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西日が差し込む駅のホームで、普段なら目を向けない時刻表を眺めていた。
「はぁ」
いつもならもっと早く帰っているのに。やるせない時間の遅れに、気怠い気持ちが胸を満たしてしまう。
こうなったのも、帰る前にプリントを職員室まで運ぶよう頼まれたからだ。別に、わたしじゃなくてもよかったはずだ。あの時、先生の近くには他にも生徒がいたのに、わざわざわたしに頼んでくるなんて。こいつなら断れないだろうと足元を見られているんだろう。実際その通りだし、帰る前にちょっと寄るくらい全然構わないけれど、都合のいいやつだと思われているのは、やっぱりちょっとモヤモヤする。
それに加えて、用事を終わらせて駅に到着したその時、スマートフォンを机の中に置いてきてしまったことに気付いてしまったのだ。まだギリギリ取りに戻れる、一番嫌なタイミングだ。もっと早く気付いていたらすぐに戻れたし、家に帰っていたら諦めもついたのに。どうして一日に二度も高校に行かなくちゃいけないんだろう。
渋々忘れ物を回収して駅に着いた頃には、もう空は茜色に染まっていた。
この時間帯の駅は、いつもとは違う表情を見せていた。普段なら学生でいっぱいなのに、今のホームには誰も立っていない。遮蔽物をなくした冷たい風が、容赦なくホームを通り抜けては寂しさだけを残していった。何だか、どうしようもない今日の自分を責められている気がする。駅のホームって、こんなに寒かったんだ。時間を無駄にしてしまった無力感がどろりと背中にのしかかる。はあ、ダメダメな一日だ。
数分後、ようやく電車がやってくる。準急じゃなくて各駅停車だけど、もう面倒くさいからいいや。憂鬱を白い息に変えてドアが開くのを待っていると、誰かが後ろから声をかけてきた。
「香椎」
「……中富くん?」
それは、同じクラスの中富くんだった。
彼と話したことはあんまりない。だって中富くんはクラスの中心人物で、いつだって周りに人がいる。背が高くて、運動も勉強も一番で、おまけに人当たりがいい。彼に心を奪われたという子の話は数え切れない。クラスの女子のほとんどは、席替えで近くになることを祈っているだろう。
当然のように横に座られ、わたしは焦っていた。まさか、こんな状況がやってくるなんて。中富くんと電車でふたりきりなんて、みんなが夢見るシチュエーションだ。彼との間に座席がひとつ分空いていることに感謝する。ここに鞄を置いてなかったら、どうなってたんだろう。もし隣に座られたりしていたら、もう緊張でどうにかなってしまいそうだ。
「まさか、買い物帰りに香椎と会うなんて思わなかったなあ。そんなに長引いたの?」
「ううん。ちょっと教室に忘れ物しちゃって、取りに戻ってたら遅くなっちゃった」
「ああ、なるほど。災難だったな」
変な話し方になってないかな。どきどきしながら、中富くんの言ったことを振り返る。……あれ、長引いたってことは、わたしが押しつけられたこと、知っているんだ。あんなちょっとのやりとりなのに。自分を見てくれていたという嬉しさと、情けないところを見られていたという恥ずかしさが湧き上がる。
しばらくの間、わたしたちは電車の揺れに身を任せていた。どうしよう、何か喋った方がいいのかな。あれこれ話題を探していると、彼の方から口を開く。
「もうじき期末だな。香椎は勉強進んでる?」
「うーん、まあまあかな。中富くんはすごいよね、全部九十点以上なんでしょ?」
「いやあ、できるようになるまでやってるだけさ」
「そこまで頑張れるのがすごいよ」
「香椎も頑張ってんじゃん。授業終わりに分からないところ聞きに行ったりさ」
胸の奥が小さく跳ねた。そういうとこ、見てくれてるんだ。うわ、まずい。口元が緩んでしまう。
「中富くんって、将来やりたいこととかあるの?」
嬉しさを誤魔化すために話題を変えると、彼は難しい顔をして言った。
「将来っていうか……今かな。俺、未練を残したくないんだよね」
「未練?」
わたしは首を捻る。あまり未練とは縁のなさそうな彼が、こんなことを言うとは思わなかった。
「兄貴がさ、酒を飲むとよく高校時代の話をするんだ。あの時仲がよかったあの子に告白していたら、何かが違っていたかもしれないって。毎回最後には『高校生活の価値が分かるのは大人になってからだ』って俺に言うんだよ。もう何十回も聞かされたなあ」
「お兄さん、残念だったね」
「まあ兄貴の恋愛話はどうでもいいけど、確かに三年間なんてあっという間だよな。だから、今できることは何でもやっておきたいんだ。遊びも勉強も一切手を抜きたくないし、色んなやつと仲よくなりたい。大体の人間は卒業してから、きっと会うこともないだろうし。どんなチャンスでも見逃して後悔したくはないんだ」
そう指を組んで話す中富くんが、わたしにはとても大人に見えた。わたしなんて、何も考えずただ学校に通っているだけなのに。同じ年代なのに、こうも考えが違うことが恥ずかしかった。
「卒業したら、みんな別々の人生を歩んでいくだろ。そう考えるとすごくないか? 今って、みんなの人生が重なってる奇跡みたいな時間なんだぜ」
「うん」
そう言われると、今の生活が本当に貴重な気がしてきた。わたしは、全力で楽しめているだろうか。
いつだったか、楽しいと楽は別ということを誰かが言っていたことを思い出す。確かにそうだと思えた。きらきら輝いて見える彼も、高校生活を謳歌しているように見えるのは、人知れず頑張っているからなんだ。
「格好いいな……」
心の底からの気持ちだった。だから、意図せずに口に出てしまっていた。
はっと気付いた時にはもう遅い。こんなの、もう告白じゃん。一気に顔が熱くなる。
「いや、俺はそんな人間じゃないよ。なんか偉そうなこと言ったけど、いつも肝心なとこで日和るし。根がヘタレなんだ」
彼はあまり深く考えず、軽い褒め言葉として受け取ってくれたみたいだった。ほっと胸を撫で下ろす。帰りが遅くなっていてよかった。車窓から夕陽が射し込んでいるおかげで、何とか顔色を誤魔化すことができる。
「それでさ、俺が違いますって言ったら……」
「えー? 本当?」
それからも、わたしたちは他愛もないお喋りを続けた。ホームであんなに陰鬱な気分になっていたことなんて、すっかり忘れていた。最悪な一日だと思ったけど、一日なんて眠りにつくまで、どうなるか分からないものだ。
ああ、楽しいな。各駅停車でよかったと思う。準急だったらすぐに着いちゃうもんね。もうちょっと、ゆっくり走ってくれてもいいんだけれど。ここまで次の駅に着いてほしくないと思ったのは初めてだ。
夕焼け色の床に映るふたりの影は、まるで映画のワンシーンみたいだ。今はみんなの人生が重なっている時間だと彼は言った。そうだ、今だって奇跡なんだ。こうしてわたしたちの影がここに映ることも、もう二度とやってこないだろう。とびきりのチャンスが、今来ているんだ。
卒業してから、わたしも後悔するのだろうか。あの時、勇気を出しておけばよかったって。大人になってから、当時の価値に気付くのかな。
……告白、しちゃう?
いや、絶対無理。そもそも、まともにお喋りしたのも今日が初めてなのに。でも、こんな機会はもう二度と……いや、もしかしたらこれから話すようになるかも……けど、そうやって言い訳してるうちに……。
心の中で悩んでいると、無情にも到着を知らせるアナウンスが流れる。中富くんはぱちりと目線を上げた。
「それじゃ、俺ここだから」
「あ、うん」
そっか、もう行っちゃうんだ。
もっと一緒にいたかったな。
ドアの前に立つ彼の背中を見ていると、どうしようもなく心が寂しくなってしまう。あと一駅だけでいいから、わたしの側にいてほしい。そう伝えられる勇気が、ほんのちょっとでもあったらなあ。
電車の減速がこの奇跡の終わりを運んでくる。ついに停止しようとしたその時、ふと、あることに気が付いた。
「あれ? この駅だったら準急に乗る方がよかったんじゃ……」
がたんと小さく世界が揺れ、開いたドアから溢れんばかりの茜色が流れ込んでくる。
同時に、振り向いた憧れの人と目が合った。
「わざとだよ」
そう言い残して、彼はさっと出ていった。
その意味をまだ理解できず、わたしは呆然とする。
中富くんの顔色も、夕陽に染まって分からなかった。
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