夜明けの烏

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夜明けの烏

 何故、学校に行くのか?  嘲笑と暴言がこびりついた机に、悪意と鬱憤の掃き溜めと化したリュックを音も立てずに置く。  何故、声を上げないのか?  乾燥した教室の中で一人だけ全身びしょびしょに濡れている。クラス中に笑い声が漏れる中、シラバス通りの演習問題を黒板に複写する数学教師。  何故、すぐに逃げないのか?  思い通りにいかない人生への憂さ晴らしに、孤児院の職員が冷めた目で裸の私を殴る。  孤児院にも学校にも居場所がないのは分かっている。でも質問の答えにはならない。足掻くことをやめたのは、いつだっただろう。気づけば流されるままに生きながらえ、体はもう大人の女のそれに成り果てるまでになった。 「うわ、くっさー」  生ゴミの中から悪臭を纏ったパンプスを見つけた私の背後で、聞き慣れたメスの群れのかん高い笑い声が鳴り響く。  小学生の時から同じ学校だった彼女らは、私すら見たことがない私の母親が、子育てもろくにしない男遊びの激しいクズ女だとどこからか仕入れ、それは瞬く間に広がった。ここ、N157地区は10年前に安全指定都市に認定されたばかりで、制度もさほど整備されていない。治安の悪いこの場所で、膿のように精神を蝕むストレスを吐き出す先を求めた結果、ちょうどいい餌が転がっていたということだろうか。しょうもない理由で虐めは産まれ、待っていても自然消滅する物でもないのだと知った。  お気楽な音楽が流れる帰路の商店街に、足元から微かに上がってくる生ゴミの臭いは不釣り合いだ。  豊穣祭。  嫌でも大きい横断幕が視界に飛び込んでくる。今夜から始まる年に一度の祭りに向けて、商店街全体が浮き足立っていた。ボロボロの制服で、悪臭を纏いながら通り過ぎる女子高生の姿なんか誰の視界にも入っていない。    バサバサッ!  商店街を抜けた先でゴミを漁っていた烏たちが一斉に大空へ舞い上がった。アー、アーと普段よりもけたたましく鳴き叫んでいるように感じる。明るい街の雰囲気に当てられ、烏までもが高揚しているのだろうか。  烏の自由な滑空を、虚な瞳で見つめる……刹那。  ドオオオン!  大きな重低音と共に、体が浮遊した。そのままコンクリートに叩きつけられ、揺さぶられる脳は体勢を立て直すことすら放棄した。目も開けていられない。  ゴオオオと目に見えぬ化け物の雄叫びと、轟く断末魔が恐怖を駆り立てた。動きたくても激しい振動が身動きを取らせてくれない。だが、大揺れは長くは続かなかった。転がってきた小石が私の指先に触れてピタリと止まった。  子供の泣き声、救助を求む声、パニックで意味もなく話し続ける声。砂埃から現れた地割れと瓦礫の山に挟まれ、圧倒的に非力な人間たちが各々の表現の仕方で凄惨な状況を嘆いている。 「ナギサ!」  ハッと思わず声のした方を振り向いた。倒壊し面影もない商店街の瓦礫に向かって、女性がひたすらに私とよく似た名前を叫ぶ。ナギ、の二文字に反応した自分が情けなくなった。私の名を呼ぶ者なんていやしないのに。  惑う人々に共鳴するように暫くその場で突っ立っていると、上空から音声が垂れ流されてきた。最初は意味のない音がボソボソと届くだけだったが、ヘリコプターの騒音と共に言葉も明確に聞こえてきた。 「緊急事態宣言が発令されました。怪我人は救助隊が輸送しますので、動ける住民は、速やかに近くのシェルターへ避難してください」  ヘリコプターは繰り返しそう唱え、次第に離れていった。 「近くのシェルターって、どこにあるんだよ?」 「誰か防災マップ見れる人いない?私の携帯壊れちゃって」 「おい、安全指定都市じゃなかったのかよ、ここは!」  政府からの指示さえ新たな混乱を招いたようだった。速やかに動けとのお達しだが、家族が瓦礫の下敷きになっている者たちは、取り憑かれたようにその場から動こうとしない。一方、一つのシェルターのキャパシティにまで考えが至った者は、我先にとよく知りもしないシェルターに向かって走り始めていた。  あいつら全員、死んだかな。  私はといえば、奇跡のような惨劇に毒々しい希望を抱き、その場で動けずにいた。視界から手足の自由な人間が少しずつ減っていくにつれ、遠くの方から「出血はありますか」などと安否を確認する声が近づいてくる。私はその声から逃げるように歩き始めた。小さな打撲程度で済んだ若い体でも、シェルターに行ったところで命の選抜から落とされることくらい察していた。これまでだって、誰からも見向きもされなかったのだから。  丁度いいや。どうせなら、誰も私のことを知らない場所で一人で死のう。火の手が上がっているのか、遠くに見えた黒い煙に引き寄せられるように歩き続けた。
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