待ち人

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待ち人

 松本優希に初めて会ったのは20代の頃、新宿にある行きつけのゲイバーだった。  俺が店に来た時、既に男から言い寄られている様子だったが、そんな事も目に入らないぐらい俺は優希に目を奪われていた。俺はなんとか二人の間に割り込み、積極的に話しかけていたが優希が俺に興味を示したのはバーテンダーが俺に酒を渡しながら「かんちゃん、珍しく必死じゃないの」と話しかけて来たときだった。 「柴田さんってかんちゃんって呼ばれてるんだ、可愛いね」  そう言って微笑んだ優希に俺は心を鷲掴みにされ、その後はこの界隈でそこそこモテていたプライドをかなぐり捨て必死にアプローチ。何回かの逢瀬の末、見事優希の恋人のポジションを得ることができたのだった。  優希は美しい見た目もさることながら、とても気立が良く周りからも好かれる最高の恋人だった。可愛い笑顔で笑ってくれるのが嬉しくて優希が喜ぶことならなんでもしたし、優希に勧められれば煙草でもなんでも優希の好みのものに変えた。  付き合って知ったことは、18歳で東京に出てきたこと、祖母が死んでからは天涯孤独の身であること。逆に言えば優希はそれ以外の過去のことはあまり話したがらなかった。そんな優希が一人の時にたまに寂しそうな顔をしていることを知ったのは偶然だった。ひとり窓の外をぼんやり眺めながら物思いに耽る姿が妙に色っぽくて、しばらく俺はその姿に見惚れていた。あんな顔をするのは優希の過去に関係があるのかとも考えたが、本人に聞いてもきっとはぐらかされるだろうことはわかっていたので、せめて俺といる時は優希に寂しい思いをさせないようにしようと密かに心に誓った。  最初の出会いから優希は俺のことをかんちゃんと呼んだ。みんなと同じ呼び方ではなく幹二と呼んで欲しかったが「かんちゃんって呼び方、可愛くて好きなんだ」と言われたらかんちゃん呼びも満更でもなかった。さらに言えばセックスの時、優希は俺の名前を呼びたがり、かんちゃん、かんちゃんと必死に縋ってくる姿が俺は大好きだった。  優希との付き合いは順調に続き、30歳で俺は優希にプロポーズをして当時はまだ珍しかったパートナーシップ制度を利用して晴れて優希と書類の上でもパートナーになることができた。この先もこの幸せがずっと続くとこの時俺は信じて疑わなかった。  優希に癌が見つかったのは40歳になってすぐだった。初めて聞いた時、俺は頭が真っ白になり事実を認められずいい歳して大泣きしてしまったが、反対に優希は落ち着いていて「僕のために泣いてくれてありがとう」と俺は逆に宥められる始末だった。  それからの半年はあっという間に感じられた。しっかりしろと自分を叱咤し最後まで優希を支えることを心に誓ったが、献身的なサポートも虚しく優希の病状は悪くなる一方だった。ただ、そんな状況でも優希は一切弱音を吐かず、周りには辛そうな姿も見せなかった。優しい優希のことだから周りに気を遣っているのかとも思っていたが、ある日一人の病室を覗くととても穏やかな顔で窓の外を眺めていて、俺は無性に切なくなった。一人静かに自分の死を受け入れてしまったのかもしれない。そして優希にそんな寂しいことをさせてしまったのは他でもなく自分なのではないか。そう思うと自分自身にすごく腹が立った。天涯孤独の身だった優希には自分しか頼れる人がいないのに…。  その日を境に俺は変わったと思う。思えば自分はずっと優希のパートナーになれたことに浮かれ、大事なことが見えていなかったよに思う。覚悟を新たにした自分の変化は周りも感じるようで、優希から「看護師さん達が雰囲気変わったって言ってたよ。何かあった?」と言われたりもした。  それから半月ほど経つと、優希は起き上がることも話すことも辛そうにするようになった。ベッドに横になる優希がときどき何を話すでもなく「かんちゃん」と俺を呼んでくれる声が愛おしくて、束の間の穏やかで幸福な時間を噛み締めながら過ごしていた。  そして訪れる別れの時。もう目を開けることすらできない優希は「かんちゃん」と掠れる声で何度も俺を呼び、その度に「ここにいるよ」と俺は優希の手を強く握った。最後に優希は「かんちゃん…向こうで待っているね…」と囁くと静かに息を引き取った。きっと残される俺が寂しくないようにそう言ってくれたのだろう。最後まで自分には勿体無いぐらい強く優しい恋人だった。  その後は優希の交友があった人に優希の訃報の連絡をしたり葬儀屋に連絡をしたりとバタバタした時間を過ごした。やっと一息つけたのは葬儀のときに偶然できた空き時間で、喫煙所に行くと優希の幼馴染の藤崎寛太さんと会う事ができた。優希が亡くなってからゆっくり優希を思う時間がとれなかったので、優希を知る人と話せたことはとても良い息抜きになった。  優希がいない日常にはまだ慣れないでいる。長い時間を共に過ごした部屋はどこか広く寂しく感じられた。それでもこの部屋には優希との幸せな時間の思い出も詰まっていてる。優希の色に染まった生活からは優希の存在を感じられるし、目を瞑れば俺の名前を呼ぶ声が聞こえる気がする。生きられなかった優希の分もこの日常を前向きに生きていこうと思う。優しい優希が向こうで安心して待っていられるように。
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