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人の悪意を識別できる力が功を奏してか、僕は人生において誰かに騙されるという経験がなかった。
人を騙そうとしている人間というのは、すべからく頭の中に悪意を孕ませていて、僕はそれを識別するたびにその人間と距離を置くようにしていた。
半ば無菌室で成長したような日々を過ごしながら、僕は二十一の夏を迎えることになった。
実家のベランダが僕にとっては安寧の象徴だった。
夕空の下に広がる橙色の世界を覗きながら、僕はその世界に落ちている〈黒〉をひたすらに探していた。
ベランダから見える河川敷には様々な悪意が転がっている。足元に落ちている石を拾い上げて河原に向かって全力投球をしている高校生は、石ころと共に内にある悪意も投げ捨てているようだった。そんなやかましい高校生を高架橋の下で眺めているホームレスは、徐々に頭部を強烈な悪意で満たし始めた。
それからまた二つほど悪意を見つけた辺りで、背後から聞こえてきた物音が僕の鼓膜を揺らした。
それは厄介な同居人が動き出したという合図であり、同時に自身の刹那的な安寧が崩壊したという合図でもあった。
僕はベランダを後にし、家の中に入る。
未だに物音は忙しなく響いており、僕はその音を頼りに階段を降りて台所へ向かった。
台所では母親がまるで夢遊病患者のように冷蔵庫を漁っていた。
「母さん、夕飯は僕が準備するから部屋で眠ってて」
僕ができる限り優しく声をかけると、彼女は冷蔵庫を空けたままこちらを覗いた。
「あんた誰だい?」
やれやれ、またこれか。僕はため息をつきたくなる気持ちを抑えながら、根気強く母親を説得して彼女を部屋の中に戻した。
若年性認知症。母は二年前に四十八歳という年齢でその病を患った。
頭痛やめまいを訴え出したのが始まりで、彼女は次第に抑うつ状態に陥るようになっていった。その結果、大学生にもなった僕に暴行を加える機会が少しずつ増えていった。
何かストレスを止めこんでいるんだろう、と初めは思っていた。父はかなり昔に蒸発していたし、一人で子供を育てるのはそれだけ大変なんだと同情しながら、僕は自分の身体に傷が増えていくことを黙認していた。
それが若年性認知症の初期状態だったと知ったのは、取り返しがつかないくらい彼女の物忘れが激しくなり始めたころのことだった。
母親は仕事を辞めなくてはならなかった。そのくらい、その病は深刻になっていたからだ。そして、僕は大学に通いながら彼女の面倒を見なければならなくなった。
はっきり言ってしまえば、随分とストレスの溜まる日常生活だった。なにせ、僕が面倒を見ているのは十数年前からずっと僕の身体を痛めつけている張本人だ。
本当なら、弱っている今がチャンスだと首を絞めてやりたいくらいだ。
だが、僕は二年の月日が流れてもそうすることはなかった。
遥か昔に観測していたあの〈純白〉が僕の頭から離れないからだ。
夜になると、正常に一度きりの夕食を終えた母親は寝静まり、僕に再びの安寧が訪れた。
流石に空は闇が深まるばかりで、ベランダに行ってもつまらなかったから僕は黙って自室の中で大人しく本を読むことにした。
人並よりも孤独な自覚はあった。大学にいるとき以外はアルバイトで金を稼ぐか、母の世話をするかの二択で、当然友人と遊んでいる暇はないし、恋人だってまとも作っていられない。
今だって、いつ母が起きてきて深夜徘徊をするのかわかったものではないのだ。
だが、この日、そんな僕に神様からの贈り物が届くことになる。
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