かが近づいているのがわかった。   ウレタンにとって気配とは音だ。   ビチャビチャビチャビチャと水を踏むような足音が近寄ってくる。  「来るぜ」  「ああ」  「準備はいいか?」   深呼吸。肺を大きく動かして、脳に酸素を溜める。  くる。   その予兆がわかった時、ウレタンは飛び出した。   コインを硬く握りしめ片側で鍵を指し、ダイスの中身を取り出す。   しかし、「ちっ!」   敵も待ちはしない。   取り出す暇も与えずのろかった足音が急加速し、瞬く間に至近に。足音が消える。  一体だと思っていた敵がばらけ、瞬時に三体の腕の筋肉がしなり横薙ぎ。   残る二体はウレタンの上斜め右と左から後方へ抜ける赤茶の爪痕を空気に刻む。   そう勿論、掴んだのは虚空である。   一コンマ前にウレタンは反射で後方へ。   コインの残存エネルギーでひじり出された力は容易く地面を粉にして噴煙でケムに巻く。  「これ、逃げるな」   時代劇から出てきたお姫様のような口調で、ウレタンにまた近づく。姿はみえない。  「逃げるな逃げるな、ふひひ」  「やだね」   返事を返すと、  「それは困ります。貴女を倒さねば私が貴女に倒されるから」  口調が変わる。   テンポなくリズムをあえて殺して、前後左右脈絡なくジャンプを重ねる。   向こうにはウレタンがみえている。だから動きを馬鹿にする。足音がとまる。   そこでもう一度、虚空に鍵を挿し、  「ばーか」   ブォンと目の前を走り去った腕と、咄嗟にかわしたウレタン。   シーチキンはここにいない。   コインのエネルギーで速度をあげた今、シーチキンはお荷物にしかならず、シーチキンも  それをわかってか、  「多分、上だ!」   勘、じゃない。多分、風圧だ。前にスライディングするように飛び込むと、さっきいた位置に手形のクレーターが出来ていた。  「ナイス、シーチキン」  「言ってる場合かよ!」  どこかから飛ぶシーチキンの助言にありがたがる暇もなく逃げる。が、速い。  「でもっ」   ウレタンはとまり、見えないはずの敵をみるように真正面を見据える。   完全にタイミングを一致させる必要があった。   コインステッキのエネルギーはそろそろ尽きて手袋はなく、ダイスマジックを使う隙を与えない敵相手に今できること。   ウレタンは前をじっと見据えた後、すうっと目を閉じる。   そして指で虚空に小さく五芒星を描く。   中心を指で弾いた。   するとウレタンの目の前に巨大な魔法陣が浮かぶ。   何かを察知した化け物が驚きの声を上げる。   位置はいまいちわからない。   上から聞こえたような、左右から聞こえたような。   でも関係はない。   化け物の一体が横合いからまた爪を振り切る。   その僅かの知覚。   ウレタンは爪が皮膚を裂く刹那を見逃さなかった。   居る場所がわかった。   方角を修正。   ウレタンは意識をそこに向け、放つ。   瞬時。   そのポイントを軸に百八十度にわたり、魔法陣が光を放った。   光は熱を持ち、肉を焼き骨を溶き、空気を燃やして、周辺建造物をまとめて焼き焦がす。   化け物の断末魔の叫びと同時。   ウレタンは消えた。   ウレタンを探して残りの二体は言った。  「ほほ。やりますね。しかし」   バリバリバリと、何かを食った。食ったのは景色。   すぐに二体の視界に何事もなく様変わりしない地下鉄の構内と自らの姿があった。  「で、どうする?」   階段もエスカレーターも駆け上り、A1という出口から地上にでたウレタンにシーチキンが話しかける。   既にシーチキンはインザバッグ。合流し、ひたすら移動していた。  「幻覚(はったり)魔法だ。すぐ気付いてなんらかの処置はされてるだろ。ああいうのに引っかかる奴には見えない」  周辺は繁華街だが人は見えなかった。舗装されたコンクリートの上に障害物のように車がとまり、息を止めたように動かない。   飛び越えながら、なるべく姿を晒さないように移動する。  「移動してないとな。どうせ奴等にはこちらの居場所がわかるだろ。メーテアが腹の中にい  るなら多分な」   車のサイドミラーを掴み、跳び箱のように車を飛び越えながらウレタンが、  「でもどうするよ!? あれじゃ倒したくても倒せないぜ」  「幻覚(はったり)は多分不発だろうからな。あれは動きを逸らしたり遅らせたりするだけだし、たまたまお前とあいつらの目が合うタイミングがあったからできたことだしな」  後ろに微かな違和感。  「三体いるんだろ。名前からしてそうだし」   地面を揺らす音が、非常に微かにだが聞こえた。  「いるぜ」   シーチキンが声をくぐもらせる。  「わかってる、どうする?」  「全部手の内を見せるってのは?」   シーチキンにしては馬鹿な提案だった。  「倒すにしたって、まずは見えなきゃやりようがない。私は心眼の使い手じゃねえからな」  走る速度を上げる為に歩道に移動する。   ガードレールを一足飛びで越えると思いの外飛びすぎて商店に突っ込みかけた。   洋菓子屋の看板キャラクターをぶっ壊して壁を蹴ったところで勢いがとまる。すぐ後方に風圧がかけた。   冷や汗とともにコインを握りしめ、猛然と走る。  「なんか!」   人がいないので障害物がない。   それが逆に、逃亡を困難にしている。  「言えよ! 案!」   バッグが右へ左へ、バッサバッサ。  「お前に揺すられすぎて頭が回らん! とりあえず止まれ!」  「しぬわ!」  「いいから残り3つだ! どれか出せ! 躊躇うなよ!」   来咲汁子は今で六代目だ。初代は人生交換。二代目がさっきのはったりと唯一残っていたコインステッキ。   三、四、五とまだ手の内がある。   どれもステッキはなく、特異魔法のみ。   ウレタンは後方をチラッとみた。見えないが見える。  なまじ居るのがわかっているから輪郭が浮かぶようだった。   無論みえないが。  「ちっ」   舌を打って前に向き直ると、それを見たウレタンは親指と人差し指を弾いた。視界が僅かにぼやけていた。  「いきなり、いくぜ」   走りながら後ろを見ずに更に速度を上げる。そして、振り返った。つまり、止まった。そしてみた。   何もいない。景色のみ。しかし見える。だから全て。  「歪め」   言葉と同時に、視界が歪んだ。大地が隆起し、トゲのように槍が突き出し、前方にあった空間が歪む。  「げえ」    化け物が鈍色の胃液のようなものを吐いた。  「そこだな」   更に注視。目を千切れんばかりに開いて、  「歪め」   更に空間がねじ曲がる。   景色が粘土のようにぐにゃりと。  「もしや、貴様」  「違うし」  「言葉をきっかけにして発動するとか言いたいか? 惜しいな」  シーチキンが得意げに言う。   そして爆ぜた。   体躯を保てなくなった化け物の空間に亀裂が走り、ガラスが割れるようにパリンと。   そして瞬きを数回。  「ナイスウレタン。言う必要はないぜ」  「ああ」   ウレタンは脱げかけた靴の先をコツコツ叩く。   余裕、とでもいうように、前を見据える。  「残り二体か」   化け物のどちらか一体が声を絞り出すように、おのれ、と。   注意深くみて、近寄ってこない気配。   次第に化け物の輪郭が浮き出した。   空間に浮き彫りになり、まず狐のような目が浮かび、上に二つ耳が生え、顔は全体的に犬のようなフォルム。   スラリと長い足に全身の白い体毛。   口からは邪気のような涎が出ている。  もう一体は、鼻から湯気が出ている。  「そうか貴様、目か」  「見事だな犬野郎」   シーチキンが鼻を鳴らす。   そう、来咲汁子もう一つの魔法。   イメージング魔法。   視界に映る景色をイメージ一つで粘土をこねるように変えてしまう。   ただし、人がいないからできる禁忌の魔法。誰か一人でも目に映せばたちまち不安になり、巻き添え。   ではない。もちろん。  「ま、好きに勘ぐりな」   言っているそばから犬の一体の口から矢を吹くように何かが。またあの飴玉かと、咄嗟に出したコインで弾く。そしてまたみた。   犬の片方が縦に割れた。   そのまま袈裟斬りになり、何で切られたかわからないような斬撃で、胃だけを残した。   残る胃が突然虚空に現れた黒い点に突かれてバンと破れた。   バラバラと内容物が撒かれる。   木やら、ガラクタやら物だった何か。   または雑貨屋みたいなアイテムの数々が雨のように降り頻る。   その中に偶然。  「うおおおお!」   思わずシーチキンが、  「よっしゃああああああ!」  ウレタンまでも。   そう、手袋があった。   花びらのように舞い落ちてきた。   すかさずキャッチする。  「きたな。当たりだ」  「奴の中にある気がしたんだよ。なんとなくな」  「なんとなくねえ」   コインをポケットにしまい手に着けると、ようやく戻ってきたような感覚があった。  「さてと」   化け物が逃げていた。   ウレタンはそれを追おうとして、目がちくり。   痛みが走り眼を指で挟むように摘む。   スルッとコンタクトが外れた。   もう片方は指で涙とともに洗うように外す。   乾き切ったコンタクトの残骸が、手に幾つも。   片方は割れていて、片方は変色している。  「まさかコンタクトの摩耗具合で視界の世界がねじ曲がる魔法だとは夢にも思わないさウレタン。しかもこれが最後のワンセットだ」   アイテムのようだがステッキではなく、ダイスマジックに近い原理のアイテム魔法である。ただしもうない。  「嫌な魔法だよ。やっぱり目が痛いし充血するし、使いたくない。使えねーけどなもう」  「でも奴の姿が見えるようにはなった」  「ああ」   まだ奴に見せていない手の内は残り二つ。   先代の汁子は心を読んでいた。   そのまま魔法は読心である。   つまり使えるのは後もう一つと、ダイスマジックと手袋と、  「あ」   ぐにゃりと、左ポケットの中で何かが潰れてチョコのような匂いが広がる。  「あ」   シーチキンも顔を突き出してポカンと。   コインが溶けたチョコのようにぐちゃぐちゃになっていた。  「まさかあの飴玉」  「飴玉だったみたいだな」   飴玉は、様な、ではなく本当の飴玉だと言いたいのだろう。   恐らくあれに触れた物を菓子に変えるか何かするのだ。そういえばと前に頬をかすった時、血が微かにイチゴジャムの香りがしたのをウレタンは思い出す。   飴玉本体も似たような原理の菓子化かもしれない。  「何にせよ!」   チョコを捨てる。   手についた分は気味が悪いので服で拭った。  「ラストバトルだウレタン!」  おう、と気合い一喝。   ウレタンは飛んだ。宙に舞い上がり、遠く高層ビルの屋上にいる犬の化身。スリーシスターズの最後の一体を見る。  「勝てるかわからねえぜ」  「でも」  「ああ。私ならできる」  「俺なら逃げる!」  「いやあの……」  「頑張れウレタン」  「バッグ捨てようか」  「やめろ!」   冗談はさておき、これが本当に最後だと、ゆっくり様子を見ているスリーシスターズとやらをみる。   途中反則技を使ったせいか少し弱くみえる敵はしかし、あのメーテアを食った化け物である。   犬の化身が咆哮した。   直後、ウレタンは飛び出した。ダイスを足下に差し、地を蹴り上げた。   魔法少女が飛び出す。飛び出して、緩い弧を描く。魔法少女は一心不乱に一点突破。あとは見えている敵をとっちめるだけ。   不思議と、ウレタンに悲壮感はない。   街の人間が皆死んだのに、皆消えてしまったのに。大事な友達も元々の家族も共闘した仲間も全てどうでもいいように涙すらない。   それはウレタンが非情だからではない。  「だって、人間の感情は複雑だから。私は、うまく言えないけど、強いて言えば」  突然何を、って顔をしたシーチキンがウレタンを見上げる。  「なんでもねえよ。人間、もっと合理的にいきらんねーのかなってさ。つか、いきなり終盤  戦だな」  「お、おう。まあ悩みがあるなら後で寿司食いながら聞いてやるよ。回らない奴な!」  ウレタンはパーカーのフードを目深に被り了解と薄く笑い、両手を広げた。  「やる」   引きこもりに飽きたシーチキンがバッグから飛び出す。   そして宙空で落ちそうになりながら肩に掴まる。   スリーシスターズは馬鹿の一つ覚えで、様子を見ているのみだ。   重力をまた消した。飛びながら、少し高い位置で浮遊。空の定位置で止まる。左手を背後に翳す。  「一番目の貴方には薔薇を贈る。玲瓏に咲き誇る、心豊かな花の美姫」   ウレタンが言葉を綴る。するとウレタンの背後に薔薇が咲き誇り、閉じていき萎れてバラバラと落下する。しかし落ちた屑が風に巻かれて空を漂い巨大なペンを象って、  「2番目の貴女には闇を贈ろう。黒は原初であり力であり、画板である」   右の手の指をパチンと弾く。どこからともなく闇が吹き出してウレタンの背後に巨大な黒い壁を作る。   ウレタンが右の掌を闇の壁に付ける。  「目を覚ませ。もう起きる時間は過ぎてるぜ」   直後、ペンが絵を描く。闇の一面に。その絵ーー目が浮かび、増殖し、開眼した。   開いた無数の目が口もなく音を発した。  「おい、今回は何召喚しやがった? やべえ」  「さあねえ。私もこれノリと気分でやってるから、それがどういう強さのなんなのかもしらねーぜ」   そう第四魔法、召喚はウレタンのイメージと心象風景と詠唱した言葉の羅列で、近くにいる異界の化け物とレベルの近い化け物をランダムに一体召喚する魔法だ。  「気を付けろよ。人がいないから使えてる。敵になる可能性だってある」  「わかったわかった」   本来なら異界でしか使えない手だった。無論ただの召喚魔法なので化け物がこちらの味方になる事はない。ただ化け物同士は食い合う可能性が高い。   シーチキンはなんだかんだ怯えたように肩に爪を立てている。  「さあてっと! やれ!」   自分がいなくなれば自然とぶつかり合う。ウレタンは更に天高く舞い上がり、次に天に鍵  を刺し中から、  「ナイス槍」   神話の武器のような長大な槍が先端で血を滴らせていた。   これをにぎり、反対の手で鍵を刺しっぱなしにして足場をまず作る。   武器の特製が頭に流れ込んでくる。必ず手元に戻る。戻るために必ず当てる、必中の槍。  すぐに踏ん張り、身体を曲げて、全力。   槍を放った。同時に重力も放つ。カケル五万倍。無論肉眼で化け物は微かにしかみえない。でも、武器の特性にかけた。   虚空に駆ける槍。さながら彗星のように霧状の光を纏う。かつ血の軌跡を残しながら真っ  直ぐ犬の化身の下へ飛び、  「あ」   パシリ。多分。   ポカンとしつつ、  「ま、なるわな」   思わず溜息を漏らす。   予想しうる攻撃とコースで、掴みやすくて仕方ない。   犬の化身が笑う。  「武器をくれてありがとう! ひょほ!」  ポイっと、しかしすぐに槍を捨てる。  「つまらないねえ。弱いねえ」   ウレタンの舌打ち。すぐにも次の手を考える。  「何だ、何か他に手が……あ」   できるかは謎だった。幾つか試すつもりで用意がある。   ウレタンは手袋を虚空に翳す。   そしてスリーシスターズを、消すーーいや。  「無理だな」   重力か、空気しか消せないし、第一消しても意味がない。空は繋がっているから或いはーーそんな戯言が通用しない世界だ。それに消したら食われた人達が元に戻らないのでは無いかと。   そうしている間にも化け物がスリーシスターズとずっと下の方で激闘していた。   化け物には化け物特有の闘い方があるらしく、化け物は、目から光線をだして、触れるもの全てを焼き尽くすという、定番、をしていた。   それがたまにウレタンの近くまで飛んでくる。   さくり、と今まさに滝のような光線が手前を上昇し、前に跳ねた髪の毛を数本刈り取る。   焦げてパラパラと。  「こわいわ!」   一方のスリーシスターズは逃げ惑うわけでもなく、踊るように光線の合間を縫って距離を詰める。召喚はある種失敗した可能性が高い。  「ちっハズレか」   ウレタンは第二撃を考えた。  次の手は、2分後にご開帳。   弓矢だった。効果は、  『対象の内臓を破壊する』   まるで状況を見ているかのようなチョイスに、  「あらよっと! な!」  弦を引き、矢を射る。   つまらない普通の弓だ。でもその魔法の弓矢は、見事にマトを外れ、外した直後に、悲鳴を上げた。   シスターズが反応している。その様子は遠目にはよく見えない。ウレタンは双眼鏡を出して覗く。   目を剥いて、その悲鳴を聞いているシスターズがいた。が、直後。  「ぎ、ぎ、ぎ」  「ん!?」   と、言うや否や、  「ギエ……ギギギギエギエエエエエエエエエベベベベべべ!?」  「お!」  その眼から、血が、大量に噴き出して、大地を染める。止まらない。噴き出した血が川のように、地上を流れていた。  「オノレ」   ギロリと目線を化け物からウレタンに移す。   が、  「あ?」   シスターズの目元がにやり。口元が歪み、裂ける。血は止めどなくでていたが、  「なんぞ、気分のいい湯浴み? オノレは、これで手打ち?」  拡声された声。さらに口が裂けた。顔が割れそうな程に。   イヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ。汚穢に満ちた声。   化け物の光線は全て不発。どころか避けていたはずのシスターズが、  「な、おい!」   口に含み出した。   すぐに止めろと、ウレタンが化け物に叫ぶ。  「従うわけないだろ! おい、くるぞ!」  「ユクゾ?」   ポワッとオレンジの丸い光。太陽にも見える光が、次の瞬間には、巨大な星のように膨ら  んで、  「やべえ、やべえやべえやべえ!」   シーチキンの焦燥を知ってか知らずが、ウレタンは察したように降下する。   召喚は色々失敗だった。でも何かいいことを思いついたとばかりに、化け物のもとに。  「いま、戦闘中だ! みりゃわかんだろ!」  「わりい、でも聞け」  「なんだ!」  「今から」   むにゃむにゃ。  「いやお前の本気で犠牲になるのは化け物だけだし……わかった。それしか手段がないなら!」   おう、と身体をはたく。   シーチキンはそれ以上何も言わずに早くしなとだけ。   ウレタンは確かめるように間を置いて、化け物に近づいてその手袋で触れた。パッと消えた。手品のように。   手袋の手をまじまじと開閉した。  はっ、と。   また不敵に笑い、敵と向かい合う。   全面にステンドガラスが張り巡る煌びやかなビルの真上でシスターズが今まさに光の玉を吐き出そうとしている。   攻撃の仕方が変わったが、特徴に一貫性がないのはまさに、今更といったところ。   距離は四車線道路一つ分。   ただしウレタンはまだ宙に浮いたままだ。  「早くしろってね! おっけい!」  言って、ウレタンは手をかざす。   シスターズは口に光を含んだまま、笛を吹き出した。   ヒョロローと空に鳴いて、すると雨が降ってきた。視界に霧。シスターズの周りを覆う。   ウレタンは気にせず前を見据えた。  『二重の真実(ダブルノンフィクション)!』  気合いを入れるように発する。   直後、刹那の処理。   僅かでも遅れたら終わり。   しかし確実に敵を葬る茨の剣。   化け物は再出現した。  そう、無論。   犬の化身の腹の中に。   希釈された化け物。無論。「増殖したら、どうよ!?」  叫ぶ。   増やして増やして、薄―く伸ばした真実性。   そして風船の様に膨れ上がるシスターズ。どこまでもどこまでも、犬の化身――シスターズはもはや別種の怪物で身体がいつ破裂してもおかしくない程にむくむくむくと膨らんでいく。  「さてさて」   としかし、シスターズがほくそ笑んだ。血の気は引かない。まだ勝負はついてない。   しかし、次第にウレタンのその表情の余裕は剥がれていく。最初ドーム球場程に膨れ上がったシスターズだが、徐々に消化と膨満を繰り返し、せめぎ合い。しかし長くは続かない。  希釈にも限度はある。一方であちらは。  「どうしました魔法少女? これでしまいですかえ?」  は、と絶句。  「ごっくん」   少女のような声。  「お……」   瞬き。ウレタンまで生唾を飲む。思わずシーチキンを撫でる。しかし、喉を鳴らすだけで、いつもの憎まれ口が返ってこない。   シーチキンも固まってるらしい。   唾を飲んだはずが、喉がからからに乾いていた。   頭の中から理性が干上がっていく。   もうどうやって倒すのか。   そんなまさか、と。そんなそんなそんなと。  「焦るな」   不意に隣で発したいつもの声。   ウレタンは冷や汗をかいていた。  「あ、はは……」   空中で、がくんと膝をつくように項垂れる。  「そう簡単には倒せねえって」   消した重力がそろそろ頃合いというように周囲の重力と混ざり合い徐々に落下する。   倒せない。策がない。でも倒さないと。   世界が終わりそうだって。   わかっていても何もできない。   シスターズの口の光は邪魔が入ったせいか気付けば消えていた。出方を伺っている。まるでメーテアの時のように。この規格の敵は皆そうなのかもしれない。   シスターズは目の前で、今は古びた和菓子屋に屋根を突いて手を突っ込み和菓子の、いや和菓子屋の建物ごとフルコースを貪っていた。  「ちっどうするよ」   シーチキンも顎に肉球をあてがう。  「わかんねえ! でもやりようはいくらでもある!」  「例えば!?」  「食べた奴ら皆消化吸収してって、本当か? 出来過ぎじゃないか? 奴の血肉となったなら何となくわかる。でもそれがない。見た目変わってないって事は」  最早何を言ってるのかわからない、  「……って、いや」   一時頭に何かが閃く。  「まさか」   どうした?とシーチキン。   ウレタンはしばらく考えた。   もし、あの中に人がいるなら。   しかし何故だろう。皆食われたというのに実感がない。  「おかしい」「何がだ?」   シーチキンが疑問を口に。   しかし構わずウレタンは考えた。   あれは本当に。  「……」   急に、不意に、ウレタンが背伸びをした。は、とシーチキン。  「いや、なんか、はは」  これは案外、早く。   ふっとまた笑う。そして、  「ハッ! やっぱりわたしは最強だな!」  ウレタンは気合い一喝。   弾け飛ぶように地を蹴った。   足は早い。原理はわからないけどウレタンの中にある隕石が駆動している感覚。通常の数倍の力で風のように地を駆ける。   ちょうどよく障害物がない一直線の大通り。  国道のど真ん中。   シスターズが目線を合わせるように、着地する。   肩にしがみついたシーチキンがわあわあ言っていた。「急にどうした!」だの、「無策でとびこむな!」だの。   ウレタンは笑っていた。   さあこいと、指をくいっと。シスターズが真似をする。   挑発にウレタンは更に強く蹴った。   ずっと付き合ってきた、手袋の感触を確かめるように手を開閉しまた向き直り、残り僅か。  「じっとしてろよ!」   触るだけ。でもそう易々とはさせないだろう。   でも構わない。逃げるなら死ぬまで追いかけるだけだ。   すると、シスターズの方からこっちに向かってきた。   体躯はメーテアの倍以上だ。面積がでかいので、どこに触れても、  「かああああああああああああああつ!」   上から摘みあげるような腕の攻撃をすんでのところで回避する。頭と腰を低くして、相手の懐に入る。   皆がもしも。   もしも本当にその腹の中にいるのなら。   生きているのなら。  『リアリティーが無さすぎる』   何をしたのか、からくりはとどのつまり何もわからない。まだこの世界に何が起きているのか誰も何も知らない。何もわからない。   街の人も魔法少女も何もかも消す。   奴の存在する意味も目的も知らなくても。  「これだけはわかる」   それは奴の存在の矛盾。現実で生きている人達を消した時、奴のその行為や存在には現実性がなくなるのではないか。  『そもそも現実とは何か』  やつは実はああみえて。   あっさり消えるんじゃないか。   お構いなしにシスターズに触れる。触れた瞬間、パッと。   スイッチをオフにしたように犬と人の混ざった姿をした化け物が消えた。   あっさりと、跡形もなく。消える寸前そいつはさして驚きもせずににゅっ、と目線を送るのみだった。   先代の来咲汁子が手こずった最強の敵。   まさかのまさか。  封印に成功した。  「まさかお前」   消えた敵。消えた空間に代わりに浮かび上がる背景と、何事もなかったかのような世界。  ハッといつものように息を吐くウレタン。  「忘れちゃいねえだろシーチキン。封印はできる。倒すまでもない。でもまたメーテアみたいに出てくるかもしれない。仮にメーテアがあの時死んでいたとして、残った奴を消せるのかもわからない。でも」   ウレタンはシーチキンの耳をピンと悪戯のように立てた。  「奴の今の状態。消した結果何が起きるかにかけた」  しばし悩んでいたシーチキンは直後はッとなり。  「まさか、でも。そんな。いや、ありえる……のか?」  そうは言っても、微動だにしない景色。   誰も何もでてこない。   そう思っていた。   まず、陽が差した。太陽が雲を突き破って光を地上に降り注ぐ。  見上げると、なんだかポカポカしてきて思い切り背伸びをする。  「いやあ快晴だなおい!」   陽光に身を預け、いかにも気持ち良さげに。   シーチキンがいやいや変わらねーじゃねえか状況と。  「まあいいんじゃないの。そのうちひょっこり現れるって」  「適当だなおい……おいほんとこんなんで」  シーチキンが尚も唸っている。   まあいいのだ。   これはそのうち解決する。   ウレタンの考え違いだったのだ。   そう、ずっと現実化した化け物はこっち側にいると思っていた。   しかし現実に数か月以上も消えている、現実にはいない存在を現実が現実だと判断するだろうか。   現実は現実がこれは現実だと判断するのではないか。奴が現実を決めるわけではない。「ハッ、しかし案外ちょろかったな後は皆戻ってきたら、適当にまた、のらりくらりやりま  すかねえ」   鼻歌混じりに誰もいない国道を悠々歩く。本日は絶好の快晴な上、歩行者天国である。   シーチキンだけがまだ信じ切れておらず、「うーんうーん」と。   それから二か月ばかりこのテンションの落差は続き、ある日の朝になって突然、目が覚めたら、  「お姉ちゃん! おっはよう! 今日もね、一緒に学校いこう。あっ、お仕事あるから、途中までね!」   何か色々なことがなかったことになっていた。   そんな世界がここにはある。   少なくともウレタンは来咲汁子のままだったけれど、何故か妹は目が見えるようになっていて、来咲の家族は両親が健在で、海原市の人達は何事もなく生きていて社会の潤滑油となっていた。   ウレタンもその一員として、今日も猫と一緒に学校と生活に忙しい。  「なあ魔法少女たちは」  「あーお前の予想通りさ。ある化け物を倒した場合、その倒された化け物が倒した相手は元に戻る。なかったことになる。異界のルール。無論、確証はないぜ。でも全員生き返って日常を謳歌してるさ。気ままなもんさ皆。少なくとも海原一帯は平和になった。全てお前の功績だぜ」   あの時。ウレタンには聞こえていた。   先代の魔法、読心によりあの化け物の恐怖が。言葉にこそなっていなかったから当初それがなんであるかわからなかった。   まあ、そんなことはわりとどうでもいい。   ふーんと、さして興味もなさげにしかしどこか楽しげに遅刻確定の通学路を歩く。   昨日、声優の仕事は長期の休みにしてほしいと話をしてきた。つまり活動停止だ。   ウレタン自身が、どうも乗り気になれなかったのと、今はもっと他の事を頑張りたいと思っての事である。   元々は、イジメのイメージを自分自身から払拭したくて、軽い高校デビューみたいなつもりで口調も何もかもそれと同時に全てを変えたのだ。  なのに何故かウレタン自身はまだ昔の暗い影を引き摺るように、好き放題。   なんてことはない。   まだまだウレタンも所詮少女(子供)でしかないのだ。   魔法があろうがなかろうが。  「ま、自分のしたことを人のせいにする気はねえ」   そうしてキッパリ明るい世界と一時的に縁を切ることにしたのである。  「それにしても」   帰りのホームルームが終わり合流したシーチキンが、  「お前ちょっと変わったよな?」  「え?」   そう言った直後肩から背中にかけてずしんと。  「おっすウレタン!」   振り返ると、全身タックル二回目を決めようとしている、二人。   望野あかりと、貞原雪子が。   呆然としていると、そのまま手を引かれた。  「妹がさ! お前のファンなんだよ! ちょっと付き合えやコラ!」  「なんかさ、超久しぶりだよね! いま私なんか久しぶり過ぎて、ちょっと久しぶり涙が出  てきました」  「実況風やめい! あっ、うち来る前に腹満たしてこうぜ、最近さ、かなり美味い……」   これは魔法少女のお話である。   期せずして魔法少女になってしまった彼女達のお話である。   しかし世界は広い。まだ彼らはこの世界のことを何も知らない。   そう。まだ、何一つとして知らない。
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