プロローグ

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プロローグ

 ホームレス少年の目撃情報を聞いたのは夏休みに入る三日前のことだ。  髪は鳥の巣みたいにボサボサで薄汚い服を着ている。年は八才くらいで、人気のない路地裏が彼の住処らしい。彼を見たというクラスメイトの裏原(うらはら)くんの情報によれば、少年は捨て猫みたいにダンボール箱の中で丸まって寝ていたようだ。生ゴミの入ったポリ袋を抱えて。  少年のことを聞いた時、僕は初め冗談だと思った。八才でホームレスなんているわけがない。いたとすれば一時的な家出であってホームレスではないと思う。  でも僕は裏原くんの情報を無視できなかった。彼が言うには、少年はなぜか〝僕そっくり〟だというのだ。そして「瑠人(りゅうと)、昨日ゴミ食ってた?」とか「瑠人ってホームレスなの?」と言われて、僕は凄くムカついたし悲しくなった。  僕は裏原くんにイジメられているんだろうか。裏原くんは僕をホームレス少年と呼び、からかって遊んでいるんだろうか。それほどまでに僕は貧乏でみすぼらしいのだろうか。  そんなはずない。本当に貧乏なら僕に対して「臭い」「汚い」「あっち行け」とか言われるはずだし、むしろ僕は綺麗好きで髪の毛だってサラサラだ。服だって毛玉一つないし、ゴミを食べたこともない。  ということは、裏原くんが言うホームレス少年っていったい何者なんだろう?  昨日までの僕は何も知らなかったし、裏原くんの情報は殆ど信じていなかった。  でも一学期の終業式が終わり、夏休みが始まって数日が経った今の僕は違う。ホームレス少年のことを冗談や噂として片付けることはもうできなかった。  なぜなら今日昼頃、僕は公園で〝少年〟に直接出会ってしまったから。 きっと忘れることはできないだろう。むしろ忘れてはいけない気がして、僕は少年のことを記録することにした。  夏休みの宿題、絵日記のノート四ページ目。  書き終えて、読み返して、夏なのに一瞬ゾクッと寒気がした。少年の姿が脳内で鮮明に再生されて、僕の心は一気に恐怖の色に染まった。少年がホームレスだからとか、僕とそっくりだからじゃなくて。  存在そのものが僕にとってはあまりにも〝異様〟だったから。  見た目は人間なのに、人間ではないような不気味で怪しげで悲しげな空気を少年は纏っていた。もしも彼の正体が僕の想像通りなら……。  いやいや、さすがにそれはない。僕の考え過ぎだ。  ――そうだ、洛奈(らくな)にこのことを話してみよう。彼女ならきっと、僕の欲しい解答をくれるはずだ。  翌朝、太陽が昇り始めた涼しげで静かな時間帯、僕はラジオ体操をするため近所の公園に行った。体操が終わって出席カードにスタンプを貰った僕は、ふと公園にある大きなクヌギの木を見た。たまにカブトムシがとまっていることがあるけど、今日はいないみたいだ。  ぼーっと木を見つめていると、後ろから突然声をかけられた。 「瑠人、そろそろ帰ろっ」  僕は一瞬ビクッとしたけど、声が誰なのかはすぐにわかった。振り返ると、さっきまで一緒に体操をしていた倉本洛奈(くらもとらくな)が笑顔で立っていた。彼女は僕と同じ小学三年生で幼馴染の女の子。洛奈の黄色いワンピースは公園の緑が背景になってひまわりみたいに見えた。 「うん。帰ろう、洛奈」  手を伸ばし、そっと洛奈の手を握った時、朝の涼しげな風が僕たちをふわりと包み込んだ。  公園を出た僕たちは仲良く帰り道を歩く。家が近所だから、ラジオ体操の日は自然と一緒に帰ることが多かった。夏休みの宿題や僕が今ハマっているゲームのことなどを話しながら。  そして洛奈の家が僕の視界に入る。  もうすぐさよならの時間が迫っていることに寂しさと不安を感じた僕は、昨日からずっと話したかったことを初めて彼女の前で口に出した。 「ねえ洛奈、ちょっと変なこと聞いてもいい?」  急な質問に洛奈は「ん?」と言い、不思議そうに首を傾げたが、僕は言葉を続けた。 「ドッペルゲンガーって知ってる?」 「えーと、ホラーゲームの話?」 「ゲームの話じゃない」  真剣な口調で否定すると、洛奈は困ったような顔で僕に見つめた。ドッペルゲンガーとホラーを結びつけたということは、それが何なのかは洛奈もある程度理解しているのだろう。でも僕は元々オカルトマニアでもないし、突然こんな話を振られて動揺しているに違いない。  ドッペルゲンガーは自分とそっくりな姿をした悪魔で、出会った人間は死んでしまうと言われている都市伝説の一つだ。  僕は噂の〝少年〟がただのホームレス少年と断定することがどうしてもできなくて、もしかしたら本当にドッペルゲンガーじゃないかって思ってしまって、そんなことあり得ないのに、怖くて不安で堪らなくて……。  ただ、誰かに「違う」って、言ってほしかったんだ。 「その…………会ったんだ」 「え?」 「僕はドッペルゲンガーに会ったんだ」  あえて断定して言った僕のセリフに、洛奈は目を丸くした。そりゃそうだ。もしかしたら僕がおかしくなったと思われたかもしれない。言ってしまった後で僕は少し後悔した。  洛奈はちょっと困った顔をする。 「もし瑠人がそれらしきそっくりさんに会ったとしても、実際に見ていない私が信じるのは難しいなぁ。証拠があれば別だけど」  確かにそれは言えてる。 「君は、君のそっくりさんがドッペルゲンガーだって証明できる? 君とそっくりな普通の少年である可能性を否定できるの?」 「うーん……」 「それに君は今こうして生きてる。ドッペルゲンガーに会ったら死んじゃうんでしょ? ってことは、君が生きているという事実がドッペルゲンガーの存在を否定できるんじゃないかな? 少なくとも〝今〟この瞬間は」  それはつまり、一秒後には死ぬかもしれないということ。でもそれを言い出したら洛奈だって同じだ。未来は誰にもわからない。突然心臓が止まるかもしれないし、車が突っ込んできて事故死する可能性だってある。 「大丈夫。明日も瑠人はきっと生きてるよ」  洛奈は僕の肩をポンと叩き、優しく微笑んで見せた。洛奈の笑顔を見ていると、僕の不安も不思議と小さくなっていった。  ……僕はやっぱり、余計な事を考えすぎていただけだ。  昨日の昼頃、僕は砂糖水を持って公園に行った。木に砂糖水を塗ってカブトムシをおびき寄せようと思っていた。けれど大きなクヌギの木の前に行ったら、僕の後ろに変な気配を感じた。  振り向くと、そこには噂の〝少年〟が立っていた。  服は薄汚れた白いロングTシャツだけ。靴も履いてなかった。虚ろな目をしていて、僕そっくりな素顔で、影のように少年はそこに自然と立っていた。  異様な空気、異質な存在。僕は本能的に怖くなって逃げるように家に帰った。  本当は逃げる必要なんてなかったのかもしれない。僕が勝手に怖がっていただけで。  そしてしばらくは何事もなく、平凡な毎日が過ぎていった。  八月中旬――僕そっくりな少年に会ってから十三日後、僕は家族と一緒に海へ行った。夏休み前から計画していた家族旅行。僕もずっと楽しみにしていた。  ホテルに荷物を置いて、僕は父さんと母さんと一緒に海水浴場に行った。海の家の更衣室で水着に着替えて、僕はさっそく白い砂浜を走って海へ向かった。  雲一つない青空。  エメラルドブルーの海。  だけど僕はその綺麗な海で、悪魔のような波に飲まれ、海の底へと沈む――。
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