サイダーと恋模様

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「ここに座って」  丸椅子を差し出されて、私はそれに腰掛ける。  先生は机の足元にある小さな冷蔵庫から氷嚢を取り出すと、それを私の手にそっと乗せた。 「少しの間、これで冷やしておいて」  手の甲にひんやりとした感触が伝わって、私は黙ったまま俯いた。 「今日は天気いいな」  先生はそう言いながら、保健室の窓を半分くらい開けた。 「そう、ですね」  蚊の鳴くような声で私が返事をすると、くるりと振り返った先生が初めて階段で会ったときのように笑った。  ごくっと喉を鳴らして、私は恐る恐る話しかけた。 「私、ずっと覚えてる事があって……最初の頃に、体育準備室に行く階段で先生とすれ違った事があって」 「えっ、俺と?」 「はい、あの、その時スーツ着てて」  先生は窓際で腕組みをして、記憶をたぐるように斜め上の方向を見上げた。 「あの時か」  先生は晴々とした顔をしてそう言うと、机の前へと移動して、棚から包帯とハサミを取り出した。  キャスター付きの椅子をカラカラと音を立てて私の目の前まで運んでくると、その上に腰を下ろした。 「覚えてるよ、あの時の佐藤さんのこと」 「ほんとですか」 「俺が教師になって初めて"おはよう"を言った生徒だから」  体の奥でまた、自分ではどうしようもできない熱が大きく膨らみ出すのを感じた。  先生は氷嚢を退けると、そっと私の手を取った。  もう一方の手で包帯を丁寧に巻き付けていく。  私は無言でじっと先生の手を見ていた。  大きくて厚みのある掌と節くれだった指、紛れもなくそれは大人の男の人の手だった。  ねぇ、先生。  この手でその人に、どんな風に触れるの。  柔らかな髪を指先で掬い、薄い唇をなぞり、ほっそりとした首筋を撫で……きっと、その先は。  途端に体の中で破裂しそうに膨れ上がっていた熱が、凍ったように冷めきって縮まっていくのを感じた。  この手がそんな風に触れるであろう身体が、羨ましい。  どうして、私じゃないんだろう。  包帯を巻き終えて、その手は静かに離れていった。 「俺は戻るけど、少し休んでいくか?」 「……はい」 「わかった」  先生は微笑みながら頷くと、ギシッと椅子を軋ませて立ち上がり、私の横を通り過ぎて行く。  肩越しに振り返って、私は心の中で唱えた。 振り向いて。もう一度だけでいい、私のことを見てほしい。  縋るような思いで、じっと後ろ姿を見つめた。  その願いも虚しく、先生はこちらに一瞥もくれず、保健室のドアを閉めた。  保健室の四隅まで、静寂だけが満たしていく。  この世にたったひとり、取り残されたみたいだった。  私は椅子に座ったまま蹲り、声を押し殺して泣いた。
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