さよなら

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 人の悪意を識別できるようになり始めたのは随分と昔のことだった。  当時小学四年生だった僕にとって、世界に落ちているあらゆる悪意というものは、影に潜んでいるものでなく、白昼の下に堂々と晒されているものだった。そしてそれは、それから数年が経過した今でも変わっていない。  確かその日は、僕が十歳の誕生日を迎えた日だったと記憶している。おめでたい日だったから、今でもよく覚えている。 そんな日に、僕はカーテンが閉め切られた薄暗い部屋の中で、母親に強烈な右ストレートをお見舞いされていた。 その頃、まだ体重が三十キログラムに満たなかった僕は、冗談抜きでその拳によって二メートルほど吹き飛ばされた。 初めに感じたのは何の受け身もなく身体が床に叩きつけられる衝撃で、次第に殴られた頬にじわじわと帯びている熱を伴う痛みだった。 自分が母親に殴られたという事実に、そこまで衝撃はなかった。むしろこうして殴られなかった方が心配になるくらいだ。僕らにとっては、これはどこにでもある普通の日常だった。 僕を真に驚かせたのは、自分の中に芽生えた不思議な力だった。 僕のことを殴り飛ばした母親は鬼だって怯えて逃げていってしまいそうなほどの形相で僕を睨んでいたが、僕の視線が集中したのはそれよりを少しばかり上の方だった。  つまり、母親の頭部である。  奇妙なことに、母の頭部は透き通っているようだった。これは比喩ではなく、言葉の通りに透き通っているように見えたのだ。 脳みそが見えた、というわけではなかった。僕が捕らえたのは脳みそよりももっと概念的な何かだった。 その何かは光を全て飲み込んでしまうくらいどす黒い色をしていて、とても健全なものとは思えなかった。 とはいえ、その瞬間の僕は母親から身を守ることに必死で、自分に芽生えていたその力について深く考えようとすることはなかった。  そのときに見えた〈何か〉が〈悪意〉であると自分の中で結論を付けることできたのは、それから数ヶ月ほど経過したときの話だ。  その時点の僕は多少の違和感を覚えながらも、すぐに母親の頭部から視線を逸らし、自衛のためにリビングの床の上で小さくうずくまっていた。  本能的に身体が震えていた。脳髄よりももっと深いところで、自分の生命の危機を前に怯えていた。  しかしながら、しばらく経っても母親から次の攻撃が飛んでくることはなかった。  僕は恐る恐る身体を広げ、再び母親の顔を覗いた。  彼女は大粒の涙を流して泣いていた。怯えて逃げたはずの鬼が、心配そうな顔をしながら戻ってきてしまいそうな、そんな涙の流し方を彼女はしていた。  第三者から見れば、とても彼女が自分の子供を殴った母親に見えなかっただろう。  彼女は涙を流しながら、床に倒れている僕に近づいた。そして、ゆっくりと僕の身体を起こすと、そのままガラス細工に触れるみたいに優しく抱きしめてきた。 「ごめんね、達也。ごめんね」  母さんはいつもこれだ。  一通り自分の気が済むまで僕を殴った後、人が変わったように僕を抱きしめる。  今思えば、彼女は飴と鞭の使い方をよく心得ていたのだと思う。  当時の僕には、殴られた後のこの歪な愛情が、ほかのどんな愛情よりも美しく思えていた。  母親に抱きしめられながら、僕の視線はまたしても彼女の頭部に注目していた。  先ほどまで真っ黒だった彼女の頭部はその瞬間だけ、真っ白い何かで満たされていた。  黒が〈悪意〉だとすぐには気が付けなかった僕だけれども、白が〈愛情〉であると一瞬にして断定していた。  そして、幼少期に見たこの純白を、僕は二十歳を過ぎた今でも度し難いほどに気に入っている。
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