1話 ダークサイドの少年

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「スーパー、付き合ってくれてありがとう。また明日ね」 「うん。じゃあね、洛奈」  買い物を終えた僕たちは途中の交差点で別れた。  やや寂しい気持ちを隠して、僕は帰路を進む。洛奈のマンションに遊びに行ってみたい気持ちもあったけど、一人暮らしの女の子の部屋に行くのは幼馴染の僕でもさすがに難易度が高い。  彼女の実家や僕の家で遊ぶことはこれまで何度もあったけど。彼女しか暮らしていない神聖な領域に踏み込む勇気はなかった。 仮に「遊びに行ってもいい?」と聞いて洛奈に心底嫌そうな顔で「はあ?」って言われたら僕の心が重症を負う。そんな結果になったら悲しいので僕は素直に自宅を目指す。  駅に着いた僕は一人で電車に乗り、ガタゴトと揺られて家の最寄り駅に到着。下車した僕はなんとなく最寄り駅近くの古寂びた書店に寄り道をした。  僕は本が好きだ。人間らしさを学ぶ上でも、人間の書いた書物は僕にとって重要な参考書である。人の願望や理想論などが登場人物や物語を通して書いてあって、読んでいて面白い。  そう、人間は面白いのだ。しかしどういうわけか僕はドッペルゲンガーだ。人間に生まれた人、おめでとう。悔しいからいつかリア充になってやる。  そんな虚しい目標を呟きつつ僕はいくつか本を購入し、自宅に到着したのは午後五時半を過ぎた頃だった。 「ただいま」  と言ったはいいが、母さんの「おかえり」の声はなかった。だがリビングの明かりが廊下に漏れている。母さんはこんな時間に昼寝でもしているのか? 幸せな人だ。  僕も将来は専業主夫になって、家から一歩でも出たくない。出来る限り人とは関わらないで、静かに影のように生きていきたい。きっと幸せな人生に違いない。  インドアを通り越して引き籠もりになろうとしているモグラのような僕は、家に上がってリビングに入る。そして見たのは……。  血溜まりの中に母さんが寝ていた。  部屋に充満する血臭が僕の鼻腔へと侵入する。割られた硝子戸と怜悧な破片。母さんの服についた、バケツのペンキを溢したような血糊。体から滴り落ち床へ広がったおびただしい血の海。白いソファについた血しぶきのような跡。誰かの足跡のような血痕。  僕は――それが何なのか瞬時には理解できず、頭が真っ白になった。だけど体だけは理解していたのか、力が抜け、持っていた通学鞄を床にストンと落とした。  体が小刻みに震えてくる。血が引いてくような感覚が自分でもわかる。僕が声を発したのは、その後だった。 「母さん……」  母さんが。僕の母さんが。ああ……嘘だ、そんな。何かの間違いだ。そうに決まっている。僕は母さんに駆け寄り、母さんを抱き起こした。  だけど母さんは冷たい。息をしていない。 なぜ? どうして? なんで? 意味がわからないよ。これは夢か? そんなわけはない。だけど母さんは動かない。  母さんの形をしたモノみたいに。  怖かった。今まで自分の正体がバレることを怖れてビクビクしていた僕だけど、比較にならないほど僕は震えていた。目の前の現実に対して、体が拒否反応を起こしている。  胸の辺りが酷く苦しい。ナイフが刺さっているのは母さんなのに、僕まで胸を抉られてしまった気分だ。 「はぁ……はぁ……」  呼吸が乱れてしまう。苦しみに耐えかねて、これまでにないくらいに僕は絶叫した。 「ああああああああああああああああああああああああああッ!!」  だけど、僕の不安定な状態は鎮静しない。 「母さん……何があったんだよ」  何がどう間違ったら心臓を刺されたりするんだよ。心臓を失ったら死ぬんだよ? 母さん、ちゃんとわかってるの? 母さんが死んだら誰がお弁当を作るんだよ。僕も父さんも無理だよ。目玉焼きすら作ったことがないのに。カップ麺しか作ったことがないのに。 「母さん……ねえ母さん……返事してよ……」  やっぱり僕じゃ駄目だったの? 偽者の僕じゃ満足できなかった? 本物の瑠人じゃないから、彼に会いに逝ってしまったのかな。ごめんね母さん、僕が不完全で至らないばかりに。幸せにしてあげられなくてごめんね。  でも曽山瑠人ってどんな子だったのか、よくわからないから。やっぱり僕には難しすぎるよ、母さん。  僕は、青白い母さんの頬をそっと撫でた。思った以上に、その肌は冷たかった。  もう僕は――母さんの極上オムライスを食べられないのかな?  学校の弁当だって冷凍食品を一切使わず、栄養バランスの取れた完璧なものだった。怪我をして帰れば取りあえず病院に連れて行かれる。気分が悪いと言えば取りあえず学校を休ませる。  そんな過保護な温室で育てられている僕だが、居心地は悪くなかった。  本来なら息子を失っているはずの母さんだけど、僕という存在がその過去をリセットした。  そして母さんは曽山瑠人を二度と失わないように、ずっと僕を守ってくれていていた。  ……なのに。  刹那――ドタッ、ガタッと、何かの物音が響いた。 「なんだ?」  この部屋じゃない。まさか、犯人がまだ潜んでいる? 強盗犯か、それとも一家惨殺を目論む凶悪犯罪者のつもりなのか。 「……はははは」  馬鹿馬鹿しくてヘドが出る。仮にそんな馬鹿なことを考える犯人がいたとしても、僕はきっと返り討ちにするだろう。ドッペルゲンガーの身体能力をなめられては困る。ミンチにしてハンバーグにして美味しく食ってあげるよ。  気が狂ったみたいに、我ながらかなり人間離れしたことを考えつつも、本気で実行してやろうかと僕は思った。 「ちょっとだけ待っててね、母さん。今らから悪い奴をやっつけてくるから」  モノになってしまった母さんにそう告げた僕は、そっとリビングを出た。 一階に誰かがいる気配はない。金目のものを狙っているのなら、犯人はおそらく二階にいる。  僕は肉弾戦を想定しあえて丸腰のまま、足音を立てないようゆっくりと階段を上がっていく。さっき思いっきり叫んだから僕がいることはバレているだろうが、犯人に僕の位置を特定されては困る。  僕の脳裏を怒りと憎悪が埋め尽くしていく。初めてかもしれない。こんなに、心の底から人間を憎んだのは。  二階に到着すると、今度はドスンッという重い響きの音がした。  母さんたちの寝室のほうからだ。部屋の前まで移動した僕はドアのレバーに触れ、ゆっくりとレバーを下げた後、勢いよくドアを開けた。  部屋は荒らされていた。タンスやクローゼットの中身が部屋に散乱している。そして開けっ放しになった硝子戸の外に、そいつはいた。  バルコニーの手すりに取り付けた白いロープにつかまり、今まさに降りようとしているそいつは鋭い目で真っすぐ僕を見ている。焦る様子もなく、挑発的なその目は奇妙なくらいに赤い。充血しているのではなく、虹彩そのものが赤く染まっている。  炎よりも濃く、鮮血よりも暗い、朱殷(しゅあん)色。  僕は思わず息を飲んだ。その目は明らかに、普通の人間とは違っていたから。  バルコニーが壁となって視線の下までは確認できないが、靴跡の大きさや髪型、眉の形を見る限りおそらく男性だろう。睨み合いをやめて僕は駆け出すと、赤い目の犯人は僕がバルコニーに近づく瞬間を待たずに、視界から消えた。 「ま、待て!!」  バルコニーまで移動した僕は、身を乗り出すように視線を地面のほうへ向ける。すると、スーツ姿の男が裏庭を走っていた。男を逃がすまいと、僕はバルコニーの手すりを乗り越える。  ロープも使わずに――そのままジャンプした。  普通の人間なら二階から飛び降りれば足にかなりの負担をかけるところだが、ドッペルゲンガーの僕はまったく平気だった。視界にはもう男の姿がない。僕が裏庭の門を出ると、男は近くに止めてあったバイクに跨っていた。 「逃がすか!!」  距離にして約十メートル。僕の脚力ならば一瞬で追いつける、そう思った。  だが――僕がスタートダッシュを切った時、バイクも同時に走り出した。バイクは徐々に加速する。  でも、まだ遅い。まだ……間に合う。滅多に出さない僕の最高加速度を出し、バイクとの距離を縮めていく。  あと少し。あと数センチ。  あと数ミリまで近づいたところで――僕はバイクの後部に触れる。  車体のランプとナンバープレートの隙間に手を突っ込み、ナンバープレートを掴んで勢いよく自分のほうへと引き寄せた。 「このぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」  バイクは後輪が道路を擦って唸りを上げ、前輪は持ち上がり、その勢いでプレートが外れる。傾いたバイクは前方へ走れず、逃げ場を求めて空へと飛び出す。  そしてバイクは空中で一回転し、犯人は投げ出され、最後は犯人もバイクもアスファルトに強く叩きつけられた。  バイクは壊れて機能停止。ヘルメットをかぶっていなかった犯人も頭を強く打ったらしい。僕が顔色を確認するまでもなく、血を流して気絶していた。 いや……これはもしや、死んだか?  まあ、それでもいい。母さんの仇がとれたのだから、むしろ喜ぶべきだ。正当防衛じゃないから僕もタダじゃすまないけど、少年院だろうがどこだろうが喜んで行ってやるよ。  でも待てよ。単なるバイク事故に見せかけてしまえばいいじゃないか。犯人を追いかけていたら犯人が焦って事故ったってことにしよう。うん、それがいい。一応、僕の指紋のついたナンバープレートだけは綺麗に拭いておくか。  人が死んだかもしれないのに、僕は非常に冷静な気持ちでプレートをハンカチで拭いた。綺麗に拭きすぎたので、その辺の砂をつけて偽装した。  目撃者はいない。僕はすぐさま一一〇番通報をし、母さんが殺されたこと、そして犯人が事故ったことを丁寧に説明した。  ――これで僕の仕事は終わり。警察が来るまで、せめて母さんのそばにいてあげよう。  曽山瑠人に続いて、僕はまた人を殺めてしまったかもしれない。でも、どちらも仕方なかったんだ。悪く思わないでくれよ。  悪魔が悪魔らしいことを考えつつ、僕は犯人をその場に放置して自宅へ向かった。
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