生きるとは

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 生きるとは、中々大変な事である。子供の頃は、時間が経つ事について苦しいとも楽しいとも思わない。ただ夢中で時間が過ぎていく。  それが20才に近づく頃から苦しい部分が優勢になってくる。それは今までお金を稼ぐ立場でなかったのが、お金を稼ぐ立場になるからである。一昔前の女性ならそうでなかったかも知れないが、それでも主人を支えて経済的に両親から自立しなければならないから同じ事が言える。  無論恋愛など子供時代にはない楽しい部分もあるが、人生を通じてこの世での生活は、楽とは決して言えず、むしろ苦しい。  歴史をさかのぼればそんなに苦しくはなかったかもしれないが、歴史が進むにつれ、生活が苦しくなったのだろう。哲学でも悲観的な考えが強くなってくる。  そうした中、19世紀に悲観的な考えがピークに達し、完全な無神論というものが生まれた。  しかしその完全な無神論を克服する超人思想というもので表向きには、以前より完全な幸福が可能になったとされる。  しかしそれはあくまでも表向きである。そもそも苦しい状況が無神論を生み出したのだから、それを克服するなどそもそも無茶苦茶な話である。  結局信心深い昔の生活を取り戻さなければ幸福な生活など送れようがないのだが、その完全な無神論が誕生したのには、無視出来ない重大な事実がある。  それは、科学が発達するにつれ、客観的な時間観念というものが生まれ、それは無限であるから、その中で有限な物質のコンビネーションはやがてそのコンビネーションをくり返すという永遠回帰の思想である。  確かに時間は無限の様に思える。そうなると永遠回帰は覆しようのない真理であるように思える。  しかし最近の研究「二重スリット実験」では、過去の事実が現在の観測によって変わるという、時間が絶対的なものであるということに対する反対論も生まれるなど、その絶望的な考えにもメスが入るようになった。  結局、矛盾のない説明をした上で生きるということに取り組まないとダメなように思える。何も考えずにただバタバタしても、(たとえ重労働をしても)それは良い生き方とは言えないように思える。  つまり、とりあえずの結論として、昔の信心深い生活を取り戻すには社会がどう変わるべきかを模索していく必要がある。
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