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僕が生まれたのは七年前の夏だった。
人間のように母体から生まれたわけじゃないし、赤ん坊のようにただ泣くことしかできなかったわけじゃない。
般道路の何気ない電柱の〝影〟から突如発生した僕は、赤子というより幼児、あるいは児童と形容すべきだろう。自然界の動物みたいに生まれてすぐに歩くことができたし、なぜか最初から言語を知っていて、自分の名前が『ソルト』だということ、そして『ドッペルゲンガー』であることを知っていた。当然、呪いのことも。
【呪いの概説】
・ドッペルゲンガーに会ったオリジナルの人間は、死の呪いにかかる。
・死の呪いは、ドッペルゲンガーに会って十三日目に施行される。
・会った、とはオリジナルとそのドッペルゲンガーが同じ場所に存在し互いに素顔を認識するか、どちらか一方が相手の素顔を認識した時点を指す。
・ドッペルゲンガーはオリジナルと関係の深い場所に出現する。
・呪いを解くには、十三日以内に呪ったドッペルゲンガーを殺さなければならない。
基本の法則はこんな感じ。
生まれたばかりの僕が身に着けていたのは、薄汚れてくたびれた白のロングTシャツだけ。『影』がくれた、たった一つの贈り物。飢えれば自分で食べ物を探し、夜は蚊に刺されながら橋の下で寝た。とても寂しくて、野良猫を抱いて寝たこともある。
そんな僕は、ある日――喉を潤すために公園に行った。
ジリジリと太陽に照らされた猛暑の日だった。世間的には夏休みだったらしい。それはまだ僕が、曽山瑠人と呼ばれる以前の記憶。僕が嘘をつく、数週間前の出来事。
僕が水飲み場としていた公園は自然の森と名づけられており、名の通りたくさんの木々に囲まれ、夏でも涼しい場所だった。
でも人気は少なくて、人間の姿はたった一人の少年だけ。蝉の声が煩くて遊ぶには耳障りだし、こんな暑い日にわざわざ外で遊ぶなら僕なら水浴びをする。
だけど麦わら帽子を被ったその少年は、大きなクヌギの木の前にいた。どうやら彼は小瓶に入れた透明な液体を絵画用の筆で木に塗っているようだった。
今ならわかるが、カブトムシを捕るために砂糖水をつけていたのだろう。しかし僕は少年の行動の意味がわからなくて、そんな些細な疑問を解きたくなって、僕は男の子に歩み寄ったのだ。ボロ雑巾のような服を着たまま、裸足でそっと。
――ピキリ、と僕は落ちていた木の枝を踏んだ。
すると少年は僕を振り向いた。中性的でこれといった特徴もない顔立ちの少年で、僕は別段驚くことはなかったけど、少年のほうは違っていた。
「だ、誰……?」
彼は驚愕し、血相を変え、怯えるようにして逃げていった。
小瓶と筆を地面に落として。その小瓶には『りゅうと』と黒い文字で書かれていた。
僕はこの時、まだ自分の顔をよく理解していなかったから、少年が逃げたのは僕の服装のせいだと思っていたのだが。
そう――彼は曽山瑠人だった。
そうとも知らず、僕はその後も浮浪者生活を続けた。
日中はビルの路地裏で、ただじっとして空腹と戦った。Tシャツは汗と生ゴミの匂いで酷い状態だったが、当時の僕には慣れた悪臭だった。
路上生活の数週間の中で、食べかけのパンや弁当を見つけた日は喜んだものだ。賞味期限が完全に過ぎていたとしても、僕にとってはご馳走だった。カラスのようにゴミを漁り、野良猫のように生ゴミを食べ、溝ネズミのように汚い場所で僕は生きていた。
だけど、このままだと死んじゃうかもしれないと思った。
生まれたばかりなのにたった数週間であの世行きだなんて、僕は何のために生まれてきたのだろう。自問自答したが、神様に殺意を覚えただけだった。
その頃、僕を見つけた何人かの大人が僕を保護しようとしたことがあったけど、自分のような悪魔が保護の対象とは思っていなかったし、無理やり保護しようとする大人たちが怖くて、彼らから隠れるように生活していた。けれど、その生活も長くは続かなかった。
薄暗くてジメジメした路地裏のゴミ捨て場に、女の子がやって来たんだ。可愛らしい黄色のワンピースを着た彼女は僕を見つけるとこう言った。
「瑠人?」
それが、僕と倉本洛奈(くらもとらくな)の最初の出会いだった。
「どうしてこんなところにいるの?」
彼女はなぜか泣きそうな顔をしていた。
「海で溺れたって聞いて、凄く心配してたんだよ」
海……? 青くて、大きな水溜り。
そんなイメージが僕の中に浮かんだ。でも、それだけ。
「瑠人、よかった。生きてたんだね……」
なぜ彼女は泣きそうになったり、急に嬉しそうに笑ったりするんだろう。
僕は不思議に思いながら彼女を見つめていた。
「もしかして覚えてないの? 私のこと、わかる?」
初対面だから知っているわけがないし、彼女がさっきから何を言っているのかよくわからなかった。
「ごめん。無理に思い出さなくてもいい。つらいこと……だもんね。だけどこんなところにいたら駄目だよ。もう遅いし、帰ろう?」
そう言って彼女は、汚くて臭い僕に手を差し伸べた。彼女はまだ子供だったから大人と相対したような恐怖は感じなかったけど、彼女の言動がどうにも理解できなくて、僕はただ彼女を見て茫然としていた。
沈黙する僕の様子を見て洛奈は困ったような顔をすると、
「大丈夫。私は君の味方だよ」と言った。
「み、か、た?」
「そうだよ。だから一緒におうちへ行こう?」
おうち――それがどんな意味を持つのかは知っている。そして僕にはそんなものはない。
だけど僕はそっと洛奈の手を取った。取ってしまった。彼女はぎゅっと、汚れた僕の手を握ってくれた。初めて触れた、人の手。小さいのに温かくて、とても優しい手だった。
そして僕は彼女に連れられ、曽山家へ行った。洗面台の鏡で自分の顔をはっきりと見て、記憶の片隅にあった『りゅうと』そっくりの自分の姿を知った。
その時点で、曽山瑠人はもういなかった。
後から知ったことだが、僕が曽山家に来る一週間前に海で行方不明になったらしい。それが僕だったら奇跡の生還になったものの、僕は瑠人ではない。そもそも僕の名前はソルトだ。
要するに僕は偽者だ。
曽山瑠人が『オリジナル』なら、僕は『レプリカ』だ。
しかしながら分身のような僕は、家族や友人にとっては海から帰ってきた『奇跡の子』として認識された。家族は僕の登場に泣いて喜んでくれた。
実際のところ僕は海から戻ってきたわけでも、蘇生したわけでもないが、僕が本当のことを暴露しないのは、曽山瑠人として生きることを僕自身が望んでいたからだ。
例え、彼の『ドッペルゲンガー』だとしても。
その秘密を、僕は今も守り続けている。
ゴミにまみれて生活したあの頃には……もう戻りたくない。それだけ今の人間らしい生活に、僕は魅了されてしまったんだ。
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