陰徳

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 ─10─  教室に入ると、赤井さんはまだ来ていなかった。 「体調、よくならなかったのかな……」  私の独り言は、誰もいない部屋に響いた。すると、ドアが開く音がした。赤井さん? 「赤井さんおはようございます! 体調はもう大丈夫なんですか?」  私は嬉しさから、早口気味に話しかけた。 「す、すみません。大丈夫です」  あれ? 見るからに様子がおかしい。目もうつろで、怯えているように見える。 「赤井さん! 大丈夫ですか? どこか悪いんですか?」   私はつい、詰め寄る。 「す、すみません、すみません……」  完全に怯えている。体も小刻みに震えているようだった。二日前、講習が終わってから今日にかけて、赤井さんの身に何かがあったんだ。しかし、この様子じゃ聞くに聞けない。 「おはようございます!」  もう講師が来てしまった。 「えー、今日は……」  赤井さんが気がかりで、知らないうちに講習は終わっていた。何を話していたのか覚えていない。 「赤井さん!」  帰ろうとする彼女を追いかけ、今度は穏やかに話かけてみる。 「赤井さん、大丈夫ですか? 何かあったんじゃないですか? 何かされたんですよね? 私は味方ですから、安心して話してください」 「──す、すみません。これ以上はもう……」  赤井さんはそう言い残し、逃げるように帰ってしまった。諦めきれず、後を追いへ外へ出てみると、そこには黒い車が停車していた。そして、赤井さんはその黒い車に乗り込んだ。  私は咄嗟に物影に隠れた。明らかに、旦那さんではない男性が運転していた。それに、乗り込む姿も怯えているようだった。  家に帰ってからも、赤井さんのあの姿が頭から離れない。あんな怯え方、普通じゃない。たった一日であそこまで別人になるなんて……。いったい何があったというのか。  ──待てよ。確か、善行について話したい事があると言っていたはず。もし善行を見てしまったことが誰かにバレていたとしたら? それを報告されていたとしたら……。  講習で話していたような、罰則的なものを受けた可能性はないだろうか。そうだとしたら、あの怯え方も納得できる。そして、あの様子から見るに、その禊は継続中だと思われる。  黒塗りの車に乗り込み、どこに連れていかれたのだろうか……。それに、なぜわざわざ禊中の彼女を講習に連れてきたのだろうか。確か、禊中は村が用意した施設で過ごすことになっていた。当然、外へ出るなど許されるはずがない。それなのに、なぜ……。  ──もしかして。  もしかして、あえて私にあの姿を見せる為に……? お前もこうなるんだと言わんばかりに……。警告か……?  すると突然、耳をつんざくようなけたたましいサイレンが、村中に鳴り響いた。 「美月ちゃん! 今すぐ窓の鍵をかけて、カーテンを閉めて!」  お義母さんは、階段下から悲鳴混じりの声でそう叫んだ。 「わかりました!」  訳がわからないまま、ただ事ではないことだけは理解できた。言われた通りにし、お義母さんの元へと向かった。 「お義母さん、何事ですか?」 「ごめんね、驚いたでしょう。これはね、熊が出た時に鳴るサイレンなの。この村には狂暴な熊がいて、出た時にこうやってサイレンを鳴らして、知らせてくれるのよ」 「そんな、狂暴な熊が出るなんて……。怖いですね」 「家の中にいればなんてことはないから、大丈夫よ。でもサイレンが鳴り止むまでは、絶対に窓には近づかないでね」 「わかりました」  お義母さんは、まだ、少し声に緊張が残っていたが、いつもの優しい声に戻っていた。  お義母さんが淹れてくれた温かいココアを持ち、部屋に戻り、本を読んで熊がいなくなるのを待つことにした。ソファに深く腰かけ、意識が物語から夢の中へと移ろうとしていた時だった。 「何?」  外から声がしたような気がし、カーテンの隙間に目をやる……。すると、隙間から人影が見え、思わずカーテンを開ける。 「助けて!」  サイレンが鳴り響く中、女性が鬼気迫る表情で、一心不乱にこちらへ向かって走ってきた。足がもつれ、今にも転びそうだ。 「大変だ! このままでは熊に襲われてしまう!」  助けにいこうと立ち上がった時、後ろから黒いスーツを着た男性が女性を追いかけてきた。 「あの男……」  健治が善行を行ったとき、現れた男! 咄嗟に身を隠し、カーテンを閉め、隙間から様子を伺う。  「そう言えば……」  朝、善行の放送が鳴っていたことを思い出した。──もしかして、あの女性って……。  逃げ惑う女性は、善行の『犠牲者』なのではないだろうか。怪しい雰囲気に気づき、隙をついて逃げ出したとは考えられないだろうか。ならば尚更助けたい。しかし、今まで見聞きしたことが次々に頭をよぎる。  健治の善行で命を落としたあの女性。赤井さんの、怯え、憔悴しきったあの姿。そして、何が待ち受けているかわからない禊……。それらが恐怖となって襲い掛かかってくる。金縛りにあったかのように、体を動かすことも、声を出すことさえ出来ない。  少し目を離したうちに、女性は男性に捕まっていた。  髪の毛を掴まれ、ここからでもわかるほどに頭皮は伸び、苦悶の表情を浮かべていた。その間、女性は必至に男性の手を掴み、なんとかその手を離そうとしていた。だが、それもむなしく、男がポケットから取り出したスタンガンを女性の頭に押し付けた。そして動かなくなった女性は、そのまま引きずられ、待機していた車に乱雑に乗せられ、どこかへ連れて行かれてしまった。  あのサイレンは、熊なんかじゃない……。善行の『失敗』を告げる合図なんだ……。  おぞましい光景から目を離すことができず、恐怖で、全身を駆け巡る血液が冷たくなり、体の全機能を失いそうだった……。  息が、息……が。 遠くで、声がする……。目を開けると、ベッドの上だった。遠くで聞こえていた声は、お義母さんの呼びかけだったようだ。 「美月ちゃん! 大丈夫?」 「──は、はい。私……」  まだ、状況がのみ込めていなかった。 「下から呼んでも返事がなかったから、見に来てみたら……窓の前で倒れてたから、びっくりして……」  そう言うと、お義母さんは顔を手で覆い、泣き出してしまった。そんなお義母さんを見て、私も泣き出してしまった。 「お義母さん、私……」  見てしまったことを打ち明けてしまおうと、言いかけた。 「美月ちゃん、何も言わなくてもわかってるから──大丈夫だから」 「え……」 「わかってるから。でも、このことは誰にも言っちゃだめよ。健治にも……」  健治……にも。 「お義母さんは、美月ちゃんのこと守るから安心してね」 「お義母さん……」  子どものように、お義母さんの胸で声を上げて泣いた。ここに来てからの不安を吐き出すかのように。そんな私を、お義母さんは優しく抱きしめてくれた。 「あのね、ここの村では、他人を簡単に信用してはいけないのよ。もう講習で聞いているかもしれないけれど、報告義務があるからみんな目を光らせているから……。それに、知っているこを報告しなければこっち側も危険にさらされるのよ。だから決してさっき見たことは口にしてはいけないの。お義母さんは、もう誰も失いたくないのよ……」  まるで、誰かを失ったことがあるかのような口ぶりだった。お義母さんの目線の先には、中学生くらいの女の子と小さい男の子が写った写真が飾られていた。 『あれ? 今までこんな所に、写真なんてあったかな……』  不思議に思っていると、お義母さんが話始めた。 「この女の子はね、中学一年生の頃の、咲。私の娘なの……」  ──娘? 「ちょうど、今と同じような季節だったわね。紅葉が始まって、風が冷たくなりだした頃ね」  娘がいたなんて……横に写っているのが健治だとしたら、お姉さん……。 「美月ちゃんのように、明るくて優しい子だったの。そして、なにより正義感の強い子だったわ」  正義感……。 「学校からの帰り道、今日のようにサイレンが鳴ったのよ。それで私は心配になって、カーテンの隙間から娘がいないか見ていたの。そしたら、ここから見える場所に娘の姿を見つけて……。実際この目で見てしまうと、咲は助けずにはいられかったのね。襲われる女性を必死に守ろうとていたの。私はもちろんすぐに咲のところに向かったわ。でも外へ出た時には、咲とその女性は既に、黒い車に乗せれられていたの。必死に追いかけて抵抗したんだけど……」  悔しさからなのだろう、お義母さんの唇は震えていた。 「そのあとすぐに役場に向かって、理由を話して理解を求めたわ。すると、村長が出てきて、娘に話を聞いたらすぐ家に送り届けると言ってくれたの。だから安心して家に戻ったわ。でも、待てど暮らせど帰ってくる気配はなくて結局朝になってしまって……。それで、これ以上は待てないと小さい健治を連れてお父さんと役場へ行こうとしたとき、電話が鳴ったの。役場からだった。娘さんを迎えに来てほしいと。何かがおかしいと思ったわ。送り届けるといっていたのに、急に理由も話さず、迎えに来いだなんて。不安な気持ちを抱え、役場に迎えに行ったら……。もう、咲は……冷たくなっていたの」  お義母さんの肩は、小刻みに震えていた。  なんてひどい仕打ちなんだ。本来なら、娘さんの行動は賞賛されるべきことであって、決してこんな仕打ちをされるようなことではない。やはりこの村は常軌を逸している。 「私は取り乱してしまって、ここからの記憶はあまりないの。お父さんが一生懸命私を支えてくれて、なんとか娘と一緒に帰って来れたのよ」  お義父さん……。自分だって辛かったはずなのに、お義母さんと健治を守ったんだ。自分の生まれ故郷にこんな仕打ちをされて、きっとお義父さんも打ちひしがれていたはずなのに……。 「少し私が落ち着いたのを確認してから、お父さんが死因を教えてくれたわ。真相はもうわからないけど、殺すつもりはなかったって。尋問をしていたときに、心臓発作を起こして亡くなったみたいなの。きっと強いストレスがかかったのね。正義感が強かったから悔しかったんだと思う……」  当たり前だ。中学生が長時間尋問されたら、強いストレスになるに決まっている。大人だって耐えられるかわからない。そもそも、子どもに尋問って……。誰も止めるものはいなかったんだろうか。──なんて汚い人間なんだ。もはや人の皮を被った悪魔だ。 「でも、お母さん誇りに思っているのよ。見て見ぬふりをしないで助けようとしたんだもの。学校で善行のことや、この村の事を小さい頃から刷り込まれてきているはずなのに。どうなるのかだってわかっているのに……それでも、助けようとしたんだもの」  そうか。そんな小さい頃から洗脳が始まっているのか。だから健治は違和感なく悪行ができるのか……。 「でもね、美月ちゃん。正義感とか、お母さんもうどうでもいいの。生きていてくれさえすれば……。それは、間違った考えかもしれないけど、健治を守る為には割り切るしかなかった。お父さんも、娘を失ってからはこの村で生まれたことを恥だと言っていたわ。お父さんは何も悪くないのに……。だからね、美月ちゃんには何があっても自分の命を優先してほしい。──生きていてほしいの」 「──はい。お義母さんの為にも、亡くなった娘さんの為にも、生き抜きます。悲しませたりしません!」  お義母さんを守りたい。辛かった日々を私が癒してあげたい。──大切なひとだから。 「美月ちゃん、ありがとう」    この時、本当の、母と娘になれた気がした。
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